いのち 永遠にして(3)

「あの世」つまり来世、死後の世界の存在を前提とするか否かで死生観は大きく異なってくる。「あの世」の存在を信じていない者にとっては「死んだらそれきり」だが、その場合、生きている意味はあるのか?という疑問が必然的に生じる。若い頃は人生が無意味に思えて(ニヒリズム)、死ぬことばかり考えていたが、さりとて死ぬのが怖くて死ねなかった。


ところが、病気でもう助からないと思った時、世界が輝いて見えたのだ。http://d.hatena.ne.jp/moon2/20050715
これは特異なことではないらしい。真木悠介「色即是空と空即是色」(「気流の鳴る音―交響するコミューン 」所収)によると、敗戦後現地で処刑されたB級・C級戦犯の手記などには、死刑判決を受けて収容所に戻る時、「光る小川や木の花や茂みのうちに、かつて知ることのなかった鮮烈な美を発見する」体験がひとつのパターンとして述べられているという。
また、「たとえば鉄道自殺の未遂者が、空の美しさというものを衝撃的に発見する瞬時としても記録されることがある。」と。

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)


真木さんは、「一切の価値が空しくなったとき、かえって鮮烈によみがえってくる価値というものがある。」と述べ、「われわれの、今ここにある、一つ一つの関係や、一つ一つの瞬間が、いかなるものの仮象でもなく、・・・かぎりない意味の彩りを帯びる。」と言う。私の体験も恐らくこれと同質のもので、死を覚悟した瞬間に世界が輝いて見えるというのはこういうことなのだと思う。


そして真木さんは続けて、「一切の宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。すなわち我々の生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身に帯びる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすことにしかない。」と。
つまり、「あの世」を前提とせずに、またニヒリズムに陥らずに死生観を構築する道は、「今、ここにある」「鮮烈ないとおしさへの感覚」をとりもどすことにしかないと言うのだ。


これは平たく言えば、「今を大切にする」ということで、坂井泉水さんの言われた「一期一会」、「味わい深い日々」や「ここには過去も未来もない。今しかない。」(「止まっていた時計が今動き出した」)という世界観に通じているようにも思う。


さて、私は幸い死なずに済んだのだが、それ以来、死ぬことが怖くなくなった。それ以降の人生は、私にとって言わばオマケだから。そして今ではオマケの方がずっと長くなってしまった(笑)。


また、生き長らえてくると、自分が様々な「しがらみ」の中にあることが見えてくる。自分が生きてきたのはいろいろな人が支えてくれたお蔭だから、死ぬことは怖くなくても、勝手に死ぬことは人の恩を裏切ることになるし、悲しむ人も居るだろう。だから簡単に死ぬわけにはいかない。


以前の私の死生観を簡単に言えば、こんなところだろう。しかし、坂井さんが亡くなってから、それまでの死生観に合わないものを感じ始めたのだ。
そして、私の場合、死生観と言っても、自分の死という範囲でしか考えていなかったことに気付いたのだ。


(「真木悠介」は社会学見田宗介さんのペンネーム)


(続く)