村山修一『日本陰陽道史話』

日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)

日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)

安吾新日本地理』に続き、再び古びた蔵書から落ち穂拾い。30pくらいあるので前より多少豊作(爆)。

“奈良朝の陰陽家”以外は、『保元物語』と『平治物語』とおそらく*1台記』からポイントを抜き出して要約し、著者の解釈を述べたものと思われます。

翌天養元年十二月一日には、易筮をもって卦を立てる法を、当代一流の知識人で三十九歳の藤原通憲に教授するよう要請して承諾され、十一日より通憲を招いて教えを受けました。易筮伝授にあたっては、物々しい意義づけが行われました。頼長邸の寝殿西北の廊にその座を設け、通憲は西面し、頼長は東面しました。これは頼長の説明によりますと、むかし中国で周の武王が丹書を太公望から受けた先例に基づくというのであります。
通憲が先に卦をつくり、頼長がこれを見習って行いましたが、その時刻が夜闇であったのは人目を避ける意味があったのでしょう。深更の時刻に通憲が伝授し終わって辞去するとき、このことは余り人に喋るなと注意し、秘書『帖子銭蓍』を貸してくれましたので、代わりに『列見考定抄』を二帖を進呈しました。貸されたこの本は人にみせず、写したらすぐ返してくれといわれ、頼長は百日間寝食を忘れて書写しましたが、この本は今日遺っていないので内容はわかりません。あるいは銭をもって占う法が記されていたのでしょうか。
とにかく、通憲にとってはよほどの秘蔵本らしく、百日もかかって写されたからには量的にも相当な本であったのでしょう。成卦の法を習った翌日、頼長は朝廷に出す甲子革令の沙汰文を徹夜して書き上げました。いずれにしても摂関家の中心人物が陰陽家はだしでみずから卦を立て卜占をやることは余り好ましいことでなく、通憲も請われるままに教えたものの、ライバル意識もあって人に知られたくなかったのでしょう。

(久安元年)六月になって頼長は床に臥し、通憲に病を占わせると、午子日に平癒すると答えました。また卜筮は卜(亀卜)と筮(蓍卜)のどちらを先にすべきかについて、通憲と論争の末打負かしましたが、通憲は感歎し、あなたの才は千古に恥じぬ、漢土にても比類少なく、わが先達の学者たちにもひけをとらず、わが国には過ぎたものであります。かえって自分はそれを心配します。今後、易学の勉強はもうほどほどになさるがよいと忠告し、さながら頼長の運を見抜くかのようでした。
頼長はこれに何も答えず、心中得意であったのをみると、やはり通憲の方が一枚上手であったのではありますまいか。どちらも終りを全うしなかったのですが、通憲はそれを予知し、頼長は全く予測もしていなかったからであります。

こんな調子なので、頼長ファンの方には相当物足りないでしょう。
私は特に頼長ファンじゃないので(爆)これくらいがちょうどよろし。頼長ヒストリアは、春猿さんが“あの”頼長をやるから観たのよ。ちなみに本書の購入理由は覚えちょりません。頼長が理由ではないのは確か。
そういえば明智光秀も易学が得意で筮竹を用いて占ってました。にしては愛宕百韻の時に当たり出るまで籤引いちゃってますが、占いができるのと運の良し悪しとは関係ないっすからね(苦笑)。この愛宕と頼長が嵌められた愛宕は同じ愛宕山。スカベンジャーハント的に地味につなげてみました。

*1:というのも、この章に『台記』のたの字も出てこないので。