とりあえず、穂村弘を読んでみる

 ことしの5月から、月にいちど、穂村弘の本を読んでみる、というルーチンを繰り返しているわけですが、これはなにも、穂村弘を研究しよう! というような意気込みに溢れてのことではなく、
「ほかにどの本を読んだらいいか思いつかない」
「とりあえず、穂村弘の著作ならはずれなし」
 ……という、わりとしょうもない理由からです。かつては、この著者の本ならとりあえず読む、いわば「著者名買い」の作家はたくさんいたんだけれど、気付いたらみーんな鬼籍に入ってしまって、既刊を読みつくしてしまったのですよ。ほかに、鹿島茂も「とりあえず、はずれなし」なのですが、このひとの本ときたら、その8割がたがタイトルに「パリ」と入っていて、どれが未読でどれが既読か混乱してわからなくなったので、ほうりだしちゅうです。
 今月のほむ本は、この二冊。

どうして書くの?―穂村弘対談集

どうして書くの?―穂村弘対談集

整形前夜

整形前夜

『どうして書くの?』は、対談集。「書く」ことについての「喋る」というあたりがちょっとおもしろかった。なるほど「書く」ことについて「書く」のでは、「書く」という頚木から抜け出せないのだなあ。短歌を詠むときと小説を書くときのことばのコントロールのしかたについての川上弘美との対談が興味深かったです。
(そういえば川上弘美も、歌集じゃないけど句集を出していましたね)
機嫌のいい犬

機嫌のいい犬

 小説と短歌とでは書き方は違う、というのは、書かない私でもじつによくわかります。穂村弘著、は私にとっては「とりあえず、はずれなし」だけれど、それが小説となったらどうだろう……、と考えて、微妙だわあ。まず一冊は読んでみるだろうけれども。という結論に至りました。おもしろい随筆や評論を書くひとのものした小説がびっくりするくらいつまらなかった、なんて、よくある話です。*1
 ほかに、この対談集で衝撃的だったのは「穂村弘は自著の感想の書いてあるブログをネットで検索して読んでいるらしい」ということです。まあ、ありうるだろうことだけれど、こう明言されるのもめずらしい。穂村弘の本を読んだよ、と書くブログは多いのに、感想を添えているところの割合は少ないのは、まさか、そのせい?
『整形前夜』はあいかわらずのエッセイ集ですが、さいごにさらっと短歌の一首が添えられているエッセイが多くて、個人的にはよかったです。こうしてエッセイの文章のなかに短歌がまざっていると、きらっと硬質な光を放って(ゴシック体で印刷されているからというばかりではなく)、たった一行なのに、ぐんと広いイメージを呼び覚ます。同じ日本語なのに、ことばの密度がぜんぜん違うことがわかっておもしろいなあ。

*1:でも、歌人だと思っていたひとがいつのまにか小説ばかり書いていることってさいきん多い。私は小説も短歌も書かないけれど、一冊の本(商品)をつくるとしたら、小説のほうが歌集よりてっとりばやいのだろうな、と勝手な想像をし、そして勝手にかなしくなります。