安倍晋三の責任

 小渕恵三元首相の娘が自民党選対委員長になった。案の定、「政治とカネ」の操作を受けた際、コンピューターのハードディスクにドリルで穴をあけて証拠隠滅を図った過去が蒸し返されている。記者会見でも激しく突っ込まれた。ネット上でも槍玉に挙がっている。

 

 しかしである。安倍晋三のカネまわりが取り沙汰されたときに、こんな追及はされたか。されてはいない。実におざなりな、甘いものだった。安倍晋太郎から、後援会を迂回して遺産をフトコロに入れた時どうだったか。これが週刊誌で明るみに出ても、首相辞任でウヤムヤになり、何となく無かったことになったではないか。森友学園の時はどうだったか? 桜を見る会の時は? すべて、安倍晋三のでたらめな、二転三転する言い訳を何となく通してきたではないか。

 

 最高権力者だった安倍晋三には、責任を取らせねばならない。そう、責任は取らせるものなのだ。ロッキード事件をみよ。リクルート事件をみよ。あのとき、政治家が責任を取らざるを得ないところまで追い込んだではないか。

 

 政治家に責任を取らせてきた伝統を、今こそ思い出すべきである。

 

 確かに不幸なテロはあった。しかし、死に逃げは許されない。もって負の範例とせよ。

 

 

投票の秘密はなぜあるのか

 中学の公民で「秘密投票」を習います。誰が誰に投票したかわからない仕組みです。

 なぜ秘密投票のしくみがあるのか。

 これは、「小さな良心の声を拾うしくみ」です。

 たとえば、職場で上司から、誰それに入れろとか言われる職場がありますね。

 もし投票の秘密がなかったら、自分の信念に従って他の人に入れたことがわかると、様々な圧力、様々な不利益がふりかかるので、信念を曲げざるをえなくなるかもしれない。

 それではいけないと思うんですよ。

 それぞれの人が、自分の信念に基づいて投票できるようにする仕組み。それが秘密投票です。

 世の中がつちかってきた知恵だと思います。

仕事の能力の高め方

フランク・ベトガーという人がいます。
 20世紀のアメリカを代表する、今でいうカリスマ・セールスマンのハシリとも言うべき人です。

 ベトガーの『私はどうして販売外交に成功したか』(ダイヤモンド社)は、セールスの世界でこれを知らない人はモグリだ、みたいな名著、ロングセラーであります。
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 さて、『販売外交…』の本も良いんですが、実は、それに続く第二弾の本がさらにいっそう良いんです。
 あまり知られてないようなんですが…。

 それは、『私はどうして販売によって富と幸福を得たか』(ダイヤモンド社、1955年)です。

 もちろん本の中身も良いんですが、特筆すべきは、巻末の付録「13週間精進録」です。

 簡単に言えば、仕事をするうえで大切な目標を13個選び出し、それを週の目標として1つずつ毎日意識する。
 取り組みを13週間続ける。
 その13週間をくり返すことによって、全体のスキルをスパイラル的に上げていくというものです。
 
 実にいいんですよ。これが。値千金。
 元ネタはベンジャミン・フランクリンらしいんですがね。

 くだんの本は、大きな図書館に行けばあるでしょう。

 翻訳が生硬な感じなので、こなれた日本語に直して実践するとよいと思います。

 あと、13項目の中には、自分に合わないものもあるかもしれません。
 そんなときは、適宜アレンジして使ってください。(私はそうしています。)

文章の書き方―態度決定の方法

 意見を述べる文章では、何もかも書こうとしなくてもよい。言いたいことを絞りこみ、思いきって書くほうがよい。
 たとえば、「情報化社会の光と影、功罪の両面を検討し、将来への提言を行う」だと、論文レベルになるだろう。(もちろん、本気でそれを目指すことじたいは一向にかまわないし、むしろ応援したいところではあるが…。)
 ここはむしろ、「情報化社会の問題点を、実体験をまじえて、人間関係に及ぼす負の影響について述べる」という感じでまとめると書きやすくなる。

 

 さて、AとB、二つの立場があるとする。そのどちらかの立場に立って論ずるとする。
 AとBとのどちらをとるか。ふつうは、その場でパッと決まる。しかし、なかなか決まらない場合もありうる。そういう時はどうするか? よいやり方がある。

 

 紙を横長にして、真ん中に円を描き、タテに線を引く。右をA、左をBとする。
 そして、Aの立場に立つとしたらどうなるか、思いつくままにキーワードをバシバシ書いていく。
 Bについても同様にする。
 すると、明らかに書きやすいなあ、アイディアが次々に浮かんでくるなあ、という方向がハッキリしてくるだろうう。その立場を選べばよいのである。
 あとは書くだけ。

 

 ところで、もし仮に、「ウンコ味のカレーかカレー味のウンコか」みたいな愚問であった場合は、いったいどうすればいいのか?
 実は、これにも対処法がある。続きをお楽しみに。

 

戦後は伝統である―我々が今なすべきことは何か

 GHQマッカーサーによる日本の占領とはいったい何だったのか、根本から考える必要がある。
 戦争に負けないと日本が変わらなかった、変われなかったというのは残念なことである。
 とはいえ、農地改革もできた。憲法も新しくなった。こうした諸々は、我々の初心といってもいいように思う。(皆が同時体験したわけではないので、むしろ伝統というべきかもしれない。)
 それは、内外の数千万人の人びとの犠牲の上に成り立っており、たいへんな重みをもったものだと考えている。
 だとすれば、我々のなすべきことはおのずと明らかだろう。

 なかでも私は、言いたいことを堂々と言うこと。言論の自由を行使することが、いま何よりも大切なことであろうと思う。(それができない世の中になってしまってからでは遅いのである。このことは、戦前の歴史を見れば簡単に推測できよう。)

わがマイブーム、軽音楽篇

 
 小学生の頃はロックもジャズもキライでしたね。「私バカよねー」とかそういうのがよかった。

 しかし、それがその後見事に反転するから人生というものはわからない。

 カーペンターズに「イエスタデイ・ワンス・モア」という歌があって、「シャラララー」や「ウォウォウー」がすべて今なお光り輝く、などと歌っていますが。私の場合の「エンヤーコリャヤ」とか「ヘイヘイホー」とかは果たしてどうなのか? ううむ。

 ロックやジャズといっても本当に様々あります。敷居の高さ、敷居の低さも様々。

 たとえばマイルス・デイヴィスなんかは、むかしベスト盤か何かを聴いて、これはあれだ、人間存在の不安がどうこうというようなある種の古臭い文学の匂いだな、どうもなーと敬遠していました。

 しかし、マイルスはベスト盤とかではだめだ、理解できないって話はあって、その通りなんだよね…。

 きょうびインターネットはジュークボックスみたいなものでしょう。ガンガン聴けるんで、あれこれとあさっていたら、いい! "madness"にせよ"riot"にせよ"pharaoh's dance"にせよ、すごいね。圧倒されました。

 そんな感じで、古典的作品をひもといていく楽しみは尽きません。
 

原爆投下の責任が問われるべきだ

*[議論]原爆投下の責任が問われるべき

 

 太平洋戦争(アジア太平洋戦争)を振り返っている。

 

 あらためて思うのだが、原子爆弾はやばいね。人が人の上に落とすものではないね。アメリカはいったい何なんですかね?

 

 原爆投下は、明らかに人道上の罪というべきだろう。しかし、その責任を取ったものは誰もいない。アメリカ大統領だったトルーマンの墓を暴いて鞭打っても足りないと思うよ、本来は。

 

 勝てば一切がチャラになる? そんな馬鹿げた話はないよ。

 

 今からでも原爆投下の責任を問うべきである。