続・佐々木輝雄と「教育の機会均等」――備忘メモ

今日のこれは備忘メモである。まだ読み始めたばかりなので本格的な考察は後日に譲る。私はその前に萬年先生の著書を読まなければならない可能性がある。

佐々木輝雄の「『教育の機会均等』概念のパラドックス」という考え方は読み取りが難しい。しかし,これは考察の「鍵」である。学校でできる職業的レリバンスある教育は所詮きわめて限定的――これ自体は誰も否定しない事実だ,なぜなら「学校」は「職場」ではないし「教育」は「しごとの実践」とは異なる――だとする技能訓練論的リアリティと教育学の前提,普通教育と職業教育との相克,というよりその制度設計,あるいは,複線型から単線型へという学校体系の歴史的変遷そのものの今後の見通し,教育制度と労働市場との接続問題の構想(あるいは――もしもお望みなら――生存を保障するベーシックなセイフティーネットの構想) etc.......

正直,佐々木輝雄自身が,何をどこまで考えていたのか,まだよくわからない。幾重にも想定できるように書かれてある(現在読んだ範囲内で)。日本語が下手w? というよりは,今日的に深読みが可能な問題設定を――“本質的な”問題設定を――30年以上前に提示している,と捉えるほうがよいのだろう。

本当にそれは「パラドクス」という言葉で指示されるべき事態なのか。「概念の」(内在的な)パラドクスなのか,それとも「概念」と「制度」との齟齬の問題なのか,あるいは,「理念」と「歴史」とのズレの問題なのか――それとも上述の「技能訓練論的リアリティ」のやや高尚な(もってまわった)物言いなのか。

ともあれ,これは本格的な考察の立脚点として意義ある問題提起である。いずれ(可及的速やかに)私はこの問題提起に応答すべきである。以下,太字部分は森ではなく,原典において佐々木自身により傍点がふられた箇所である。

換言すれば,その「教育の機会均等」の保障とは,学校制度内教育の機会均等の保障であった。

かかる「教育の機会均等」概念は・・・高く評価できるものである。しかしこの評価と同時に,かかる「教育の機会均等」概念が歴史的所与の条件の下で,現実的重みを持つためには,次の二条件の充足を必要不可欠としたのである。

即ち,(1)教育学的に教育的営みがすべて,「学校」で行われるべきことを証明できること,(2)「学校」で行うことが物理的に可能であることである。

勿論,教育の現実はかかる条件の充足と矛盾する。つまり,学校制度内教育の機会均等概念の限界である。換言すれば,その概念は教育制度史上きわめて重要な意義を内在しながらも,しかし,所与の条件の下において「教育の機会均等」を保障しようとする時,きわめて限定的な概念であったのである。

教刷委第13回建議の「教育の機会均等」概念,「学校ではないけれどもクレジットを与える」の狙は,まさにこの問題に迫ろうとしたのである。

と言うのは,建議によれば高等学校の「教育の機会均等」の保障が,単に理念の段階にとどまらず,現実的意味を持つためには,6・3・3・4学校体系に象徴される,いわば制度的整合性の追求と,第3項建議に象徴される,いわば制度的非整合性の追求のパラドックスによって,はじめて実現すると認識するからである。

素朴に読めば,佐々木のいう「『教育の機会均等』概念のパラドックス」とは,「制度的整合性の追求と制度的非整合性の追求のパラドックス」であるが――その程度は私にも読める――,しかし,その場合の「制度」とはなんのことであろうか,そして「パラドックス」の水準はどこに。私の目にはこれは,教育学の文脈でいうところの,学校体系の歴史的「進化」の図式に抵触する《リアリズム》の表明であるように映る。そこに意義がある。私の思うところでは,既存の教育学系の思索は,《この可能性》をおそらく考察の埒外におく。

佐々木によれば,実際に実現された「教育の機会均等」の保障とは,「学校制度内教育の機会均等」,すなわち,「第13回建議の『教育の機会均等』概念の切捨の故に,部分的な保障に過ぎな」いものとなった。彼によれば,そのことが,進学率の上昇=教育の大衆化の進展にともなって「学校間格差を助長し学校教育の空洞化を拡大させることになった」基盤である。

ここには理論と歴史を架橋する思索の強度がある。

われわれは,これを「文部省と労働省との縦割り行政」のみに還元しないような考察へと引き継いでいくべきである。