「さとにきたらええやん」をみにきたらええやん

いやほんまに。みたらええやん。

たしかにシン・ゴジラも面白いかもしれない。とくにゴジラの暴れっぷりはよかった。「よい」っていうのもどうかと思うが、あくまで映画的に。けれどあれにはあんまり「ひと」がでてこない。

「さとにきたらええやん」。重江良樹監督のドキュメンタリー映画(2015年、100分)。初監督作品。公式ホームページはこちら。舞台は大阪市西成区釜ヶ崎。この「日雇い労働者の街」で、38年にわたり、地域の子どもや親やその他のひとびとの居場所であり続ける「こどもの里」を撮る。音楽は地元・釜ヶ崎が生んだヒップホップアーティストのSHINGO★西成。

この映画には「ひと」がでてくる。ひとが育ち、生きていくのに必要で、大切な、たいていのことがでてくる。ただしゴジラはでてこない。

2008年、映像学校在学中に思いつきで釜ヶ崎の街に足を運び、「こどもの里」と出会った重江監督が、ボランティアとして通い始めて5年ほど経った2013年に「映画にしよう」と撮影を開始。社会学にたとえるなら(なぜたとえるのか)、ボランティアとして参与観察に入り、5年間フィールドワークを進めて2年で執筆、みたく考えると、さしずめ本作品は「博士論文として提出したものをリライトして単著を出版」的なところだろうか。(たぶん違う

(失礼なことを言っていたらごめんなさい。)

撮影を始めて半年、メインの登場人物も絞れてきたところで知り合いの監督に撮影した映像を観てもらうと、「カメラと人物の距離が遠い。もっとかかわれ。こんな撮影では何も伝わらない」と言われ、カメラを回すことでその場の空気を壊し関係性を壊すことを怖れていた臆病な自分に「ハッと」気づく、というくだりもどこか大学院のゼミでの研究報告&検討のやりとりが髣髴として興味深い。

さて、「こどもの里」である。外形的に言えば、いわゆる「学童保育」的な、しかし受け入れ対象年齢を限定しない居場所提供事業、親や子ども自身からの依頼による緊急一時保護・一時宿泊、さらに親子分離の長期化が判断されたときに児童相談所から委託される「里親」、ファミリーホーム(児童養育)事業等からなる、包括的な子ども支援の場(2014年度からは乳幼児とその保護者を対象とした「大阪市地域子育て支援拠点事業」(つどいの広場)も開設)。

ニーズを見つけ、現実に応じて、なんでもやる。福祉の基本。

館長は荘保共子さん(通称・デメキン)。大学卒業後まもなくボランティアで釜ヶ崎の子どもたちと出会い、人生が一変。1977年に聖フランシスコ会のハインリッヒ神父が始めた高齢労働者のための食堂(「ふるさとの家」)の2階を間借りし、「子どもの広場」を開設。その後「守護の天使の姉妹修道会」が引き継ぎ、1980年にいまある場所で「こどもの里」としてオープン。一方で、ここにも橋下徹市長による大阪市政は影を落としていて、2013年には大阪市の「子どもの家事業」は廃止、こどもの里も存続が危ぶまれたが「NPO法人こどもの里」を設立し、存続。

(余談だが、「子どもの家事業」廃止を謳った橋下徹市長の繰り出した論理はめちゃくちゃである。試しに、「児童いきいき放課後事業」「子どもの家事業」「留守家庭児童対策事業」あたりでググってみて、それぞれの利用料・利用可能時間・(想定)利用対象層を比較し、考えてみてほしい。そのうえで、なかであえて「子どもの家事業」を廃止するということがどういう帰結をもたらしうるか、想像してみてほしい。そして、橋下市長が何を言って、「子どもの家事業」を廃止したかも。)

不安定な生活のなかにある子ども、だけでなくその親、のみならず地域に住む人びと、へのサポートを無料で提供する。遊び、学習、休息、「避難」、生活相談、教育相談、宿泊場所の提供。いつでもあいてますし、泊まれます、何でも受け付けますし、何でもききます、利用料はいりません。

こどもの里では、「こども夜回り」という活動と学習会も行われている。夜、釜ヶ崎で野宿する人びとを「里」の子どもたちがまわり、言葉をかける。さとにきたらええやん、いつでもおいでや、なんとかなるて。

メインに描かれるのは「里」にきている3人の子ども。だがすべては映画を観てほしい。どんなエピソード紹介もすべてネタバレ。これはそういう映画である。だから映画館に足を運んでもらいたい。

登場人物はみなそれぞれの事情を抱えながら、笑い、ときに泣き、怒り、ぶつかり合い、支え合いながら生きている。そんな様子を衒いなく、まっすぐに映し出した作品は、さわやかである。もちろん、ここに描き出さ(/せ)なかった現実の、深く重い暗さはあろう。だがこの映画は、まずは「光」をきちんと「光」として描くことを選んだ。その選択を私は支持したい。あとで振り返って、初めて発表した作品にはのちの作者の「すべて」が凝縮されていた、ということはよくある。この「さとにきたらええやん」も重江監督にとってそういう作品になるのかもしれない。

昔、なにで読んだのかもうまったくすっかり忘れてしまったが、なにかのマンガで――べつに「名作」でもなんでもない、なんかのスポーツ漫画だったような――登場人物の男が、自分の言動を深く反省するシーンがあった。その男は、だれか自分より年下の、たぶん中高生ぐらいの男の子の前で、その男の子の父親を悪しざまに罵ってしまった、そのことをとても激しく悔いていたのだ。あんなふうにあの子の父親のことをあの子の前で言うべきではなかった、と。でもその男の子自身も父親のことをとても強く憎み、軽侮しているのだ。「だからそんな気にすることではないでしょう? あの子自身がいつも言ってることですよ」と慰める別の登場人物を遮って、その男はなおも言う、

「いや、どんなに憎み、軽蔑しているとしても、子どもにとって親は特別なんだ。自分の親が他の誰かに目の前で罵倒されて平気な子どもなんていない。自分が罵倒するのとは、違うんだ。それなのに、おれは。。。」(大意&記憶をもとに創作)

自分の10代の頃に読んだそのシーンを変に覚えている。

この映画を観て、一番にそのことを思い出して、映画鑑賞後に購入したパンフレットにあった荘保さんのインタビューを読んでいたら同じことが書いてあって、やっぱりそうだよなと思った。

どんなにひどいとこちらが思う親でも子どもにとっては親は親。こどもは親が大切で大好きな「宝」なので、親を何とかしたいといつも思っている。だから子どもが生きるということは、親の生活、しんどさも知って親との関わりも大切になってくるんです。

まああとむつかしく言うと福祉、ケアとか、教育とかそういうことになるんだけれど、そういう問題領域においてて考えるべきたいていのことはでてくる。そのための「ポイント」は随所に埋め込まれている。ひとつだけ、荘保さんのインタビューで、「こどもの里」のような子ども包括支援センターは一つの中学校区に一つぐらいあったらいい、と語られていたことはここに書いておきたい。たとえば学童保育は一小学校区に一つ、子ども包括支援センターが一中学校区に一つ(もちろん人口規模やなんやかやによる)。

ところで、この映画を観てもう一つ思ったのは、メインの登場人物のひとりの高校生のマユミちゃん、である。おれ、この子ぜったい見たことあるわ。

いや、この子とは会ってないよ。この子とは会ったことないんやけど、こんな子いっぱい会ってたわ。見たことあるわあ、こういう顔。前の職場の大学の、指定校推薦入試の面接とかでな。ああいう顔の、あんな表情する子はいっぱい見てたと思うわ。それを思い出して、とても懐かしかった。たいへんなこともあるんだけれども、周りに支えとなる大人もいて。

しばらく引っ込んでいた、前の職場でまた働きたい欲が、ぶり返す。

公開からもうずいぶん経つが、9月16日(金)までのポレポレ東中野(東京)や第七藝術劇場(大阪)でのアンコール上映をはじめ、10月にはシネマチュプキ・タバタ(東京)、シネマ尾道(広島)、そのほか今秋中に京都、鹿児島、金沢などなどで上映予定(詳細はこちら)。けれど、涼しかった風が肌寒く感じるようになる頃にはもう終わってしまっているかもしれない。行かれるなら、この秋、寒くなる前に。

なおこれを書くにあたって映画のパンフレットを大いに参照した。表紙は「こどもの里」の玄関からあふれだす、色とりどりの子どもたちのスニーカーの写真。ちょっと遠目にはテーブルに広げられた色あざやかなキャンディあめちゃんみたく見える。映画の雰囲気を伝えておもしろい。
(※2016-9-11修正。私としたことが。ここはやはり大阪なだけに)