依子(2) 捜査(29)

依子がバイクにまたがってから、胸で携帯が振動したのと遊歩道の通行人がぱったりと止んだのに気づいたのがほとんど同時だった。依子の胸で振動するバイブレーターの音さえも響くように周囲は静まり返っていた。

この静寂はまるで編集前のフィルムのようだと依子は思った。
生まれたての映画のようだと。

カラカラと回る映写機だけの音が響くあの空気を依子の五感はまだ覚えていた。全ての音が後から慎重に付け加えられるのを待っている。

胸から取りだした携帯の画面には「持倉」と連絡先が表示されていた。

それで幾分安堵して耳に押し当てると

「依子さん、TVでニュース見ましたか?」と堰を切ったような持倉の声が響いた。

ただならない声の気配に依子は緊張した。

見ていないと答えると持倉が一気に喋った。

「高間真一が今朝逮捕されました。山梨の栗本米蔵の実家屋敷への不法侵入、現行犯逮捕です。
ただし今現在高間真一本人は重体。逃走時、栗本の家を警備する者に銃で撃たれたそうです。」

依子は目を閉じた。
ふと昨晩会った後、街の中に消えていく高間の背中を思い出した。「ちょっと遠出をしないとならなくて。」

持倉の話は続いていた。
「警察は銃器不法所持と過剰防衛の疑いで栗本側も調査中です。」
「所長は参考人で事情聴取ですわ。例のフィルム探しの調査報告書が高間の車の持ち物から出てきたそうで、まぁ仕方ありません。
もっとも顔見知りの刑事に逆に情報取材してる言うたほうが正しいですが」

依頼人一の容体は?」と依子。

依頼人?・・・」

「高間真一」と言うべきだった。

「・・・あぁ、かなり重体です。これも所長情報ですがね、どうも背中の銃創が精髄掠めてるらしい。背中を撃たれたらしいです。壁越えて逃げるところを」

栗本の屋敷のどこの壁だったのだろう。

「それと問題は高間の搬送先の病院です。勝沼町にある病院。日川総合病院。例の品川の会社に保管用レントゲン写真を委託していた病院です。まぁ偶然かもしれませんが・・・」

「私に何か用かしら?」

「はぁ? ・・・今なんて言いました、依子さん?」

だが、持倉が事務所の電話を握り返した時通話は突然切れた。

「依子さん?」
持倉はあきらめて受話器を置いた。依子の身に何かあったのか。

依子からは今朝女優の介護士の住所を訪ねてみる予定だと連絡が入っていた。さて、その消えた介護士の手掛かりは何か掴めたのだろうか。ついそんな基本的な情報さえも聞きそびれてしまったことを持倉は少し後悔した。

もう一度携帯を呼び出してみたが、今度は、通信状態が悪いか電源が入っていない、とのメッセージが繰り返されるだけだった。

依子は移動中だったのかもしれない。

持倉は自分たちの事件がその姿を大きく変えめたこの肝心な時に、一人、事務所の留守番をする形になってしまったわが身に溜息をついた。
「自分たちの事件」?。
そんな言葉は探偵事務所にとってはおかしな表現だが、依子にとってはまさにその通りだったに違いない。

持倉は、今朝になって何度も見返した古いビデオテープ映像を、事務所の古いアナログモニタにまた再生させた。

そこには今も昔もそう変わらない高校の学園祭の景色が映し出されていた。映像はかなり劣化しているものの映るものの輪郭ははっきりと見て取れた。

生徒たちの喧騒。稚拙に飾り付けられた教室の廊下。
その奥には「映画上映」とあり、「ねじ巻依子の冒険」と大きな看板が掛っていた。

映画は唐突に始まった。中心に白い文字で「ねじ巻依子」と字が出る。

仮面を被った白いセーラー服姿の少女が森の中の大きな木の上で足をぶら下げて座っている。
その仮面をかぶった少女が誰なのか、持倉は映画の中の少女が動くたびに再び確信を深めていった。

警察出頭前にそのビデオを探し出してきた当人の白石は、その映画を持倉に見せながら言ったものだ。

「不思議だったのはあの依頼人面会で、女優が「私の最初の映画をとり返してほしい」と言っとったことや。

彼女の最初の映画やったら高間真一が撮った「8ミリ映画」のはずや。

それが、盗まれたのは「劇場公開版の35ミリの映画」だという。

なんやおかしい。そう思った。病気で間違っただけかとも思ったが。

しかし仮にも映画女優が自分の最初の主演映画も分からないふうなのはおかしいやろ?

それとも「8ミリ映画」なんぞ映画の中に入らん言うことかとも思うたが、本人にとって「最初の」言うたら映画のフィルムサイズなんぞ問題ないもんや。
違うか?
それでピンときた。

あの女優の言葉が本当だとしたらどうなる?

つまり、あの女優の、最初の主演は劇場版35ミリ映画のほうだけやったんやないか。8ミリ映画の主演女優は別人だったんやないか。

それなら・・・元々の8ミリ映画で主演だった「ねじ巻依子」は一体だれだったのか?」

その「8ミリ映画」は確かに素人の学生が趣味で制作したものとは一線を画していた。たびたび観客の反応を映し出すビデオカメラの劣悪な画像を通してさえ、映画の魅力が伝わってきた。
主演の少女を映し出す手持ちカメラの映像が瑞々しく、白黒の画面の中で、仮面の少女は時には人形のように儚げに見え時には残酷な女神のように魔術を使って人々を狂わせた。やがて観客の学生たちも映画の世界に引き込まれていく様子がわかった。

その仮面をかぶった少女が誰なのか。持倉は、映画の中の少女が動くたびに確信を深めていった。それは持倉がよく知っている女性に違いなかった。

仮面をかぶっていたとしても、彼女の仕草や、手足の輪郭や、まるで重力を感じさせないように軽やかに歩く姿がまさに今でもそのままだったからだ。
映画はやがてラストシーンを迎える。
人間になった「ねじ巻」は、「ねじ巻依子」となって眼下に広がる葡萄畑を見下ろしていた。

そしてそのシーンだけ、映画はカラーになり、少女の目だけがスクリーンに映し出された。

見事な緑色の絨毯のような葡萄畑をパンしていく映像と少女の目のアップが、交互に映し出されると白石はここぞとばかに言ったものだ。

「人間の眼の色はだれにも変えることができない。」

次の瞬間、スクリーンに映し出された少女の瞳が縁側から鮮やかな緑色に染まっていくのを持倉は見た。