ホイットニー・ニューストンが死んだ

ホイットニー・ヒューストンが死んだ。彼女以上の歌手を僕は知らない。と言えば部分的にであっても嘘にはなるだろうけれど、「ホイットニー・ヒューストンが死んだ」というニュースが「マイケル・ジャクソンが死んだ」というニュースのヴァリューの辛うじて10分の3を保っている世界において、それほどに「ホイットニー・ヒューストンはすでに死んでいた」とは思っていなかった自分に対する処方が、とりあえずYouTubeを漁ることでしかなかったという事実に対しては特に思うところはない。

唐沢俊一化するならむしろ僕が死んだ方がましだが、親父のCD棚からギッたという意味でホイットニー・ヒューストンは僕が最初に好きになった洋楽アーティストだと思うし、その後ロックにのめり込むようになっても密かにブラコンを愛し続けた根拠をそれ以外に求めるのは難しい。ベスト盤のライナーノーツだったか、ホイットニーが「ブラック・ミュージックを白人に売り渡した」という記述についてその真偽にも大して興味はなく、『ロッキング・オン』とAORの倫理と、当時の僕をどちらが強く動機付けたのか、今となっては知る由もない。

ホイットニー・ニューストンについて、素晴らしいシンガーだったという以外何も言葉が思いつかないのは怠慢としてもらっても別に構わないのだけれど、彼女の歌う楽曲の素晴らしさ――ポップス市場に身を売り渡した「ブラックネス」――が最後の「アーバン」を主張したとするならば、グラミーのジェニファー・ハドソンの歌声はアメリカ国民へどのように響くか。ホイットニー・ヒューストンの死は悲劇でも何でもない。その歌は「アメリカ」でも何でもない。最高のシンガーをまた一人失うというありふれた事件を、世界はまた黙って呑み込むであろう。

アンジェロプーロスが死んだ

アンジェロプーロスが死んだ。自作の撮影中、車に轢かれて死んだアンジェロプーロスは、自らの身体――果たしてそんなものが存在するのか甚だ疑わしいが――をあまりにも非アンジェロプーロス的「現実」に曝すことで、結果的にその生をあまりにもアンジェロプーロス的に宙吊りしたと、ひとまずはそう認めざるを得ない。

嘘だと思うなら、今すぐ『旅芸人の記録』を、『シテール島への船出』を、『霧の中の風景』を、『永遠と一日』を、『エレニの旅』を観ればよい。アンジェロプーロスはまったく、生者と死者の臨界点を、映画それ自身の臨界点としてあるがままにフィルムへ収めるいとなみにその身を捧げた殉教者――と呼ぶにはあまりにも素朴な、一市民である。アンジェロプーロスにとって、言葉本来の意味における浪費そのものであるセットと長回しは、呼吸や排泄や性行為と同列のものでしかなかった。映画における時間は、作家の主観によるものでも、誰が何を要請したわけでもない。人が一生の長さを決定できないのと同じ意味で、それはある瞬間に立ち上がるショットの連鎖である。

僕が大学の映画サークルに入った当初、話題はアンジェロプーロス一色であった。先輩は皆、アンジェロプーロスこそが映画だ、映画とはアンジェロプーロスだと口走っていた。「映画は映画館で観られなければならない」という言葉にどれだけ抗ったとしても、丁度5年前、極寒の1月に暗闇の中観た『霧の中の風景』以上の映画体験を貧困にも持ちえない者が作家の死について語り得る言葉が幾ばくか、僕には想像もつかない。嘘だと思うなら同じ体験をしてみればいい。その機会が与えられるなら、作家の死はとるにたりないことではないか。

東浩紀『一般意志2.0』(0)

とりあえず一度ざーっと読んだだけだから拾えていない箇所が山ほどあるのは重々承知の上で、すげー曲解かもしれない「まじお前らの熟議とかドヤ発言とかその辺全部見られてっから自重でよろしく」って話には100%同意です。具体性が後半どんどん薄まるとか結局ニコ生マンセーなんじゃねとかやっぱ最後のノージックの話はいらねーんじゃねーかとかあるにはあるが、「『限定された空間での熟議』を公開することで得られる透明性」なんて論点には無論とどまらないわけで、「公共空間」と熟議の拮抗にこそそれはある。個人の履歴とパーソナリティが「私的」関係によって共有されうる閉鎖的熟議が、インターネット上に「公開」されることで、オーディエンスとパネラーの垣根が(便宜的に)取り払われた時に、あずまん自身が本文で記しているような席の交換は生じないかもしれないが、少なくとも現在のテレビ番組のようなヒエラルキーの絶対性にはメスが入ることとは思う。基本的にドヤってのは相手が自分より(限定的な意味でも)馬鹿だと思ってる時にしか発動され得ないものだから、それに対する牽制の意味で「民意」が取り扱われるのは、「夢」に対する反動かもしれないが、最も現実的なんじゃないかとは思う。

また、年末から『存在論的、郵便的』、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』を読み返して、あずまんにとっての陥没点がラカンではなくフロイトであるという点についてもかなり謎だとは思っている。郵便本において、ラカン象徴界-現実界の齟齬は単一構造内における欠落として示されているが、フロイトの「不気味なもの」は『サイバースペース』において主体の複数性を宙吊りにするまさに「決定不可能性」の要因として取り扱われている。『一般意志』において導入されたフロイトが熟議とデータベースの中間に置かれ、両者のヒエラルキーを無化するものであるとしたら、その運動自体が結果的に「公共」に開かれる、という議論は、まあ「夢」だと言われればもちろんそうなのだけれど、例えばそれを実現可能な規模がどれぐらいなのか、一読ではあまり掴めなかった。

つったってですね、それこそフロイトの無意識とか高校数学の虚数aとか濱瀬元彦の下方倍音率とか、そういうものでしかなかった(はずの)ルソーの一般意志がこうまで具現化されるってのはやっぱあずまんすげーって感じだし、単純に皮膚感覚として入ってくる。この点はすごく重要だと思っていて、なぜならそれこそが開かれた熟議の可能性を……っつーのはあれなんで、また次回!

すいません

今年を振り返るもクソもないんで、今歯磨きしてるんですけど歯ブラシ齧りながらホワイト&ホワイトが口から垂れてこないぐらいのあれでざーっと書きますけど。

だから今年どうこうってあれでもないんだけど、とにかく文学とか美学とか、本当に震災どうこうってあれじゃなく、自分の興味の中では後景にすーっと下がっていく現象が、これはいまだに持続しておりましてですね。本当に今年どうこうって話ではないんです。自分には文学が解らないんじゃないか、それはかなりやばいことなんじゃないか。っていうのは以前から感じていて、それが「まあ文学ねえ。うん。まあ。はい」っていうのは抽象的な興味の分野からも具体的な人間関係からも、たまたま今年固まっただけという話で。そこが重要なんじゃないのと言われたらもちろんそうなんだけれど、文学/美学側の人の技術論への批判がいかに具体性に基づいていないかってのは今年痛感したところで。震災の話も含めていいですけど、実学/教養の対比と言えばいいのでしょうか、実学批判もさすがにそりゃ限界でしょ。ってのが偽らざるところと言うか、何にも働きかけない抽象性に価値はあるのか的な。ここ何回かのエントリはまじで自分で読み返しても何言ってるか解らんので今回もかなりそうなる予感がしてきたがこっちは歯磨いてんだよしょーがねえじゃねーか。よし。

だから今年どうこうってあれでもないんだけど、とにかく映画が観れなかった。ここ数週間でまたぼちぼちって感じだけど、「映画的」なものの絶対性への懐疑がずっとあって、その対極にあるのが小津の『非常線の女』とウェス・アンダーソンの『ライフ・アクアティック』だったっていう。『Mr. フォックス』観てねえくせに。ジャンルへの接近とジャンルの破壊、その具体性にしか興味がなくて、つーわけで今年の1位は『ゴダール・ソシアリスム』、もっと言えばアルパカ。『アワーミュージック』を100回ぐらい観たのも今年か。反=美学としてのゴダールは実は最新作が極点じゃないかっていう。

胃痛を抱えながらルーキー・ア・ゴー・ゴーで観たceroの"大停電の夜に"が今年一番の曲です。

fragment 439

前回の続き。デジタル・ネイティヴ(あるいはそうじゃなくても)が過去のアーカイヴをインターネットから掘るにしても、2ちゃんねる→ブログ→mixiTwitter、あるいはその時期バズってる話題でそのアクセスが規定されるだろうっつー話。んでそういう細かい差異は後に遡行すれば全く無効化されるだろうっつー。たまたま今日読んでたんだけど『存在論的、郵便的』の序盤で言われてるデリダフッサール、あるいはリオタールの対比ってのはつまりそういうことで、可能性の束が現在へ収束されていくんじゃなく、「可能性の束」という存在自体が現在時制のエクリチュールの移動=散種によって「捏造」されたものである、って話とちょうど対になるんじゃないかとも思っていて、つまりこれは歴史を実際に経験した者と、エクリチュールとしての「歴史」によって知覚される言語学を前提とした者との思考の対比であって、あずまんの本は一章しか読んでなくて二章以降はほとんど忘れたというか理解も多分できていないのだけど、歴史を実際に経験した「私」自身が確定記述に還元されえない単独性を有する者であるとするならば、しかしその単独性とはそのままエクリチュールのことを指し、したがって「私」は過去および未来、未来完了時制における種々のコンテクストを移動するほかない――。

全然この間の続きじゃない。そもそもは世代の話をしてたはずなんだけどはっきり言って自分はある時期以降大して年齢差みたいなものを意識しなくなった気がしていて、いや実際は相対した際の立ち振る舞いとか敬語をどれぐらい含有させるかとか意識することは山ほどあるんだけど、それは単に年上の馬鹿と年下の鋭敏さを感じることが増えたからで、あとは前述の通り「記憶」の共有についても実年齢は無効化されたと思っているから(いやそれも半分無いぐらいね)、それとは別に確実に存在する個人の歴史観ってものも併せて考えればもう何が何でどうなのよ、って話で。それよりも自分が、個人の(単独性としての)「記憶」の話ばっかりしていることに気付いた驚きの方がでかくて、俺は一体何から逃れようとしているんだろう、何を取り戻したいんだろうってことを考えるよね、どっちかって言えば。テレビつけたらやっぱりAKB48が出ていて、例えばどういうナイーヴさがこれに合致するのかってふと頭をよぎる。

fragment 438

25歳になった(厳密には2日前に、だが)。何年か前から数え年の制度を導入したので誕生日に特に感慨もないし、意欲的な若者にありがちな、先人と自分とを比較して「若いうちに何か事を成さねばならぬ」という意識も薄い人間なので四半世紀ほぼたらたらやっていたのだが、それでもタモリのデビューまであと5年というところまでは来てしまった。まあ昔からほぼ年上の人としか交遊してこなかったので単に老成しているとかそういうことかもしれないのだけれど、その老成は自身の年齢的な「若さ」ゆえに成立するものであって、例えば僕が80年代の話をしても10代の少女は単におっさんが昔話をしているのと大差なく受け取ってしまうだろう。もちろんそこには受容するデータベースとそれを可能とするメディアの世代的断絶が存在する訳だけれど、微細な「世代」分化を嗅ぎ分けられない人間にとってそれは単なる過去の集積でしかない。ほとんどの現代人が平安と鎌倉の古文を読み分けられないように。

「10歳」という年齢差の内にはいくつの「世代」が含まれるのか。3年下れば一世代下なのか。インターネットによるアーカイヴ化の進行がそういった「世代」感覚を無効化させるというのはよくよく聞く話であるが、一方で個人が持つ人生と時間は絶対的なものである。僕はインターネットを含む様々なメディアで「歴史」を学んだけれどそれは個人の内部以外には醸造されない「歴史」であって、10歳上の友人に彼らの知らないチェッカーズ電気グルーヴの話はできるが、そこに現れるのは「世代」の消失ではなく、かつてとは全く別の「世代」の顕現である。それは40年代のジャズを聴くことが若者の表現であった80年代のイギリスで起こったことと同じであると同時にしかし、そこには「40年代のジャズを聴くことが若者である」という別の水準での「世代」の決定権が存在し、その堆積こそが「若さ」をどんどん遠ざける……。

過去のアーカイヴからメディアによって恣意的に選択された「歴史」の堆積が、やはりそのメディア自体の歴史の推移によって断絶されるとすれば、その堆積こそが新たな「歴史」であろうか(ふむ。続く)。

「戦争-映画」論序説、あるいは『最前線物語』について

戦争映画が実際の戦争に「似る」ことと、ある個人が戦争の「記憶」を戦争映画に投影することとの距離について考えるならば、それは戦争ではなく映画を巡ったものになる。というよりも、何かが何かに「似る」という現象自体、「記憶」に補完されたものであるが故に、映画と戦争のあいだには茫漠とした地帯が広がるのみだと言えよう。

茫漠地帯は死体で埋め尽くされる。「戦争-映画」の死者が一瞬でスクリーンから消え去ろうと、ヒロイズムで包まれようと、彼らは映画の「記憶」に葬り去られる。死者は一方で、奇跡的に生き延びた兵士を不意に背後から襲うことでその存在を辛うじて主張する。殺人者は殺すが、また殺される。その身体に死者の痕跡を刻みながら生きたクリント・イーストウッドは、「戦争-映画」の「記憶」に撃たれたのである。

一方で、「戦争-映画」における死者の弔いを宙吊りにし、ニュー・シネマの裏面で「遅延」を描いたジョージ・A・ロメロが、その『サバイバル・オブ・ザ・デッド』で少女をまるでジョン・フォードのように描いてみせたことが、「遅延」の解放=死者の葬送である――というのは早計か。

最前線物語』における馬がぎりぎり『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を凌ぐとして、戦争と映画の最良の邂逅がここにあると言い切ってしまうことの何割が興奮による過剰であろう。生者と死者の物理的距離が、散弾銃とナイフによって変動し続けるこの映画の、茫漠地帯の不定こそが、わたしたちの「記憶」を揺るがす。