森田悌の徒然随想 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-01-16 文在寅政権

韓国文在寅政権が、平昌冬季オリンピック北朝鮮を参加させる問題で、北朝鮮に押されっぱなしのようです。北朝鮮側は核、ミサイルアメリカに対抗しようとの戦略の下でブレることなく、オリンピック参加、芸能団派遣を云い立てているのに対し、文在寅の方は漠とした融和策の下で、核、ミサイルの廃絶に道を付けるといった主張ですから、北朝鮮にいいように引きずり回されても、致し方ないようです。慰安婦に関する朴槿恵時代の日韓合意についても、破棄しないまま破棄するような主張をしていまして、マトモな戦略があるとは思われません。どこかへ秋波を送るだけが能の感があります。できるという目算がないのにできるといい、世の嘲笑を浴びながら退陣した、かつての鳩山由紀夫を思わせるところがあります。核、ミサイルの廃絶はもちろんですが、北朝鮮の現状をどう見、それにどう対処するかを明確にしたうえで対処しない限り、北朝鮮に引きずり回されるのは当然のようです。

2018-01-15 埼玉県埋文事業団

当たりたい文献があって、埼玉県埋蔵文化調査事業団まで行って来ました。ここの図書室の図書部外者も利用できますので、遺跡等関係の文献に当たるとなると、好都合な施設です。予定していた文献はすぐに当たることができ、その限りでは結構でしたが、そこに小生が知りたいと思っていた記述がなく、目的は達せませんでしたが、それは仕方がありません。歩いて往復しましたが、風はなく、楽に歩を進めることができました。大芦橋の上からは、上毛の山々、そして冠雪した谷川岳浅間山が望見されました。上毛三山のうち赤城榛名山ははっきりと見えますが、妙義山は低くなるせいか、くっきりという訳にはいきません。大芦橋から見ますと、浅間山と重なるようです。

2018-01-14 塚前古墳の石室石材、続き

小生、千手院の前庭塀際に並べられている黒っぽい石は、塚前古墳の石室で使われていた切石で、房総半島方面から搬入されたものではないか、と推測してみましたが、参考にしたのは、偶然インターネットで見た落合道人という方の「薬王院の境内は房州石だらけだ」という写真付きの文章でした。落合さんは「古墳期には同所(鋸山周辺)には大規模な石切り場と加工場が存在し、関東各地の古墳造営に大小の石材を供給していた」と指摘し、下落合薬王院に現在する、近くの古墳から持ち込まれた石室で使われていた房州石(砂質凝灰岩)を、写真付きで紹介しているのですが、それが千手院の石にそっくりなのです。落合さんの書きぶりを見ますと、古墳時代に鋸山から砂質凝灰岩を古墳石室石材として切り出していたのは、常識と解されるようです(埼玉では兎も角、東京都内では常識になっているのではないでしょうか)。先にこのブログで書きました高橋・本間論文で、古墳時代に鋸山から古墳石室石材を切り出すことはなかった、と解されるような書き方をしているのは、矢張り誤解を招く行文でしょう。稲村坦元さんの云っていることは(『埼玉県史』第一巻)、落合さんの書かれていることに通じています。

2018-01-13 塚前古墳の石室石材

塚前古墳鴻巣市袋に嘗て所在した古墳で、『吹上町史』によれば、石川六郎さんの祖父が畑から多数の秩父緑泥片岩の板石を掘り出し、其れより所在が知られるようになった古墳ですが、板石は現に石川家の庭の敷石として使われており、一緒に掘り出された宝篋印塔5基(中世人が作り、古墳の上なり石室内に安置していたのでしょう)の方は、石川家の菩提寺である千手院の南前提に置かれ、現在は別所に安置されています。ところでこの千手院の南前庭を見ますと、塀際に如何にも古墳の石室で使用したと思われる黒っぽい切石が10数個並べられています(黒っぽい色は雨風に当たったことによるのでしょう)。小生、千手院の南には愛宕神社古墳所在していますから、この古墳で使用された石の可能性を考えるのが順序だと思いますが、塚前古墳に由来する宝篋印塔がおかれていたことに注目しますと、案外に塚前古墳石室絡みの石材と考える余地がありそうに思います。緑泥片岩のみで石室を組むことはないでしょうから、塚前古墳石室絡みで適当な切石が使われていて不思議でないところでして、宝篋印塔とともに千手院へ持ち込まれたとみるわけですが、かなりの蓋然性があるように思います。ところでこの石ですが、多くの小礫が混じっている砂岩質で、比企、𠮷見産とはみなしがたく、一の可能性として荒川水運路を使って房総方面から持ち込まれた、とみることが出来そうに思います。

2018-01-12 房州穿孔磯石、続き

小生の高橋・本間論文批判を、さきたま史跡博物館学芸員が理解できないような風であった、と書きましたが、同論文の埼玉県内での影響の程を考慮すれば、当然という事になります。それは措いて、小生のこれまでの試行錯誤の中で最大の間違いは、袋神社の石碑周りの石について、『吹上町史』に載っている写真から判断して、石碑近くのかなり大きな石を房州石のことと思ってみたり、石碑のまわりにある石を房州石とみてしまったことでした。写真には写っていませんが、周辺やく1メートル程の所に、半分以上埋もれて白い石がサークル状に並んでいますが、これが房州石(ただし穿孔磯石ではありません)なのだと思います。房州石には白っぽいものもあります。上岡良氏が石灰岩にみまちがえたのも、無理がない石です。『吹上町史』の写真は真に不適切なのですが、多分稲村坦元さんあたりから得た知識を半解のまま、奇妙な写真を載せてしまったのでしょう。稲村さんなら白っぽい石を房州石と判断して、不思議はないと思います。上述しましたように、白っぽい石は半分埋もれてしまっていますが、できればまわり掘ってみたいものです。

2018-01-11 房州穿孔磯石

房州穿孔磯石とは、高橋一夫・本間岳志「将軍山古墳房州石」で石工の世界で使われる房州石と異なるという意味で「房州石」と表記されているもので、小生、行田市埼玉さいたま史跡博物館に展示されているものを何度か見ていますが、更めて見て見ようと思い、歩いて行ってきました。普通に歩いて40分ほどの行程で、小生にとっては、無理のない距離です。展示されている「房州石」は茶色っぽい泥岩の様で、穿孔貝が孔を開けるとしたら、無理なく開けられるだろうな、と思わせる石です。高橋・本間論文ではここの穿孔石について淡灰色をしている、と書いていますが、今回お願いして一緒に眺めた館の学芸員はベージュ色と言っていまして(茶色とベージュ色とでは、同じでしょう)少なからず、不思議な思いがしました。ついでに小生、此の学芸員に(石室石材にくわしいということでした)三嶋神古墳と千手院で拾った今は消滅している袋塚前古墳の石室石と思しき石の出所について教示を仰ごうと思い、破片を持参してきましたので、見せてみますと、三嶋神古墳の石に関しては比企・𠮷見産とみて不都合はない、千手院の石に関しては、比企・𠮷見産ではなさそうだ、という証言を得ました。この証言は小生の思っていることと同じで、三嶋神古墳と塚前古墳の石室石材の違いは、前者が礫がほとんどない砂岩、泥岩なのに対し、後者は小さな礫が多数が入っています。小生、後者は房総方面から持ってきた切り石ではないか、と思っているのですが、稲村坦元さんあたりの記述しているところを見ますと(『埼玉県史』第一巻、埼玉県1950年)、小生の推測にはかなりの蓋然性があると思っています。このあたりについては、試行錯誤しながら(文字通りの誤解を経ています)、このブログで書いています。この学芸員に小生の、房総の切り石が古墳時代武蔵に入ってきていないとする高橋・本間論文批判を言いますと、理解できないような風でしたが、これは致し方ありません。

2018-01-10 作業日

今日は水曜、恒例の作業日ですので、畑へ出て仕事をしました。先週始めた果樹の剪定の続きで、柿の無駄枝を切り、キウイの切り詰めをしました。キウイには男木と女木があり、受粉のために男木は不可欠ですが、茂らせる必要はありません。実を付けないせいか、男木は元気よく伸び、詰めるのに苦労します。伸びる枝はまっすぐ伸びるのでしたら、整理がしやすいのですが、クルクルと巻き付く性格があり、処理するのがすこぶる面倒という事になります。午前中いっぱいこの仕事をしましたが、余り使うことのない鋸やハサミを使いますので、やはり腕や肘のあたりが痛くなります。陽気の方は風がなく穏やかな冬晴れで,外仕事には好都合でした。