森田悌の徒然随想 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-08-19 角戸の津、続き

忍川A,Bを想定し、水運路としての性格に触れてみましたが、忍川Aは兎もかく、忍川Bについては従前の研究ではほとんど触れられてきていませんが、古代の北武蔵の動向に関し論じるとなると、論及することが不可欠だと思います。このあたりは小生の日ごろの散歩ルートの一ですから、一文を草するのも一興かと思います。今朝は涼しくなりました。朝4時ごろ雨戸をあけましたが、良く晴れていまして、放射冷却が働いたようです。天気予報ですと、今週末になると、再び暑くなるようですが、残暑といった程度で終わってほしいものです。

2018-08-18 角戸の津

小生、角戸について検討してきましたが、下忍集落の東側を流れて宿のあたりまできた忍川の流れは、東流して袋地先で元荒川へ流れ込む流路(忍川A)と、南流して前砂と明用の間を流れる流路(忍川B)とに分かれ、後者は小谷を通り𠮷見丘陵の下を流れる和田吉野川へ合流していたとみられます。付言しますと、古代の段階では久下から袋に至る元荒川は出現していません。結局、後代の元荒川の水は、古代にあっては忍川を流れていたことになります。このように流れを想定しますと、忍川Bは埼玉方面と古代横見郡(後代の吉見郡)を連絡する河川ということになります。忍川Aの先には、近年良く知られるようになっている野の築道下の河岸遺跡があり、忍川Bには角戸の津があったことになります。いわれるように築道下が埼玉のハブ港だとすれば、角戸の方は埼玉と横見地域を結ぶ役割を果たした津とみることができそうです。築道下と角戸では1.5〜2キロメートルほどしか離れていませんから、角戸の方は築道下を補完するような機能を果たしていた、とみうるようです。下忍宿と角戸の間には、現在水田となっている低地がありますが、この低地は潟湖状態をなしており、船溜まりになっていたかもしれません。因みにこの低地の南辺には、角戸三郎の屋敷地が所在していたという伝承地があります。

2018-08-17 8月後半

お盆が終わり、8月後半になりました。当地、昨日は秋雨前線の南下により降雨をみ、夜は大分涼しくなりました。昨晩は真、窓を開けて涼風を愉しみました。虫の鳴き声も、よく聞かれるようになっています。既に日の出は5時過ぎになっており、一時の4時ともなれば外が明るくなっていたころとは、様相を異にするようになっています。其れは措いて、小宅では購入したスイカを食しましたが、このスイカに不図、蕪村の「魂棚をほどけばもとの座敷哉」を思い出しました。今の小生、盆行事には関係ありませんが、生家で亡父が存命の頃、亡父が裏山の篠竹を切り、盆棚(魂棚)を作り、送り盆が終わった夕刻、少し暗くなったころ盆棚をかたずけ、座敷を元に戻したものでした。そしてこの時盆棚に置かれていたスイカを食したものでした。お盆にまつわる小生の記憶です。

2018-08-15 作業日

今日は水曜、恒例の作業日ですので、畑へ出て仕事をしました。キャベツなどの苗を移植すべき時期にきており、移植予定地の草取りや耕運機で耕す必要がありますので、それにとりかかった次第です。暑い時期だけに雑草が大分伸びていまして、やはりこれを除去するのは大変です。午前中いっぱいかけて予定している移植予定地は確保できました。時々市の広報アナウンスが、今の暑さは命の危険だという放送をしている中での作業でしたが、やかんに入れた水を側において、それを飲み飲みしながら鎌を使い、耕運機を動かしました。雑草の中ではカヤツリグサが増えてきていまして、猛暑とは言え、秋の風情を感じます。雨が降ったら、移植や種まきをすることができます。

2018-08-14 郡家道

角戸のあたりから南流する忍川の分流路が、𠮷見町御所の近くで和田吉野川へ合流することを考え、この分流路が北武蔵埼玉と横見地方を結ぶ水運路になっていた、とみてみましたが、郡家郡家とを結ぶ郡家道の観点から見ると、入間郡家坂戸市塚越)−比企郡家(東松山市古凍)−横見郡家吉見町御所)と進んできた郡家道は、御所のあたりから埼玉郡家行田市埼玉)を目指して進んだことが考えられます。郡家道も駅道に準じて直線道路を旨としていますので、御所のあたりと埼玉を直線で結びますと、行田市野のあたりを通ることが分かります。これより横見郡家埼玉郡家を結ぶ直線郡家道が、野→築道下遺跡のあたりを通っていた、と推測できることになります。こうなりますと、築道下のあたりは元荒川水運上の要所であるとともに、陸上交通上においても重要な地点であったことが考えられることになります。

2018-08-13 和田吉野川、続き

御所に横見郡家が所在し、横見地域と埼玉方面を結ぶ水運路と陸路が通っていたことを考えてみましたが、御所に隣接する黒岩で切り出された砂質凝灰岩が此の水運路を介して、埼玉方面へ運ばれていたのではないか、と考えます。明用の三嶋神古墳では石室材料として、秩父の緑泥片岩とともに砂質凝灰岩が使われていることが分かっていますが、後者は右水運路により運ばれてきているのでしょう。埼玉古墳群の北に位置する若小玉の八幡山古墳でも、砂質凝灰岩が使われていますが、黒岩あたりで切り出したものを水運路を介して運んできている、とみることができます。

2018-08-12 和田吉野川、続き

小生、吉見町御所のあたりで忍川の分流路が和田吉野川に合流していた、とみることができる、と考えますが、横見郡の中心が御所のあたりであったとすると、その由来を和田吉野川と忍川分流路の合流点であったことに求めることができるのではないか、と思います。川の合流点(分岐点)は自ずと交通が輻湊することが考えられ、その一例に元荒川綾瀬川を分流する(正しくは綾瀬川が元荒川の本流です)桶川市篠津のあたりでは、元荒川右岸に式内多気比売神社が鎮座し、その対岸、久喜市栢間には墳長100メートル級の天皇山塚古墳を含む栢間古墳群が展開しています。御所が隣接する黒岩には砂質凝灰岩を切り出した跡がありますが、御所のあたりは横見地域と埼玉を結ぶ水運路の拠点であったとみてよく、入間郡家坂戸市塚越)−比企郡家(東松山市古凍)から北上して横見郡家(御所)を通り、埼玉郡家埼玉)へ向かう郡家道が開削されていて、陸路の要衝であったことも推測されます。