備忘録的に。
蛇蓮。 現今小坂村字千田に属する天王の森の北方に坊地と称する所あり。是れ即ち往昔三光寺と称へられたる光徳寺・光琳寺・光専寺の旧跡にて、其の付近に狐山と称する所あり。其地に大蛇ありしに、之を殺しゝ時鮮血河水に入りて紅となれし。因りて其の下流を血の川と称し、蛇蓮と称する一種の蓮を生ぜり。其の葉蓮に似て直径四五尺許り、葉及び柄共に鋭き棘を密生して觸るべからず。花は唇形にして内面赤く、花托にも棘ありて其の状宛も蛇の口を開けるが如し。今は多く絶滅して見ること稀なり。其の果は拳大にして、中に豆大の粒顆を包含す。福千寺には此の果実一個蔵せり。
狐山というところに棲む大蛇を殺した時、その鮮血が河水を紅に染めたことで下流は血の川と呼ばれ、蛇蓮という蓮が生じた。
その葉は蓮に似て直径約4,5尺、葉及び柄にはともに鋭い棘が密生し、花は唇形で内面は赤色、花托にも棘がありその形は蛇が口を開けるようであった。
現在はほぼ絶滅して見ることは稀であるが、その果実の大きさはこぶし大、中に豆大の粒顆を包含し、現物が福千寺に蔵されている。
おおすじ、そういう話だが、『石川県河北郡誌』は「蛇蓮」の読みを示していない。
そこで、『加能郷土辞彙』を引くと、「ジャバス」の項目がある。
ジャバス 蛇蓮 → オニバス 鬼蓮。
「蛇蓮」は「ジャバス」と読み、また鬼蓮(オニバス)を指す語であるらしい。
指示に従い、同書で「鬼蓮」の項目を引くと以下のようにある。
オニバス 鬼蓮 古跡考に、石川郡直江のふごといふ水溜に、宝暦の比から初めて鬼蓮が生ひ出て繁茂したとある。鬼蓮は現に近岡の入江に存するが、往時は河北潟縁にもつと広く繁殖して居たと思はれる。直江村の記事は、湖水から離れた水溜である為珍しかつたのであらう。
(日置謙『改訂増補 加能郷土辞彙』、北國新聞社、1956年改訂、123頁)
オニバスが、「往時は河北潟縁にもつと広く繁殖して居たと思はれる」とある。『石川県河北郡誌』の「蛇蓮」も河北潟周辺の話である。
蛇蓮(ジャバス)という呼び名は石川県(の一部地域?)における鬼蓮(オニバス)の方言であるようだ。
『石川県植生誌』(1997年)によれば、オニバスは「一年生植物であるため、農業用のため池や用水路のような人工的な場所にもよく生育」し、石川県内では、河北潟南部のクリーク(水田中の舟で通う水路)に1969年まで存在したが、農薬投与や干拓、乾田化に伴い、今では見られなくなったとされる*2。
また、木村久吉『ずんべろ―北陸の植物雑記―』(1978年)は、石川県におけるオニバス絶滅の時期をよりはっきり記している。
同書によれば、一時期、現在の石川県金沢市北間町から大野川辺りのクリークに群生したオニバスは、1969年12月に金沢港工業団地の開発工事が本格的にはじまり、まもなく埋め立てられてしまったという*3。
オニバスは、現在、環境省のレッドデータブックに「絶滅危惧Ⅱ類」として登録されている*4。その危機的な植生状況は少しネット検索するだけでも多くの情報が出てくるので、ここではオニバスそのものについてはこれ以上詳しく触れない。
『石川県河北郡誌』が著された1920年の時点ですでに「多く絶滅して見ること稀」であったという石川県のオニバス=蛇蓮は、高度経済成長期を経て完全に植生地を絶たれ、現在では(郷土誌記述中の)伝説の中にその名をとどめるのみのようである。
【参考文献】
・日置謙編『石川県河北郡誌』、石川県河北郡役所、1920年
・木村久吉『ずんべろ―北陸の植物雑記―』、北國新聞社、1978年
・日置謙『改訂増補 加能郷土辞彙』、北國新聞社、1979年復刻第2版(1956年改訂版)
・石川県植生誌編纂委員会編『石川の自然環境シリーズ 石川県植生誌』、石川県環境安全部自然保護課、1997年