ダニエル・H・フット『名もない顔もない裁判所』と被害者参加制度

 裁判への被害者参加制度については以前(http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20070909)にも疑問を呈したことがあるんですけど、このダニエル・H・フット『名もない顔もない裁判所』にも被害者参加制度の問題点、そしてそれが裁判員制度とほぼ同じ時期に導入されることについての危惧か書かれています。

 第二の懸念材料が(裁判員が予断や偏見を持つことについて(引用者))、被害者が刑事裁判に関与する新たな制度である。二〇〇七7年に成立したこの制度によって、犯罪被害者ないしその遺族が、有罪が決定した後に量刑についての意見を述べるだけではなく、証人や被告人を尋問したり、最終弁論をしたりするなど、裁判を通じて参加する権利までも認められていることである。アメリカ人の目からすると、被害者の参加制度が裁判員制度とほぼ同時期に採用されるというのは、皮肉であるとともに、まさに衝撃的である。有罪・無罪の判断と量刑判断が分けられておれば、被害者は量刑判断の段階で自らの意見を述べることもありうるだろう。しかし、有罪無罪を判断する段階にまで被害者の積極的参加を認めるとなると、これは、裁判員と裁判官とを問わず、事実認定者を、偏見を抱かせるような無数の危険にさらすに等しい。これが合衆国であれば、有罪・無罪の判断の段階での被害者の積極的な参加が、被告人に公正な裁判への権利を保護する観点から、違憲審査で認められるとはまず考えられない。(310p)

 これはまさしくその通りだと思う。
 以前のエントリーでも書いたことだけど、被害者参加制度というのは「裁判にかけられている人は犯罪を犯した加害者である」という、裁判本来の趣旨からは外れた想定によって成り立っているもので、明らかにおかしい制度だと思う。
 しかもこの本の著者は指摘するように、まさに裁判員制度が始まるというタイミングでの導入。職業的な裁判官でも被害者の訴えには心が動かされる可能性が高いのに、素人の裁判官に対して被害者の訴えが植え付ける予断や偏見というのは取り返しがつかないほど大きなものじゃないでしょうか?


 これ以外にも、この本は日米の司法制度に通じる著者が日本の司法について論じた好著。
 タイトルの「名もない顔もない裁判所」という日本の裁判所のことで、「裁判員が世間の人からもよく知られ、その個性が非常に重要な要素となるアメリカの裁判所」に対して、「誰が裁判官であろうと同じ判決が期待される日本の裁判所」の姿を、裁判官の選ばれ方、裁判官のキャリアシステム、政治参加などさまざまなもんから論じています。
 また、戦後の司法改革について書いてある部分もあるのですが、そこで「なるほど」と思ったのが、GHQで司法改革にあたったのが、アルフレッド・オップラーというドイツ出身の法律家であったということ。
 「戦後、なぜ陪審が復活しなかったのか?」「司法の分野で比較的戦前との連続性があるのはどうしてか?」という疑問に答えてくれるのが、このオップラーの存在。ユダヤ系でドイツを追われた人物だったのですが、元はと言えば、ドイツの最高行政裁判所で判事補まで勤めた人物。
 GHQによる占領政策はのちの日本に大きな影響を与えたわけですけど、すべてがアメリカ化されたわけではないのですよね。
 GHQにいたドイツ系と言うと他にもG2を率いてレッドパージなどを行ったウィロビーなんかもいるわけで、意外と無視できない存在なのかもしれません。


名もない顔もない司法―日本の裁判は変わるのか (NTT出版ライブラリーレゾナント 40)
溜箭 将之
4757141696