訳者あとがきには「ウディ・アレンとタランティーノとボルヘスとロートレアモンを合わせたような奇才」との評価が引用され、帯には「チェーホフ、カフカ、ボルヘス、カーヴァー、彼らの作品の完璧な受容が、これらの作品の原点にある」と書かれている、チリ出身の作家ロベルト・ボラーニョの短編集。
こんなに脈絡も泣くビッグネームが並ぶと、「さすがにそんなのありえないでしょ?」と思うでしょう。実際、上記の名前のアーティストの作品にそれほど共通点があるとも思いませんし。
ところが、読んでみるとそのいくつかは納得できる。特に個人的にはタランティーノとチェーホフ、その全く関連のないような2人のアーティストが、コーマック・マッカーシーあたりのテイストを通して結びついている、それがこのロベルト・ボラーニョの『通話』だと思いました。
この短編集は短編集でありながら、マイナーな詩人たちの生き様を描いた「通話」、ロシアのマフィアなどアウトロー気味の世界を描いた「刑事たち」、女性たちの人生を描いた「アン・ムーアの人生」の3部仕立てになっています。
それぞれ違った味があり、どこから紹介するか迷うのですが、まずはタランティーノ、あるいはコーマック・マッカーシー的な部分の引用から。
あるとき、どんな女性が好みかと彼に訊いたことがある。暇つぶししか能のない学生のしそうな馬鹿げた質問だった。ところが、芋虫は質問を真に受けて、じっくり答えを考えた。ようやく彼は、静かな女、と言った。それからこう付け加えた。でも死んだ人間だけだよな、静かなのは。それから少しして、よく考えると、死人だって静かとは言えないな、とつぶやいた。「芋虫」(92ー93p)
なんとなく、タランティーノの映画に出てきてもおかしくないようなセリフです。
この「芋虫」とは主人公が公園で出会った男で、実は暗殺者の村の出身なのですが、そこから何かすごい話が描かれるのではなく、その芋虫という男の存在が描かれるだけです。
また、アン・ムーアという女性の人生と彼女にかかわった男たちを描いた「アン・ムーアの人生」の次の部分。
トニーは決して怒らず、決して議論をせず、まるで、他人に自分のものの見方を共有してもらおうとするのは全くの無駄であると考えているか、人というのは誰もが道を踏み外した存在であり、道を踏み外した者が別の道を踏み外した者に進むべき道を見つける方法を教えるなどおこがましいことだと思っているかのようだった。進むべき道など誰も知らないだけでなく、おそらく存在すらしていないのだ。「アン・ムーアの人生」(225p)
このあたりの人生観の書き方はコーマック・マッカシーにも通じるものがあると思うのですが、この話でも結局のところ、アン・ムーアの人生が淡々と描かれるだけで、何かオチのようなものはありません。
これは作家同士の交流を描いた冒頭の作品「センシニ」や、チリの社会主義者の息子で十代でソ連に渡りロシアのマフィアとの関わりもつようになった男を描いた「雪」などにも共通するのですが、ボラーニョは人間の人生を淡々と書いていきます。
「雪」などでは大恋愛もあるのですが、それも人生の一つのエピソードとして他のエピソードと同じように描かれており、そして最後に残るのは、人生の孤独であったり、ちょっとした何かであったりします。この何かをズバリ書くことは難しいのですが、何か人生の「哀しみ」や「意味」に関わることです。そして、このあたりの感じさせ方が少しチェーホフに似ていると思います。
また、奇想短編を思わせる「文学の冒険」なんて作品もありますが、オチだけが奇想短編とは違います。
とにかく、とらえどころのない才能の持ち主がこのロベルト・ボラーニョ。ラテン・アメリカ文学ブームが終ってからの登場ということで、僕も初めて知りましたけど、間違いなく優れた作家です。
さすがにガルシア・マルケスのようなポピュラリティーはないでしょうが、例えばプイグとかドノーソとかに匹敵するような才能ではないでしょうか?
残念ながら2003年に亡くなっているのですが、<エクス・リブリス>シリーズでは彼の長編の『野生の探偵たち』が刊行予定とのこと。非常に楽しみです。
通話 (EXLIBRIS)
Roberto Bolano 松本 健二