中井久夫『隣の病い』

 http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20090826/p1で紹介した『精神科医がものを書くとき』の続編と言っていいのがこの本。もともと、文庫になる前は『精神科医がものを書くとき』という1、2巻の単行本だったのですが、それが文庫化に際して再構成されて違うタイト類の2冊として刊行されたのです。
 

 解説ではこちらは「どちらかといえば軟」に当たる文章が集められていると書いてあります。確かに、旅行記や回想、文明論、死生観、昆虫についてのアンケートへの答え(!)、そしてギリシア現代詩についての文章など、精神医学以外の文章が多くおさめられているのがこの本の特徴。
 ただ、精神医学についても短いながら非常に内容の濃い文章がおさめられているので、『精神科医がものを書くとき』を興味深く読んだ人はぜひこちらの本も読むべきでしょうし、精神医学の難しい話には興味はないが、阪神淡路大震災などにおける中井久夫の仕事に興味があるというような人にはこの本がオススメです。


 中井久夫の文章は斎藤環が言うように箴言的で、中身を要約して伝えるのは難しいのですが、まず注目したいのは「サリヴァン統合失調症論」。
 20ページほどの文章ですが、アメリカで統合失調症の治療に大きな足跡を残したサリヴァンの業績、手法、人となりが圧縮して述べられていて、サリヴァンの入門にぴったりの文章になっています。
 サリヴァンの本はいずれも高いだけに(ほぼ、みすず書房ですし!)、サリヴァンに興味のある人は、この文章を読んで、さらにクヴァーニス, パーロフ編『サリヴァンの精神科セミナー』あたりを読むといいでしょう(中井久夫の訳であります)。


 また、10ページちょっとの文章ですが、治りにくい患者について分析した「難症論」も素晴らしい!
 印象に残った部分をいくつ引用します。

治療者も独りでは大変であるから、患者が複数の治療者を行ったり来たりしてよいと思う。無理に一対一の深い関係を維持しようとすると、かえって自殺などの事故を招くのではないか。(79p)

私は、前の晩よく寝ていない患者に、強力な面接を行うことはきわめて有害であると思っている。どんな精神療法家にも、これは避けていただきたいと言いたいくらいである。(80p)

薬を恐怖して精神療法を無害だとする人がある。薬は排泄されればおしまいである。精神療法のほうがはるかに永続的な影響を残す。失恋の痛手が生涯忘れられないのと似ている。体の傷のほうはこれほど執拗ではない。精神療法の有効性を物語るのは何よりもその失敗例の無惨さである(86p)


 また、阪神大震災の経験を語った「阪神大震災後四カ月」も必読。
 次の引用部分などを読めばわかるように危機管理についてのエッセイとして一級品だと思います。

問題が巨大であって、その中から何が出てくるかわからない時には、一般的対応能力のある人たちの集団を一気に投入して急速に飽和状態にまで持ってくることが決め手であることを私はこの災害(阪神大震災)において学んだ。(271p)

逆に、「情報を寄越せ」「情報がないと行動できない」という言い分は、一見合理的にみえて、行動しないこと、行動を遅らせることの合理化であることが少なくない。(271p)

 この他、文明論的に20世紀の戦争を考えた「一九九〇年の世界を考える」なんかも面白いですし、何よりも中井久夫の博識と、スコープの広さに驚かされます。
 一般の人には帯に紹介してある「「頑張れ」と「グッドラック」」あたりが読みやすいと思いますし、とにかくいろいろな楽しみ方ができる本です。


隣の病い (ちくま学芸文庫)
4480092668