速水融『歴史人口学の世界』

 速水融(名前はあきらと読みます)の研究についてはいろいろな所で聞いていたのですが、実際に本を読んだのは初めて。
 でも、これは面白い研究ですね。本書は岩波市民セミナーでの講義をまとめたもので、まさに歴史人口学の入門書といったものなのですが、それでも歴史を学んできたものとしてさまざまな新しい発見がありました。


 歴史人口学とは、歴史を「人口」の観点から見る学問なのですが、人口がたんに増えたり減ったりということに注目するわけではありません。例えば、増えたのなら何らかの出生率の増加や死亡率の減少が起きているわけですし、減ったのなら何か天災が起こったのかもしれません。
 人間は突然大量に出現したりすることはなく、すべての人間はその父親と母親の間から生まれてきます。一家が貧乏ならば子どもを生んで育てる余裕が無く子供の数を減らすかもしれませんし、逆に生活水準が上がって子どもの死亡率が下がったので、子どもをたくさん産む必要がなくなったという場合もあるでしょう。人口の動きに注目することで、その時代に生きた人びとの生活というものも見えてくるのです。
 

 ただ過去の人口というのは簡単にわかるものではありません。昔は今のような国勢調査もなかったわけですし、戸籍があったとしても今のように厳密なものではありませんでした。
 そこでヨーロッパでは教区簿冊という教会の洗礼や結婚や埋葬の記録を手がかりにその家族を復元するといった手法が取られました。教区簿冊に書かれた洗礼や結婚の記録からその一家に誰が誕生し、結婚し、さらにその夫婦に子どもが生まれたかどうかを調べていくわけです。
 そして日本では江戸時代の宗門改帳が使われます。これはもともとキリスト教を禁圧するために行われた信仰調査でしたが、多くの場所で江戸時代を通じて継続的に行われ、しかもその家のメンバーや年齢までも書かれているのです。
 この本では主にこの江戸時代の宗門改帳を分析しながら、江戸時代に人口や家族形態、そして人びとの生活を復元していきます。すごい地道な作業なのですが、この地道な作業を通していろいろなことがわかってきます。


 例えば、江戸時代初期の人口はだいたい1800万人くらいではないか?と言われていましたが、著者は江戸時代の石高と人口比率の資料、そして個々の町や村を見たとき17世紀は年1%程度の割合で人口が増えていることなどから1200万人くらいだったのではないかと想定しています。
 年1%の人口増加が100年続くと、人口はおよそ3倍になります。戦国の世が終わって平和になった17世紀が「大開墾の時代」だったことは大石慎三郎『江戸時代』中公新書)などでも指摘されていますが、このことは人口の増加からも裏付けられそうです。


 そして日本の各地域を見ていくと、東北や北関東では人口の伸びが鈍く、西日本、特に中国・四国地方での伸びが高いこともわかります。
 まあ、当時の米のことを考えると冷害の起きやすい東北は飢饉などが多く、商品作物の栽培がさかんであった西日本は経済的に豊かだったというのはイメージしやすいことです。ただ、北関東の減り方は顕著ですし、近畿でも人口の減少が見られる場所があります。これは意外に思う人が多いのではないでしょうか?北関東はともかく近畿は当時の日本で経済がもっとも発展していた場所だと考えられるからです。
 

 この謎の答えとして提出されるのが「都市墓場説」です。当時の都市は人びとが不衛生な状態で密集して住んでおり、さらに食料が値上がりすると都市住民はお手上げでした。そのせいもあって都市の死亡率は農村のものよりも一貫して高く、平均寿命もまた短かったのです。これは日本だけではなく、この時代のヨーロッパにも見られる特徴です。
 著者は「江戸っ子は三代続かない」という言葉を引いて、当時の都市がいかに危険だったかということを述べていますが(100p)、まさに都市は「墓場」でした。その「墓場」に人口を供給したのが北関東であり、近畿だったのです。
 また、当時の都市と死の問題について著者は次のように書いています。

 江戸時代の都市では、人間はいつ死んでもおかしくなかったことになります。農村のように、齢をとったから死ぬ、というわけではなくて、いつでも死ぬのです。江戸時代の文化はよく都市の文化、町人の文化だといわれます。その都市に住んでいる人たちは、いつ死ぬかもわからないという状況で生活していたのです。(212p)


 また、宗門改帳を細かく見ていくことで当時の家族の姿も見えてきます。
 信州諏訪郡の宗門改帳を分析すると、江戸時代初期には多く見られた大家族が次第に核家族となり、世帯人数も4.5人ほどになっていったことがわかります。一組しか夫婦のいない世帯の割合は19世紀初めには70%近くになっており、いわゆる「核家族化」は戦後に急速に進んだわけではなく、18世紀頃からの長期的な趨勢なのです。


 さらに美濃国安八郡西条村(いわゆる輪中地域の村です)の宗門改帳を見ると、例えば、奉公の重要性も見えてきます。
 西条村では農民の子弟を見ると、早死した子どもを除けば、だいたい50%に奉公の経験があります。この数値は階層によって異なり、小作層では男子が6割以上、女子が7割以上の奉公経験があり、自作層でも男子の約3割、女子の約6割に奉公経験があります。さらに地主層でも男子の約4割、女子の約3割が奉公に出ており、奉公というものが農村における不可欠な要素であったこともわかります。
 奉公先は近場の農村、大阪や名古屋といった大都市、さらに町場と呼ばれる場所があります。町場は綿織物や陶磁器などの手工業の発展によってできた街、あるいは街道筋に発展した街のことですが、江戸時代後期になると大都市への奉公はむしろ減り、この町場への奉公が増えています。これは江戸末期の社会や経済を考える上で一つの重要なポイントとなるものでしょう。
 この奉公は出生率にも影響を与えています。
 女子が13〜14歳で奉公に出ると、平均して13〜14年ほど勤めます。もちろんそのまま都市で結婚してしまったり、亡くなってしまう者も多いのですが、もし無事に帰村して結婚しようとすると、すでに26〜28歳になっています。こうなると産める子どもの数は明らかに減ってくることになり、村の人口増加を抑えることになります(他にもこの本では農村の階層移動についても触れられていてそこも興味深い)。


 26〜28歳というとずいぶん晩婚のように思われるかもしれませんが、江戸時代の中日本・西南日本ではそれほど極端な晩婚ではありません。これらの地域では女子の結婚年齢の平均が24歳程度で近畿の一部では25歳を超えています。「十五でねえやは嫁にゆき」というのはほぼ東北地方に限っての話なのです。
 しかし、東北地方では女子の結婚年齢が十代であるにも関わらず出生数は中日本・西南日本よりの少なくなっています。
 著者はおそらく東北では何らかの産児制限がなされていたと見ています。女性が若いうちに子どもを産み、そしてすぐに労働に加わることで世帯の生産年齢人口を増やすことができます。このような狙いから東北地方では結婚年齢が若く、そして出生数が少ないという一見すると矛盾した現象が起きていたというのがこの本の分析です。
 このように「江戸時代の農民」といってもその内実は地域によって大きく異なるのです。


 ミクロとマクロという二つの見方がありますが、この本は人口というマクロの動きに注目しつつ、それをミクロのデータから再構成して裏付けるというやり方をとっています。物事を研究するときにはミクロとマクロの両方の視点が必要になりますが、ここまで鮮やかにミクロとマクロから事象に迫っている研究もそうはないと思います。歴史人口学や歴史そのものに興味がある人にはもちろんオススメですが、それ以外の人にも、一つの見事の研究の成果として面白く読める本だと思います。


歴史人口学の世界 (岩波現代文庫)
速水 融
4006002726