岡本信広『中国―奇跡的発展の「原則」』

 このブログを読んでくださっているという著者の岡本氏に献本頂きました。ありがとうございます。


 この本は改革開放以来の中国経済の発展のしくみを丁寧に分析した新書サイズの本で、ここ30年ほどの中国経済の歩みをたどることで、中国経済の成長をもたらした要因、そしてこれからの中国経済が抱える問題がわかるような内容になってます。
 自分は中国の専門家でも経済学の専門家でもなく、中国経済に関しては中国関連の何冊かの新書と梶谷懐氏の『「壁と卵」の現代中国論』と『現代中国の財政金融システム』を読んだくらいなのですが、この本を読んで中国経済とこれからの中国が抱える問題についての理解がより深まりました。


 この本の副題は「奇跡的発展の「原則」」ですが、その原則とは何かというと「政府の退出」です。
 「政府の退出」という言葉を聞いて、「今の中国は「政府の退出」ではなくて、国と結託した国有企業が純粋な民間企業を圧迫する「国進民退」ではないのか?」と反射的に思った人もいるかもしれませんが、この本がとり上げているのは今現在の問題ではなく改革開放以来の30年を超える発展の歴史です。
 よくアジア経済の発展に関しては、「日本の通産省の産業政策が高度成長の大きな要因の一つだ」という「神話」を筆頭に、欧米とは違い国家が経済に介入したことが、驚くべきスピードの経済成長を生んだという議論をよく見かけます。中国経済に関しても、急激な自由化を進めたロシアや東欧の国と比較する形で、国家の介入が安定した高成長をもたらしたという見方は多いと思います。
 これに対して、この本では「中国では経済からの「政府の退出」が、段階的であるにせよ、うまくいったので中国経済は高成長することができた」という一貫した主張がなされています。


 この本の第1章は、1988年に初めて中国に行った著者が配給切符を知ったということから始まっています。いまや多くの資本主義国以上の「むき出しの資本主義」の印象が強い中国ですが、もちろん改革開放以前は計画経済に基づく社会主義経済が行われていたわけで、経済のあらゆる面に政府の統制が及んでいました。1988年といえば、改革開放のスタートから10年近く経っているわけですが、それでもまだ配給切符は残っていたのです。
 しかも、建国から重工業化戦略をとった中国は、重工業化を進めるための資本を蓄積するために、農民の集団化を実施してその農民たちが生み出した余剰を中央政府に集めるという強引な手法を取りました。御存知の通り、当時の中国の実情を無視したこの重工業化路線は失敗に終わり、大躍進政策などの悲劇を生むことになります。つまり、政府主導の経済政策は失敗したのです。
 一方、改革開放で人民公社の制度が崩壊し農民の強制供出というシステムが機能しなくなると、政府は資本を外資に求めざるを得なくなります。「外資の導入」というと何か政府がイニシアティブをとって誘致したというイメージが浮かびますが、それは政府が国内から資本を強制的に集めることができなくなったことから自然と導き出される帰結でもあるのです。
 

 このようにこの本では中国の経済発展が「政府の退出」によってなされた、あるいは経済発展のために「政府の退出」がなされたということをさまざまな面から示していきます。
 もちろん、中国政府によって強力にコントロールされている人民元為替相場、さらには「国進民退」のキーワードで語られる国有企業の規模拡大の動きもあります(こうした「国進民退」の動きや、リーマンショック以降の中国の4兆元投資がもたらした経済の歪みなどに関しては津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミア)を参照)。
 ただ、ここ30年の大きな流れとして「政府の退出」があるというのは多くの人が納得すると思います(これは経済面に限ったことで、政治を含めるとそうは言えないかもしれませんが)。


 では、「政府の退出」がどんどん進んで「小さな政府」になればなるほど中国経済が発展するかというと、そう簡単なものではないかもしれません。
 著者はこれから中国が解決しなければならない問題として、「差別や所得格差の問題」、「地域的な格差の問題」、「環境問題」の3つをあげています。これらは普通に考えるといずれも政府の介入がなければ解決が難しい問題です。
 しかし、著者はいずれも「政府の退出」による解決の方法もあるといいます。例えば、農民工に対する差別や格差の問題に関しても、経済学の教科書では差別的偏見を持つ雇用者(同じ能力の都市住民に高い給与を払い農民工には低い給与しか払わない)は市場競争の中で淘汰されるはずであり、市場メカニズムには差別をなくすはたらきがあるとしています(163p)。
 ただ、個人的にはそううまくいくものなのかな?と思いました。確かにいくつかの大企業が競争している時に、ある企業だけが差別的な雇用を行なっていたらその企業は淘汰されると思いますが、ほぼすべての企業が農民工の労働力を買い叩いている時に、農民工にきちんとした給与を支払う企業が現れたとしても、そう簡単にその企業が競争を勝ち抜くとは思えません。


 もちろん著者もそう単純な見方をしているわけではなく、中国では「コネ」が重要で経済学の原則どおりにはなっていないことも指摘してます。
 そして、この本を読んで一番印象に残ったのは、現在の中国の抱える問題のいくつかが実は今までの中国の高成長を支える要因でもあったということです。
 先ほどの農民戸籍と農民工差別の問題をあげると、確かに中国の特殊な戸籍制度は格差と農民工に対する差別を生み出しているのですが、過去を振り返ってみると、中国はこの戸籍制度によって都市のスラム化を防ぎ、農業生産を維持し、さらには沿海部の工場が安価な労働力を集めることが可能になりました。つまり、現在の戸籍制度は中国経済の発展を支えた要因でもあるのです。
 同じように一人っ子政策も、現在では中国に少子高齢化をもたらし長期的な経済成長を目指す上で大きなマイナス要因と考えられていますが(中国の少子化問題についても前掲の津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミア)を参照)、ある時期までは間違いなく中国の経済成長にプラスのはたらきをしていました。
 これはちょうど日本の雇用問題に似ているかもしれません。「終身雇用・年功序列」という日本の雇用システムは、いまでこそ日本経済の停滞の原因の一つとされていますが、以前は高度成長を支えた上手いシステムと考えられていました。そして上手く行っていた過去がある分、改革は困難です。


 この本を読んで、個人的にジェンガを思い出しました(パーツを組んで作ったタワーから崩さないように注意しながらパーツを抜き取っていくゲーム)。
 トウ小平は取りやすいパーツをとり、朱鎔基は思い切って大きなパーツを取り去りました。で、胡錦濤になると簡単に取れるパーツが無くなって、「政府の退出」も今までのようにすんなりとはいかなくなってきた。確かに取るべきパーツは存在しますし、取ってこそ中国の経済は発展していくのでしょう。ただ、これから取るパーツは今までの中国社会を規定してきたパーツでもあり、取り去った時の影響はなかなか予測できない。この本を読んでそんな印象を受けました。


中国―奇跡的発展の「原則」 (アジアを見る眼)
岡本 信広
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