北田暁大+解体研『社会にとって趣味とは何か』

 まだ、できた当初のゲンロンカフェに「社会学現代思想―その微妙な関係」という北田暁大の講演を聞きに行ったのが2013年。そのときのアフターのトークで「宮台真司の『サブカルチャー神話解体』の現在版みたいな調査と分析をやっている」という話を聞いたのですが、その調査と分析がようやく書籍化されました。


 その時に、「『サブカルチャー神話解体』の分析が今でもけっこう当てはまっていたりする」ということを言っていた記憶があるのですが、この本の共著者名にクレジットされている「解体研」とは「『サブカルチャー神話解体』という神話を解体する」という意味合いで付けられた名称だといいます(347p)。
 このように、この本は宮台真司の『サブカルチャー神話解体』のある種の有効性を認めつつもその意味を批判的に再検討する、というややアクロバティックな内容となっています。


 さらにこの本で批判的な乗り越えが目指されているのがブルデュー社会学です。
 ブルデューは人々の「趣味」を「階級」と結びつけた「卓越貨の理論」を立てましたが、この本では、そのブルデューの「趣味」の位置づけを批判的に検討し、安易なブルデューの方法の模倣を戒めています(「「卓越貨の理論+フィールドワーク」という組み合わせは、統計的手法や社会学の伝統を、「反社会学」としてのCS(カルチュラル・スタディーズ)を媒介させることによりスルーする論文生産パックとなってしまったとすらいえるだろう」(48p))。


 このようにこの本は「宮台真司ブルデューの双方を批判しながら、社会における「趣味」の位置づけを改めて探る」という内容になっており、かなり難解な内容も含んでいます。
 社会学に関して、自分はルーマンはけっこう読んだけどブルデューは全然読んでいない人間で、正直、この本で繰り広げられているブルデュー批判の是非は判断しかねます。
 というわけで、全体の要約のようなものはあきらめ、以下に気になった点をいくつか書いてみたいと思います。


 この本の目次は以下の通りです。

はじめに 社会にとって「趣味」とは何か──テイストをめぐる文化社会学の方法規準(北田暁大)

第1部 理論篇 テイストの社会学をめぐって
第1章 テイストはなぜ社会学の問題になるのか──ポピュラーカルチャー研究におけるテイスト概念についてのエッセイ(岡澤康浩)
第2章 社会にとって「テイスト」とは何か──ブルデューの遺産をめぐる一考察(北田暁大)

第2部 分析篇1 「読む」──テイストはいかに作用する/しないのか
第3章 読者たちの「ディスタンクシオン」──小説を読むこととそれが趣味であることの差異をめぐって(岡澤康浩・團康晃)
第4章 ライトノベルケータイ小説、古典小説を読む若者たち──ジェンダーとオタク/サブカル自認(岡沢亮)
第5章 マンガ読書経験とジェンダー──二つの調査の分析から(團康晃)

第3部 分析篇2 「アイデンティティ」──界を生きる
第6章 「差別化という悪夢」から目ざめることはできるか?(工藤雅人)
第7章 「おたく」の概念分析──雑誌における「おたく」の使用の初期事例に着目して(團康晃)
第8章 動物たちの楽園と妄想の共同体──オタク文化受容様式とジェンダー(北田暁大)
Invitation 「趣味の/と文化社会学」のためのブックガイド
あとがき 「ふつうの社会学」のために(北田暁大)


 構成としては第1部が理論編、第1章の岡澤論文は読みやすいですが、第2章の北田論文は面白いもののけっこう難解です。ブルデューだけではなくCS(カルチュラル・スタディーズ)の批判的検討なども行われており、読み応え十分ですがなかなか一筋縄ではいかない論文です。ただ、後半の「音楽」と「アニメ」という趣味の特殊性を論じた部分は興味深いので、前半の理論的な部分で置いていかれた人もここは読んでおくとよいでしょう。


 第2部と第3部は、「練馬調査」と称される2010年12月に練馬区在住の若者(当時19歳から22歳)に行った調査を元に個々の趣味が分析されています。
 ここではまず、ファッションについてとり上げた第6章の工藤論文が面白いです。ファッションについて、「ファッションは私にとって自己表現である」と、「ファッションが他の人とかぶらないようにしている」という2つの質問から、1「自己表現、かぶらない」、2「自己表現、非かぶらない」、3「非自己表現、かぶらない」、4「非自己表現、ひかぶらない」という4つのパターンに分類しています。
 わかりやすいのは1と4。ファッションが他人とかぶらないようにする気にかける人はファッションへの意識が高いでしょうし、まったくファッションに無頓着な人はかぶるのも気にしないでしょう。
 ところが、わかりにくいのが3の類型。ファッションは自己表現ではないとするのに他人とのかぶりを気にするタイプです。しかもこの3類型は意外に数が多く、男性では4の類型に続く第2位です。
 このあたりを著者は、どこで買い物するかというデータからと読み解いていき、ユニクロなどの国内系ファストファッションの広がりにその理由を見ています(「かぶりをさける」ことが差異化ではなく純粋に「かぶりをさける」ことになっている)。


 ただ、やはり一番読み応えがあって、なおかつ、引っかかりが残るのが第8章の北田論文です。
 第2章でも「アニメ」という趣味は他の趣味と比べても特徴のある趣味で、「友だちと一緒に……に行く」、「……がきっかけでできた友だちがいる」のいずれでも、「アニメ」は他の「音楽鑑賞」や「ファッション」などの趣味に比べて高い数値を示しており(99pの表2ー1参照)、かなり強い趣味縁形成の効果を持っていると考えられます。
 アニメなどのいわゆるオタク的な趣味に関しては、東浩紀が『動物化するポストモダン』で提示したデータベース消費の考えがります。オタクたちは大きな物語や「高級⇔低級」といった差異に反応しているのではなく、自分の好きなもの(萌え)を動物的に消費しているという考えです。
 これはブルデューのいう「卓越化」とは違う方向性になりますが、今回の「練馬調査」においては、「アニメという趣味自認(つまり界の参入)においては、趣味の卓越化といった要素よりも、データベース消費へのかかわりが重要な意味を持つ」(266p)という知見が得られたそうです。
 

 しかし、オタク趣味にはジェンダーという問題も残っています。以前は、「オタク」というと男性の姿が思い起こさせましたが、「オタク」という言葉が広がる中で女性オタクも当たり前の存在となり、特にBLを好む女性に対しては「腐女子」という名称も生まれてます。
 この章では、二次創作が好きなコアのオタクを取り出した上で、男性と女性の志向の違いにも迫っています。


 「二次創作好きの女性」というカテゴリーを取り出すと、データベース消費という志向は必ずしも当てはまらなくなります。「絵柄が魅力的であれば、ストーリーにはこだわらない」という設問に対して、男性二次オタク(二次創作好きの男性オタク)は肯定的な回答を示していますが、女性二次オタクはそうとはいえません(271p)。
 女性二次オタクには教養主義的な志向や、自己陶冶的な漫画読書の態度が見受けられ(272p)、「萌え要素」の組み合わせを消費する男性二次オタクとは違う傾向があるのです。


 さらに非常にインパクトが強いのが291pの図8ー4で示される、男性二次オタクの伝統的ジェンダー規範への親和性と、女性二次オタクの伝統的ジェンダー規範への否定的な考えです。
 「夫は外で働き、妻は家庭を守るほうがよいと思う」、「もし夫に充分な収入があるとしたら、妻は仕事を持たない方がよいと思う」、「私は結婚したら子どもを持ちたいと思う」、「結婚したら、みんなが子どもを持ったほうがよい」、「男の子と女の子は違った育て方をするべきであると私は思う」という設問に対し、男性二次オタクはいずれも肯定的で、女性二次オタクはいずれも否定的です。
 ちなみに、女性非二次非オタク、女性二次オタク、男性非二次非オタク、男性二次オタクという4つのカテゴリーの中で、「夫は外で働き、妻は家庭を守るほうがよいと思う」、「もし夫に充分な収入があるとしたら、妻は仕事を持たない方がよいと思う」、「男の子と女の子は違った育て方をするべきであると私は思う」という設問に肯定的な回答を示しているのは男性二次オタクだけです。


 こうした知見をもとに、著者は山岡重行『腐女子の心理学』における、腐女子は心を開いて同趣味のオタク男性とい付き合えば良いといった主張を徹底的に批判してます。
 山岡重行『腐女子の心理学』は未読なので、著者の批判がどこまで正当なものなのかは判断できませんが、その調査方法やデータの読み方までを批判するかなり本格的なものです。
 自分も腐女子はオタクと付き合えばよい的な主張には疑問を覚えます。


 ただ、例えば著者の次のような主張もまた行き過ぎだと思うのです。

 腐女子は「現実の異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデータベース消費を生きる男性オタクである。これはポリティカル・コレクトネスの問題ではなく、「現代において異性愛・男性中心主義的な性関係のあり方」をどう捉えるか、ということのジェンダーギャップを明確に示している。(286p)


 確かに、この調査を見ると、男性二次オタクは「伝統的家族」に親和的ですし、女性二次オタクは「伝統的家族」に距離をとっています。そんな中で両者のカップリングを推奨するのは見当違いです。
 また、よしながふみのようにBL的な作品を手がける人の中にはセクシャリティ意識に非常に敏感な人がいますし、他にもセクシャリティ意識に敏感な作品といったものはいろいろとあるのでしょう。
 しかし、それは個々の作品や個人の問題であって、このような調査から、「腐女子」という集団が「もっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感」とまで言えるのでしょうか?
 こちらのページにあるアンケート用紙も見てみましたが、特にセクシャリティについての質問があるわけではないですし、この調査から言えるのは「腐女子は「伝統的家族」に批判的意識がある、「伝統的家族」への志向が薄い」といったものではないかと思います。また、「腐女子こそがもっとも」という表現は明らかに強すぎるでしょう。


 この本のあとがきで北田暁大は「ふつうの社会学」ということを強調していますが、上記の引用文などは量的な調査に過剰な意味を読み込んでしまっており、「ふつうの社会学」から離れてしまっているのではないかと思いました。


社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)
北田 暁大 解体研
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