茶谷誠一『象徴天皇制の成立』

 占領期の政治を詳しく見ていくと、占領期に昭和天皇が果たした役割を無視するわけにはいかないと感じますし、敗戦によって大権を失ったはずの昭和天皇がある意味で生き生きと積極的に政治に関わろうとする姿も見えてきます。
 基本的に日本国憲法の施行によって天皇は政治的な意思決定のルーチンから完全に切り離されるわけですが、占領期にはまだその分離がきちんとなされていないのです。


 この問題を正面からとり上げたのがこの本。カバー裏の紹介に「「統治権の総攬者」から国政に関する権限を持たない「象徴君主」への転換を迫られた天皇は、自らの理想とする君主像とGHQ・日本政府が要求する象徴としての役割のギャップに苦悩しつつ、側近たちと共に抵抗を試みていった―」とありますが、このギャップがどのようなもので、それがいかに埋まっていったのかということを分析しています。
 著者は『宮中からみる日本近代史』ちくま新書)において戦前の宮中について分析していましたが、今回はその範囲を戦後にまで広げています。


 目次は以下の通り。

序章 象徴天皇制とはどんな君主制形態なのか
第1章 敗戦前後の国体危機と昭和天皇
第2章 象徴天皇制への道
第3章 戦後における昭和天皇の行動原理
第4章 象徴天皇制の成立過程にみる政治葛藤―一九四八年の側近首脳更迭問題
第5章 吉田茂復権象徴天皇制への対応
終章 象徴天皇制のゆくえ―昭和から平成へ


 序章は、「国法学的国家形態論において象徴天皇制はどこに位置するのか?」という問題を論じています。正直、小難しい分類がつづくので面倒な人は飛ばしてもいいと思いますが、戦前期の天皇制を立憲君主制だと考えると(少なくとも昭和天皇もそのような認識だったと戦後に言っている)、「では、戦後の象徴天皇制は何なのか?」という疑問が出てきます。
 おそらく昭和天皇は、大日本帝国憲法における天皇大権を捨てて、イギリスのような「君臨すれども統治せず」というスタイルの立憲君主制になれば十分と考えていたのでしょうが、日本国憲法の規定する象徴天皇制とは、イギリスの国王以上に政治への関わりを持たない存在です。
 冒頭にも述べたように、このギャップが本書が注目するポイントとなります。


 イギリスのウォルター・バジョットはイギリスの君主の持つ権利として、「大臣から相談を受ける権利」、「大臣を激励する権利」、「大臣に警告する権利」の3つをあげましたが(106p)、昭和天皇はおそらくこの3つの権利が自分にもあると考えて行動していたフシがあります。
 昭和天皇の行った政治的行為としては、沖縄をアメリカがしばらく占領することを望む「沖縄メッセージ」が有名ですが、そうしたあからさまなもの以外でも、昭和天皇は閣僚にたびたび内奏を求めましたし、そのときにたびたび発言をしています(その発言を漏らして問題になったのが1973年の増原防衛庁長官の辞任問題)。
 こうした昭和天皇の姿勢に対して芦田均などは否定的で、それが芦田内閣時の宮内府長官と侍従長の更迭につながる面もあるのですが、吉田茂佐藤栄作らがこうした昭和天皇の姿勢に応えたこともあって、昭和天皇はその後も内奏を求め続けることになります。


 また、興味深いのは第2章でとり上げられている皇室財産と皇室典範の問題です。
 とりあえず日本国憲法によって天皇制の存続が決まったものの、GHQ(特に民政局(GS))は新しい皇室を望んでいました。GSはs国民主権の原則の貫徹を求め、皇室財産といえども国会のコントロール下に置かれるべきだとして、ある程度の自律性を求める宮中側の意向を厳しく押さえつけました。
 一方で、皇室典範に関しては天皇の退位問題と女帝の可否について人権の観点から疑問を呈したものの、日本側から退位後の天皇の政治活動の問題や女帝の弊害を説明されると、それ以上は問題視しませんでした(86p)。


 退位問題に関しては、佐々木惣一や宮沢俊義などが退位規定を設けることに賛成であったのに対して、宮内省から出席した加藤進、高尾亮一らは皇位の継承が不安定になると反対します。この時期は昭和天皇の戦争責任問題や、高松宮摂政就任に対する昭和天皇の警戒感もあって、宮中では退位規定を設けることに消極的だったのです(83ー85p)。
 高尾亮一は後年、「皇室典範に対しては占領軍の態度がたいへん寛大であつた」のに対して、皇室経済法では「一々の細かいデテールまで干渉して」きたと述べていますが(86p)、皇室の財産が国民主権のもとで管理されるのと引き換えに戦前色の強い皇室典範が残ったという事情があったのです。
 皇室典範に対するGHQの優先順位が低かったことが、現在の今上天皇の退位問題につながっているといえるのかもしれません。

 
 あと、この本でもうひとつ興味深かったのが寺崎英成のこと。
 寺崎英成は戦前にはアメリカ大使館の情報担当の一等書記官として野村吉三郎の日米交渉を補佐した人物で、戦後は宮内省の御用掛をつとめ、昭和天皇GHQのパイプ役となりました。彼の遺品から「昭和天皇独白録」が見つかったことも有名です。また、妻グエンはアメリカ人で、その娘はマリ子。柳田邦男の『マリコ』のモデルともなっています(個人的には奥さんの回想録のグエン・テラサキ 『太陽にかける橋』はけっこう面白いと思う)。


 「昭和天皇独白録」のこともあって、戦後の宮中において寺崎が果たした役割というのはそれなりに知っていたのですが、その活動は昭和天皇の地位が不安定だった1948年頃までがピークだと思っていました。
 ところが、この本を読むと48年以降も寺崎は重要な役割を担っており、それゆえに吉田茂に更迭されたということがわかります。
 昭和天皇からの信任を得た寺崎は次第に政治秘書的な役割を担うようになり、昭和天皇マッカーサーの会見においても通訳を務めると同時に会見録の作成も行うようになります。しかし、昭和天皇と芦田首相が巡幸をめぐって激論を交わしたあとの1947年11月14日の第5回会談においては会見録を外務省に提出しないなど、政治的な行動を見せるようになります(これはマッカーサーが巡幸の是非について発言した場合、後に問題になる可能性があったからではないかと著者は推論している(208ー209p))。


 こうした寺崎の行動に危機感を持ったのが吉田茂でした。講和問題や安全保障問題について吉田は自らによる一元的な交渉を強く意識しており、昭和天皇といえどもその交渉に容喙させるわけにはいきませんでした。
 「臣茂」と称し、天皇を立てる姿勢を見せた吉田でしたが、だからといって昭和天皇の政治的な意思を政策に反映させようとはしませんでした。吉田は講和問題については秘密主義を貫き、昭和天皇は口を挟もうと思っても口が挟めない状況になっていくのです。
 そうしたプロセスの中で、昭和天皇の「政治秘書」ともいえる寺崎は解任されます。昭和天皇は寺崎を使ってGHQのさまざまな人物と接触をはかろうとし、また寺崎も昭和天皇の「側近」としてさまざまな行動を行いますが、それらは吉田にとっては邪魔なものだったのです。


 いくつか自分が興味をもったポイントをあげましたが、基本的に終戦から講和までの宮中の通史としても読めるようになっており、象徴天皇制が準備され、離陸し、安定した高度にうつるまでの様子がわかるようになっています。
 ただし、象徴天皇制に関しては皇室典範の問題のようにきちんと詰められないままに今に至る課題もあります。今まさに浮上しているそれらの問題を考える上でも役に立つ本です。


象徴天皇制の成立―昭和天皇と宮中の「葛藤」 (NHKブックス No.1244)
茶谷 誠一
4140912448