『自らの生活の不満を排外的な主張にすり替える。歴史・・・』

『自らの生活の不満を排外的な主張にすり替える。歴史上、何度も繰り返された愚行だ』<2017年9月9日(土)>
 「七人の侍」では農民の総力戦で村を守り、そして平和の中で「ドッコイコラコラ、サーッサ」と、田植えを皆でにこやかに行っていく。『春秋』(170909)はここからトランプ大統領の「不法入国者の子どもの在留を認めていた制度を撤廃する」ことへ展開している。ちょっと無理があるが「せっかく地面に根を張った幼木を引き抜こうとしているように見える。自らの生活の不満を排外的な主張にすり替える。歴史上、何度も繰り返された愚行だ。農業や小売、飲食業に、多くの外国人が携わる我が方も対岸の火事と座視できまい。多様性の尊重は成長の原資という面もある」と。
 (JN) 自分には「バカのシールド」が沢山有り、その壁が自分を守ているようだが、外からは「バカのシールド」しか見えない大馬鹿になっている。民主主義社会は、目先のことだけに追われ排他的なシールドを作り出してしまうのか。そのような愚かな考えを率先するのがリーダーのやることであるのか。否、共に生活する者の在り方を問うのがリーダーの仕事である。「七人の侍」の農民よろしく、皆で互いの田畑を耕して行くために、声を出し太鼓をたたく。そのために、どうすれば収奪の歴史を終わらせることができるのか。国境ある限り、この歴史は終わらないのか。損得の概念ある限り、シールドは必要なのか。これは他国のことと言えない現実を理解しなければならない。全てのシールドに隙間を開けていこう。