『「ながら」の君、ぶつかればの想像力もなく・・・』

『「ながら」の君、ぶつかればの想像力もなく、人の迷惑も考えない人間だ』<2017年12月17日(日)>
 「深夜、歩きながら、スパゲティを食べている若い会社員と擦れ違う」。『筆洗』(171217)は「ながら」の君に申す。「歩きながらや自転車に乗りながらのスマートフォンがこれほど批判されているのに、なにゆえ、やめられぬのか。その危険を考えれば大損しかあるまい。悪いが、『ながら』の君をよけるたび、こちらは心の中でののしっている。たぶん、大勢の人がそうだろう。ぶつかればの想像力もなく、人の迷惑も考えない人間でござい。そう自分で宣伝しながら歩いている大損になぜ、気がつかぬ」。
 (JN) 私は「ながら族」として長らく生きている。子供のころならテレビを見ながら、叱られながら食事をした。中高生のころなら深夜放送を聴きながら勉強をしようとした。しかし「二兎を追う者は一兎をも得ず」である。その反省もなく、人生ながら族、あちらこちらを散らかしながらの人生である。職場や家庭に迷惑を掛けながらの人生か。一方、歩きながらのスマートフォンはどうなのだろう。スマートフォンを見ながら歩く人、老若男女である。そういう人たちに遭遇した場合、その人の目がスマートフォンにあるため、次の行動の予測がつかない。こちらも避けようのない状態になる。大変迷惑であり、時として事故を起こす。自分のスマートフォンを落とすにしても、迷惑をかける。他人に怪我をさせたり、他人や自分の命を落としてはならない。これは「ながら賊」だ。スマートフォンは生活の中での重要な役割を果たしていようが、それだけに動いている時は、違うものを見てはどうだろうか。私たちの生活はその小さな枠の中にあるのではない。その外にある。