『「くさい」と告げるのは』

『「くさい」と告げるのは』<2018年1月16日(火)>
 「スメハラ」について、『春秋』(180116)は考える。「視覚や聴覚などの情報は大脳新皮質というところで処理されるが、嗅覚情報は大脳辺縁系にも伝わる。ここは記憶や喜怒哀楽にかかわるところ。いってみれば、においは思い出や感情をじかに刺激するようなのだ。社会人であればエチケットやマナーのひとつとして日常的に気をつけなくてはならないのだろう。自分のにおいは気がつきにくい。指摘を受けるまで自覚しないのが普通ではないか。その一方、よほど親しい人でも『くさい』と告げるのは気が引ける。つまるところ、職場内のコミュニケーションがどれほど円滑なのかをためす問題のようにもみえる」。
 (JN) 臭いという感覚は皆同じであろうか。極端な言い方をすれば、ある匂いについて、Aさんは臭いと言い、Bさんは良い匂いということだってあろう。それに、Cさんは何も感じないということもある。匂いは難しい問題である。それに、香水や整髪料のようなものから、体臭まで、更に地域の匂いもある。でも、我慢していれば慣れてしまうのも匂いである。人それぞれに多様に体臭があり、それを互いに認め合えないものか。それとも、匂い消しに香水を使わざるを得ないのか。それでは、私は「じじ臭い」、これを誤魔化す香水はあるでしょうか? いや、臭いじゃなく爺だから欺くことはできない? では、加齢臭は?