コレクション/展示論文献講読

気がつきゃ後期のはじまりが見えてきて、後期は講義のコマ数が多いので、そろそろ空いた時間にネタの仕込みをしなければ。で、英語の文献講読@同志社。コレクション論/展示論を読もうというのは、前から決めていて、シラバスも出している。概要はこんな感じで。

インスタレーション,環境芸術,パブリック・アートなど,芸術と場の関係を問い直すような作品が,現代のアートにおいてはよく目に付くようになってきている。また昨今の公共美術館を巡る問題など,社会における美術館/博物館――すなわち展示という制度――の役割についての論議は喧しい。では,一体,展示制度とは,何なのだろうか。どのような歴史を辿り,現代においては,どのようなポジションを占めているのだろうか。
展示とは,モノを秩序付けるシステムであり,モノそれぞれの「意味」を決定づけるコンテクストでもあり,さらに「美術作品」そのものの身分を保証する装置ともなる。本講読の目的とするところは,モノを展示するという行為を,意味作用の実践として捉えた上で,さまざまな歴史/文化的なコンテクストにおいて位置づけ,そこに生起する文化的,政治的な問題を前景化することにある(→http://syllabus.doshisha.ac.jp/syllabus/html/2006/6120920.html)。

で、実際に何を読むのか決めきれていない。とりあえず、去年の秋にシラバスは出さなきゃいけなかった(早いよ)から、以下の論文を挙げてみたが、どうもいまいちピンとこない/あるいは読みにくい。

とにかく、相手が、美学芸術学の専攻だからといっても3回生だし、あまりハードなのをやっても理解が追いつけないのでは、と気を遣う。で、いろんな文献を集めてみた結果、とりあえず以前紹介したキャロル・ダンカンの論文ダンカンの美術館論 - 蒼猴軒日録を一本読むことにした(でもまだ悩んでいるけど)

とりあえず序文の冒頭を試訳してみる。

キャロル・ダンカン『教化の儀礼――パブリックな美術館の内側で』

 美術館は、18世紀末期の登場してから、着実に豊富になっていき、その数は増え、そして最近ではますます魅力的になってきている。ミュージアムの時代――ジェルマン・バザンがこの時代を指してこう言った――は、まだその頂点を迎えていないように思える。少なくとも、ミュージアムが占めていると主張する〔土地の〕面積が増え続けていることから判断するならば。
 本書は、いくつかのコレクションを、私が新たなものと信じている見方、すなわち儀礼的構造として見ていく。〔従来の〕美術館に関する文献は、モノのコレクション〔集合体〕として扱うか、特徴的な建築作品としてかのどちらかである傾向にある。たとえば、美術館の図録は、通常、コレクションの内容のみを扱っている。こうした「コレクション」は、場所としてではなく、貴重で、独特のモノの集積であると概念的に説明される。有名なコレクターに関する文献も、同じような扱い方をする。通常そうした文献は、あるコレクターがいつどのようにしてその所有物を手に入れたのかを語るのである。コレクターやキュレーターを、有能な探偵や駆けるヒーロー――狩人やドン・ファンのように美術の宝物を探し出し、袋に入れる――のように扱う文献さえある。その一方で、建築畑の著述家達は、美術館の建物がどのような芸術的な言明をなしているか、あるいはより実践的に、建築家がどのように照明や動線のような問題を解決しているのかについて焦点を合わせる。蒐集する行為、あるいは蒐集されたモノのどちらに焦点が合わせられるにせよ、美術館の環境そのものは、無視されがちである――まるでその空間が中性的で、不可視なものであるかのように。美術館で売られているほとんどのガイドブックは、こうしたアプローチを採っている。それらは、美術館における体験が、まるで単にそれぞれ独立した美術品との出逢いの連続であるかのように扱うのである。
 この研究において、私は美術館を中性的なモノの居住空間としても、主として建築的デザインによって作られたものとしても扱わない。美術館とは、よく見かけを似せている伝統的な聖堂や宮殿のように、美術や建築も、巨大な総体の一部分にしかすぎない複雑な存在物なのである。私は、この組み合わせを、台本や総譜のように、もっと言えば演劇的な場として扱うことを提案する。すなわち、美術館の全体性を、観客に何らかの演技をさせる舞台装置として見るのである――実際の観客がそのように言うかどうか(そして、そうするように仕向けられるかどうか)は別として。こうした見方からすれば、美術館は、特定の儀礼的な脚本――さまざまな例が、本書の各章で探究される――に則って組み立てられた環境として見出されるであろう。
 本書においては、儀礼の理論や、一般的な定義を比較人類学の方法で論ずることを意図しているわけではない。また、美術館詣でを、昔の儀礼的な状況に似たものであると確認することに私の意図がある訳でもない――のちに指摘するように、かたちの上での平行関係は〈ある〉のだが。私が関心があるのはそこではなく、美術館が、活き活きとした、直接的な経験のかたちで、価値や信条――社会的、性的、政治的アイデンティティに関するそれ――を祀る仕方である。私は、この後の各章で、美術館の儀礼が存在することを主張していくとするならば、それは私が美術館の中心的な意味、〈美術館としての〉意味は、その儀礼を通して組み立てられると信じているからであろう。
 本書の第一章では、人類学の文献、美的経験に関する哲学的な意見、美術館の性質や使命に関する美術史や博物館学の著述を引いて、儀礼としての美術館という考えについて論ずる。残りの四章では、いくつかはヨーロッパの、ほとんどはアメリカの実例を使って、美術館が組み立てるもっとも一般的な儀礼の脚本のいくつかを探究していく。それらの実例は、美術館の歴史のなかでの重要性によって選ばれたか、もしくは美術館の一般的な類型を示しているから選ばれたものである。それぞれの例は、できる限り、その関連する歴史的コンテクストに定位させていく。第二章では……【後略】

  1. 儀礼としての美術館
  2. 王侯のギャラリーからパブリックな美術館へ――ルーヴル美術館とロンドンのナショナル・ギャラリー
  3. 公的空間、私的興味――ニューヨークとシカゴの市立美術館
  4. 永遠なるもの――寄贈者記念
  5. 近代美術館――男の世界

まあまあ面白そうでしょ。非常に英語がこなれていて、また余計なレトリックやなんかがないから読みやすい。これは講読に使うという点では、ポイント高い。それから、美術館を透明なメディアとして扱うんじゃなくて、社会的、文化的、政治的なコンテクストにぶち込んで批判していこうというのも良い(講読のテーマは「美術館を疑え!」「現場で使えないミュージアム論」だから)。ただ、問題があるとしたら、やっぱりダンカンってニュー・アート・ヒストリーの旗手だった訳だけど、やっぱり「美術史」の枠内なんね。これは自身も反省していることだけど、美術館の問題は扱うけど、民族学展示の問題や、あるいはパノラマ、パサージュ、百貨店、動物園などの視覚文化に広がっていかない。それでも、短い論文なので、もう一本、その辺りを扱ったものを読んでもいいかなと思っている。候補としては、シラバスに出した三本の論文のうちどれかか、あるいはトニー・ベネット(何かラス・ヴェガスで歌ってそうな名前だな)の、フーコーを使ってミュージアム批判をしている論文でもいいかなと考えている。