パラレルなマンガ

以前ニコニコ動画のコメントはふりがな文化?というエントリを書いたら、いくつかトラックバックをいただくことができた。人文情報学シンポジウム(4): やまもも書斎記では、ふりがな文化の淵源(あるいは関連する文化)としての訓点、絵巻、書芸術などが指摘され、ニコ動、テレビ、マンガ、絵巻物 - Under the Hazymoonでは絵巻物、テレビの字幕、少女マンガ、「DJやラップのような音楽の切り貼り文化」との関連を指摘していただいた。いずれも興味深い事例だが、いくつか概念を整理しておいた方がよいような気がするので、メモ的に書いておく。

上にあげられた例は(DJ音楽を除くと)二次元的な空間と時間の流れがセットになった表現である。そのうち、訓点や絵巻物、マンガ(のコマ)は、それ自体は動いていない文字列や個別の絵などに対して、時間を仮構する技術ではないかと思う。一方、ふりがなやテレビの字幕、少女マンガなどは、時間が流れている(ように感じられる)ことが前提で、その上に乗っかった表現ではないかと思う。その意味で両者は、重なる部分が多いものの、レイヤーが異なるように思うのである。私が前のエントリで「パラレル・テキスト」と言ったのも、後者に相当する。

概ね一次元的な言語表現は言うに及ばず、マンガや絵巻物もそれ自体ではパラレル・テキストにはならない(絵巻物の中には、時間の流れがパラレルなものもあるような気がするが)。逆に、写真や実写映画のような過指標(ハイパーインデックス)的なメディアは、勝手にパラレル化するように思う(大友克洋のマンガもそうかもしれない)。マンガでパラレル・テキスト的な表現をしようとした例としては、少女マンガはまさにそのとおりだと思うが、それ以外のものとして(あまりよい例じゃないかも知れないが)『こち亀』23巻*1所収の「火の用心の巻」をあげておく。

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ここでは、上の段と下の段が、互いに交渉しつつもパラレルに話を展開している(『こち亀』はたまにこういう実験的なことをする)。逆にこれぐらい意図的(メタ的)にやらないと、マンガはパラレル化しないような気がする。

なお、マンガなどとは異なり、(西洋)音楽の場合、グレゴリオ聖歌などに他の歌詞・メロディを重ねるポリフォニーの始まり以来、パラレルな(重ねる、重なる)表現形式は当たり前なものとして行われており、昨今のDJ文化に限ったことではないように思う。

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