続moss

「コケ」という言葉は一般にはいろいろな植物群のものを含めて、小さくて、あまり目立たないものを総称している。(井上浩『フィールド図鑑 コケ』東海大学出版会、1986)

木村敏『自分ということ』(ちくま学芸文庫)を読んだ。1976年から79年に発表された論文集。「もの」的な西洋語の「自然」と「こと」的な東洋語の「自然」の違いは、学生のとき建築史の講義で説明された記憶がある。細かくは覚えていないけど、出典はこのへん(至西田幾多郎)にあったのかもしれない。

イギリス式庭園が自然に対して写実的であるとするならば、日本の庭園は自然に対して表意的である。イギリス式庭園が本来の自然のコピーとして、不特定多数の人びとのために手軽な代用的自然を提供する「公園」であるのに対して、日本の庭は、そこに表意されている自然の真意を鋭敏に感じとる主体の側の感受性を期待して作られるものであって、したがって当然のことながら、鑑賞能力を有する少数の人だけのための私的・閉鎖的な芸術作品という性格を帯びる。(pp.26-27)

つまり、「……ということ」という言いかたの中には、私自身の世界に対するかかわりかたが、あるいは私の生きかたが含まれている。いいかえれば、「……ということ」は「私があるということ」と表裏一体の事態としてのみ成立する。(pp.52-53)

「私」や「自己」を「こと」として理解するということは、私たちの意識にとらえられている世界を物理的・自然科学的な世界としてではなく、「おのずから」としての「自然」の相のもとに見るということである。そのとき、「私」も「世界」もともに一つの根源的な生命的躍動から生まれた分身として理解されることになる。(pp.66-67)

本のなか何箇所かで触れられていたアリストテレスの「共通感覚」という概念に興味を引かれた。近いうちに行う予定の、あるインタヴューのヒントになりそうな気がする。それで中村雄二郎『共通感覚論』(岩波現代文庫)という本を買ってみたら、文庫版の解説を木村敏が書いていた。この文章もとてもいい。

考えてみれば、共通感覚ほど私事的な、あるいは私的な感覚はないといってよい。これは一見すると大変な逆説のように受け取られるだろう。常識/コモン・センスの意味での共通感覚は、中村氏が「社会通念」という言葉も使っておられるように、共同体構成員の大多数が共有する判断基準という役割を背負っていて、その意味では私事とはほど遠いものなのだから。しかし共同体成員の共有する判断基準といっても、ルールや実定法のように「理知的」な合意に基づいて制定される「公共的」な判断基準と違って、コモン・センスはあくまでもセンスであり、感覚である。そして──これは「共通感覚」の意味でのコモン・センスと「常識」としてのコモン・センスを結ぶ重要な点なのだが──理知的な合意が対象認知優位の(視覚優位の、といってもよい)現実認識に基づいているのに対して、共通感覚としてのコモン・センスは共同体成員共通の「深層」の(体性感覚的な)感性に根ざしている。そしてこの感性は、それが現実に働くときにはかならず、成員個人個人の意識の根底にある深層の情念として、つまりは私的な感性として姿を現す。(木村敏「私事と共通感覚」、中村雄二郎『共通感覚論』pp.378-379)