東浩紀の文章を批評する日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-08-31 ゲーム性

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いろいろあって、1年半ぶり以上の新記事となる。

いや久々に見たら、あまりに変わっていなくて笑ってしまったので。

「美少女ゲームはゲームなのか」

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.html

「インタラクション性よりも、中に描かれているものに対してゲーム性を感じている」

http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0608/30/news083_2.html

俺も中学くらいの時、とにかくやたら、ゲーム性という言葉を、振り回してイタい議論をしていた。

今になって思えば、そういう文脈の「ゲーム性」というのは、たいてい、狭い意味での戦術性、くらいの意味だったんだが。

戦術性があって面白いゲームもあれば、戦術性と別のところで面白いゲームもある。言葉にすれば、ただそれだけのことだ。

が、「ゲーム性」という言葉のなせる技で、そうした議論はなぜだか「ゲーム性のないゲームはゲームじゃない。だってゲーム性がないんだから」という不毛な話になってゆく。

中学以来、この議論は、アクションゲームとRPGとTRPGと育成シミュとギャルゲとノベルゲームで、約5回ほど出くわした記憶がある。

なんで、戦術性がゲーム性とイコールと見なされるかといえば、要するに「難易度信仰」と「選民思想」である。俺は難しくてフクザツなゲームをやってるからエライ。最近のヌルいゲームやってるヌルゲーマーと一緒にするな、という。

普通のゲーマーであれば、自由度や難易度が行きすぎたクソゲーや、そういう枠でくくれないバカゲー(でも心の名作)に出会うことで、それが一方の極論であることを理解するわけなのだが……。

まぁこれは短いパネルディスカッションの要約記事なので、東氏のサイトを見てみよう。

こちらは、補足としてまともなことが書いてある。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000247.html

ただ僕としては、そこで「みんながゲームだと言っているんだからそれはゲームなんじゃないか」は別に終着点ではなく、そういう状況こそ思考の出発点になるんだよ、と言いたかったわけです。なぜならば、言葉の定義をめぐる論争や齟齬は、一見不毛なように見えて、実は消費者共同体の分化やメディア/市場の変化を反映していることが多いからです。「ゲームとはなにか」に対する回答は無数にあるでしょうが、それは決して「ゲームとはなにか」が空しい問いであることを意味するのではなく、むしろその多様性からユーザーの状況が見えてくる。言葉の闘争は、しばしば文化のダイナミズムの指標になります。

 新しいゲームは、まずマニアックなものとして始まる。小集団の中で刺激を求めるマニアのニーズに応じて、それは先鋭化してゆく。その結果、途中で行き詰まり、消えてしまうことがある。

 消えない場合は、より多くのユーザーを取り込む方向に進化し、結果として「より遊びやすい」「わかりやすい」インターフェースが作られることになる。

 それは例えば、食らい判定1ドットのシューティングであり、盲導犬RPGであり、美少女キャラであり、以下略、以下略である。

 「ゲーム性が薄れた」「ゲーム性がない」という議論が、そのたびに繰り返されてきた、というか蒸し返されて来たのは、最初に書いた通り。

 ノベルゲームのインターフェースが大枠で変化してないのは、それ自体が充分に枯れたインターフェースであるのと*1、そこよりも別のところで差別化したほうが、ユーザーにもメーカーにも良いからだろう(もちろん、安易な差別化の果てには進化の袋小路が待っていることもあるが)。

そういう観点で見ると、ここ10年くらいの美少女ゲームの進化(退化?)は実に興味深いのではないか。そこからは、「ゲーム性」という言葉がもはや単体としての作品の性質を指すものとして使われていない状況が浮かびあがるのではないか。そしてさらに、それを分析してみると、僕たち(これは美少女ゲームのユーザ以外も含めて)がいま直面している物語的想像力の変化やユーザコミュニティの変化が見えてくるのではないか、というのが、僕の言いたいことでした。

 美少女ゲームは、システムで売るよりもシナリオやキャラで売るほうがラクだからそうなった。それだけの話である。

 だいたい古株のゲーマーに言わせてもらえれば、「ゲーム性」が単体としての作品の性質を指すものとして使われていた時期というのは、そもそも存在しない。ゲームとゲーマーは常に切り離せないものなのだ。

 もっとも初期では、ゲーマーとゲームメーカーの境は非常に低く、ゲーム好きはたいてい自分でゲームを作っていた。

 アーケードなら、ゲーセンで、互いの攻略法をわかちあうこと、あるいは隠し合うことは、重要な部分だった。「ゼビウス」や「ドルアーガの塔」*2のゲーム性は、当時のゲームセンターの状況、ゲーマーのコミュニティ無しには語れない。格闘ゲームについては言うまでもないだろう。

 ドラクエにしたって、「太陽のほこらってどこー!?」という電話がプレイヤーの間を行き交い、また雑誌記事、漫画のネタとなった。

 現在において、ネットの発達、ネット配信の情報スピード、その他もろもろの理由において、コミュニティの変化、受容、消費の変化が起きた部分はあるだろう。が、それは美少女ゲームに限ったことじゃない。

 美少女ゲームのユーザーインターフェースから見える「物語的想像力の変化」について語ることは可能かもしれないが、じゃぁそれって何なの? という肝心な部分が空っぽなんだよなぁ。

というわけで、当日も会場で再三繰り返したのですが、僕のゲーム観はとても狭く、おまけに変わっていて、また自分でもそれはよくわかっているので、そういうものとしてカッコに入れて読むことをお勧めします。そもそも研究とか批評って、そんなものなのです。

 呼ぶほうと取り上げる方も問題だが、呼ばれるほうもどうかと思う。研究や批評が「そんなもの」なのは東浩紀氏だけだと思いたい。

*1:コンシュマーRPGだって、9割は、経験値を貯めてレベルアップでボス戦なわけで、そこのところは進化していない。無論、経験値システムをいじったRPGがあるのと同程度には、ノベルゲームでも様々な試みがなされている

*2:考えてほしい。「ドルアーガの塔」を、当時の歴史背景やユーザコミュニティを無視して、単体としての作品のみで評価した場合のことを。何の伏線もヒントもない宝物の出現方法を延々探す超クソゲーとしか言いようがないだろう。

yuayua 2006/09/01 13:22 でもその「超クソゲー」としてやっていた少なくないひとは確かにいて、そもそも彼らは「超クソゲー」と思ってプレイしてなかったのは?私はそうです。だからそんなふうに言われると心外です(笑。それを「超クソゲー」と呼ばわることの可能な現在の歴史背景に対する、のん気さが感じられますし、「ラクだからそうなった〜それだけの話である」はまさに歴史背景、というか歴史性を無視しているのではないでしょうか?

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/01 13:38 えーと、超クソゲーは、ドルアーガについてなんですが、それについてということでよろしいでしょうか?

俺もドルアーガ世代なので、ドルアーガは大好きです。あれは当時の隠しキャラ全盛の中で、ゼビウスの遠藤氏の次回作として登場し「遠藤氏vs全国のゲーマー」という歴史背景があったので、大変にエキサイティングかつ面白い経験だったと理解しています。

ドルアーガは、別にクソゲーとして作られたわけではなくて、当時の歴史背景の中で、最大限のクオリティで作られ、その結果、歓呼をもって迎えられた作品であり、歴史に残る名作と思います。

が。そのドルアーガであってさえ。今の時代、予備知識無しで、「作品単体」だけで評価すると、「なんだかわからんゲーム」「すんごい手の込んだクソゲー」ということになりかねない。

だから歴史背景、ユーザコミュニティと切り離された「ゲーム単体の評価」というのはナンセンスだよ、ということを書いたつもりです。

yuayua 2006/09/02 10:39 レスありがとうございます。なるほど、「『遠藤氏vs全国のゲーマー』という歴史背景」のもとで私が遊んでいなかったこととの相違ですね。私はゲーム好きでしたが、「ゲーム好きはたいてい自分でゲームを作っていた」といわれると、おまえはゲーム好きじゃないのだと排除されてしまうかもしれませんが(笑。「今の時代、〜ということになりかねない。」とあるので、上でした質問には納得しました。

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/02 19:34 >yuaさん
すんごい昔。まだ、パソコンとかなかった頃は、コンピュータを使う人=プログラマー(場合によってはハードデザイナー)でした。
そういう人が「ゲーム」をする場合、なにせプログラマーなので、遊び終わったあとは、自分でコードを改良したり新たなゲームを考えたりするのが普通でした。
初期のパソコン文化でも、そういう部分は大きかったです。

今でも、ゲーム好きが高じて自分でゲーム作る方は多いですね。

howhow 2006/09/07 18:54 motidukisigeruさんは東浩紀に絡みながらでないと自分の意見を言えない、という印象があるんだけど。それって逆に東浩紀を強化している気がします。ここ数年のオタク論の流れは東浩紀を前提にしたり、強化してばかり(東本人はほとんど何もしてないのに)……。中身がない筈の東浩紀抜きのオタ論って、オタク自身にもできないのでしょうか?

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/07 21:08 いやまぁそういう日記ですので<東浩紀氏の文章に絡めながら。

ただ、たとえばこのエントリー等、ほとんどの論旨は東浩紀氏の論抜きで成立しますし、前提にしたり強化したり、というほどではないと思います。

※東氏の論旨を強化している部分がありましたら教えてください。

さて、オタ論ですが、オタクといっても色々な人がいて、色々なことをしているわけです。筆者は、「オタとはこうである」というような一義的なオタ論には、それほど興味がありませんし、また構築する必要も感じません。

ただ、事実として間違ったことや、あまりにも牽強付会な論があったら批判するというだけです。

その上で、オタクによるオタ論は、東浩紀氏抜きで、色々な人に語られていると思います。

howhow 2006/09/07 23:38 美少女ゲームは、システムで売るよりもシナリオやキャラで売るほうがラクだからそうなった。なんてのはただのmotidukisigeruさんの印象で何の考察もないし事実の否定でも何でもないです。東浩紀の論抜きで成立することをわざわざ東浩紀に絡ませるのは、motidukisigeruさん自身、自分のオタ論が東浩紀抜きでは面白くない、読まれないということを自覚しているからでしょう?露骨な寄生というか。東浩紀がオタを利用する、という当初の風潮が逆転して、オタクがこぞって東浩紀、もしくは東浩紀の論を利用して、あるいは拡張して自分の論を広めようとする。ここ数年ありふれた風景でした。しかしいわゆる第三世代の東チルドレンですら、もはや死に体の東浩紀から離れていっているのに、motidukisigeru さんのような古いオタクが東周辺にいなければ現在のオタ論をやっていけない、というのは非常にオタクイズデッドで興味深いと思うのです。

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/08 02:55 >howさん
「美少女ゲームは〜」の部分については、では、後ほど、もう少し詳しく書きましょう。

>東浩紀の論抜きで成立することをわざわざ東浩紀に絡ませるのは、motidukisigeruさん自身、自分のオタ論が東浩紀抜きでは面白くない、読まれないということを自覚しているからでしょう?

「面白い」「読まれやすい」と「正しい」はイコールじゃないんですよ。

主観的な話をさせてもらうなら、俺の書いてるのは「つまらない正論」です。本来、書く必要もないようなことです。
ただ「知らない人には面白いけど偏見だらけの暴論」が膾炙すると、オタクとしては迷惑なので、「つまらない正論」を持ち出す必要が出てくるわけです。
「暴論」の大本である東氏の読者に届いてほしいため、また、「つまらない」部分を補うため、積極的に東氏の人気に寄生してます。

逆説的に言えば、東氏の人気がゼロになったら、この日記を書く意味もなくなります。

※それはそうと「オタクがこぞって」というのは、どのへんの論を指しているのか正直、全然わかりません。

さて東氏の「第三世代の東チルドレン」他「コアなオタ論ファン」への影響は減ったかもしれませんが、「オタク業界をよく知らない人への紹介者」という位置づけは、未だに存在するのですね。

今回、この日記を再開したのも、CEDECの中で「哲学者で批評家」として東氏がコメントしているからです。こういう場所での発言は「専門家のコメント」として、普通の人に対して大きな影響力を持っているのですよ。
故に、それに対する批評が必要だ、と考えるわけです。

さてさて「非常にオタクイズデッド」ですか。
「○○イズデッド」は安易に耳目を集めるための便利な言葉ですが、具体的にはどういう意味ですか?

オタ論がない、というhowさんの意見を認めたとして、それがどうしたのかなぁ、と、個人的には思います。現実問題オタクは沢山いますし、「オタ論」があろうがなかろうが、生き死にには関係ないと思うのですが。

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/08 03:04 例えば、おおかたの野球ファンは「野球ファン論」についてあまり語ったりしません。それをもってして「ヤキュウファン・イズ・デッド」という人がいたら、変な人だなぁと思うわけです。

オタクも、また、同じ。東浩紀的な「オタク論」を、オタクは別に必要としてない、という考えもあると理解していただきたいです。

howhow 2006/09/08 11:49 東浩紀の現在の仕事ってオタクがどうのなんて関係ないゲーム論やポストモダン論でしょう?むしろ東浩紀を必要としているのはmotidukisigeru さんはじめとしたオタクに見えます。本来オタクとは関係ない東浩紀の論を経過してしか、現在のオタクを語れないとしたら、オタクイズデッドです。オタク論がいつのまにか東浩紀論になってしまったというか。「ヤキュウファン・イズ・デッド」という人がいたらおかしいとmotidukiさんは言いますが、motidukisigeru さんにとって野球ファンとオタクは同じ主体ですか?オタクの総体は増えても「オタク・イズ・デッド」と涙ながらに現在の状況を語ったのは他ならないオタキングなんですが……。(巨人ファン・イズ・デッドとかもさんざん言われてるし、そもそも何が変な人のかわからないけど)

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/08 12:30 howさんとは、「オタク」に関する認識がずいぶん異なるみたいですね。

俺にとって「オタク」とは、まぁ、例えば、エロゲやらマンガやらアニメやらに時間を費やしていて、そのことに自覚的である集団です。

いわゆるカウンターカルチャーでは、「既存の文化へのアンチテーゼ」みたいな部分がありますから、自覚的な主義主張が重要な位置を占めます。

一方で、普通、オタクというのは、基本的に「趣味を楽しみたい」以上の主義主張はないので、本来そうした自覚的な「オタク論」を必要としていません。ですから「現在のオタクを語る必要」はないんですよ。

ただ、それはそれとして、間違ったことを言われれば迷惑なので訂正くらいはするというだけで。

で、少なくとも今現在、大半のオタクにとって、岡田斗司夫氏は、別にオピニオンリーダーでもなんでもないです。岡田氏は、かつてオタクのポジティブなイメージを世間に植え付けようという運動をされていました。その運動、主義主張における「オタク」に関しては、「イズ・デッド」なのかもしれませんね。

ただ、それは、一般的な意味でのオタク。つまり、秋葉原で歩いてるオタクさんの99%は意識してないことでしょう。

>motidukisigeru さんにとって野球ファンとオタクは同じ主体ですか?

「同じ主体」というのは具体的にどういう意味ですか?

野球ファンは野球を楽しみ、オタクはオタ趣味を楽しみます。野球オタクというのもいますね。もちろん、野球ファンと、(例えば)アニメオタクの間には共通してる部分も差異もあります。

>(巨人ファン・イズ・デッドとかもさんざん言われてるし、そもそも何が変な人のかわからないけど)

”巨人ファン・イズ・デッド”で、ぐぐったらゼロ件でした。howさんの回りでは通じるかもしれませんが、あまり一般的ではないのでは?

howhow 2006/09/08 15:11 なるほど、ラノベ論とかオタク論を好む人たちはオタクではないとw
オタキング好きな人はオタクから排除すればいいわけだ。
アニメやゲームの無邪気な大量消費者がオタク。
世界中に存在するポストモダンの子どもたちですね。
それこそまさしく、オタクという言葉が解体した現状なんでしょうな。
実際、アメリカ人とかの方がアニメやゲームについて論ずるの好きみたいです。

いずれにしても、オタクがここへ来て自らを規定するオタク論を
必要としなくなった、動物化したというなら、その事実を無視してはいけないということです。

それにしてもオタクと野球ファンが同じイメージで語られる時代が昔にあったのか?
あるいはお互いの自意識が似ていた同じ時代があったのか?甚だ疑問です。
それは「つまらない正論」というより「現実逃避」に近いですね。
ここ最近の急激なオタクの変質、という問題を見なかったことにしようとするあまり、
全部同じさ、という曖昧模糊としたことしか言えなくなるのは悲しいことです。

motidukisigeru さんが東浩紀に寄生しているだけで中身がない。
というのこそが端的な「つまらない正論」になってしまいます。

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/08 20:02 >オタキング好きな人はオタクから排除すればいいわけだ。
逆ですよ。オタクの中にはオタキング好きな人も含まれますが、それをもって代表させちゃいかんということです。
野球好きの中に、「野球ファン論好き」もいるでしょうが、一般的ではない、という話です。

>それこそまさしく、オタクという言葉が解体した現状なんでしょうな。実際、アメリカ人とかの方がアニメやゲームについて論ずるの好きみたいです。
作品について論じないとは書いておりませんが。オタク論→野球ファン論あって、試合論や選手論ではありません。で、オタ論の好きなオタクもいますが、howさんの見るところ、それが全部東浩紀関連なんですか?

>いずれにしても、オタクがここへ来て自らを規定するオタク論を
必要としなくなった、動物化したというなら、その事実を無視してはいけないということです。
「ここへ来て」ですか。なるほど。ではhowさんの考えでは「これまで」とどのように変化したのですか?
それについて教えてください。

>ここ最近の急激なオタクの変質、という問題を見なかったことにしようとするあまり全部同じさ、という曖昧模糊としたことしか言えなくなるのは悲しいことです。
まず、このコメント欄は現在の話をしているのであって、過去と比べて全く変化していない、ということは書いていません。
次に、オタクが自らを規定するオタク論を持たなくなった=動物化、という場合、野球ファン論をもたない野球ファンは動物、ということでよろしいですか?
だったら動物であって一向に差し支えないと思います。

私の見るところでは東浩紀氏は、オタクの活動についてのサンプルが足りないため、明らかにおかしい世代論をひけらかしているわけですが、それをもって「最近のオタクは変質した」という読者の方も多いです。
昔と今で変わった点は当然あります。が、それを「動物化」とか「イズ・デッド」と表現するかはまた別の問題ですね。どのように「変質」したのかを、きちんと書かずに、一方的に「現実逃避よばわり」は心外です。

最後に、望月の規定するオタクについては最新の記事で書きました。そちらも参照のこと。

motidukisigerumotidukisigeru 2006/09/08 20:46 例えば普通に野球が好きな野球ファンがいたらそれは「野球ファンイズデッド」で動物でポストモダンなんですかね。
常識的には、そうじゃないと思うんですが、だとするとオタクだけなぜそう言われないといけないんですか?

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