『板尾創路の脱獄王』@シネマート心斎橋(ややネタバレ)

國村隼先生演じる金村が、十二年ぶりに鈴木と再会する場面。國村先生の高鳴る靴音は、まるで心の高なりのよう。ふと差し込んだ光に、我知らず惹きつけられ独房へ近づきその小窓を開ける。その偶然こそ、運命。たった一瞥、声を交わし合うこともない再会。そこで、これは恋の映画だ、とわたしは理解した。

幼き日の鈴木が、鉄棒へぶら下がり目に焼き付けた逆さ富士。鈴木の胸に彫り付けられたその図案は、しかしその肌にのみ刻まれたのではなく。人生そのものへの刻印であったことがわかるとき、やはりこれは恋の、燃えるような恋慕の映画だと確信した。

…というようなことは、当の板尾監督はあまり意識していないような気はしますが、とにかく、脱獄映画として「自由を追い求める」という定石的主題を敢えて避けようとした結果、このような情念の物語にたどり着いたという、その意外なほどのストレートさはうれしいおどろきでした。そして、意外なほど十全に映画的であることも。(この点において「クリエイティブディレクター」としてクレジットされている山口雄大監督がどこまで携わっているのか興味深いところです)

闇と光の使い方、見せるものと見せないものの選別、「逆さ富士」や「鉄格子に滴る血」などの鮮烈なイメージ、そして役者たちの顔。しかし思い返してみれば、板尾創路とはそもそも、映像の人ではなかったか。彼はおそらく一般に「シュール」な芸人として認識されているでしょう。その「シュール」=「わけのわからなさ」の由来は、彼がほとんど「どのようにおもしろいか」を説明しないことにあります。そして、映像ほど「わけのわからなさ」をたたえたまま、それでいてきっぱりと何かを伝えるメディアは他にないのではないか。その画が「何を意味するか」はわからなくとも、「画」そのものは網膜に像を結ばずにはいない、という具合に。板尾創路、と言えば誰もが真っ先に上げる仕事「シンガー板尾」の「唄」も、常になんらかのイメージを喚起させるものではなかったか。そう考えれば、また、役者として映画の現場で仕事を重ねてきたことを鑑みれば、「意外」などと思うことこそが不見識であったのかもしれません。

むしろ、これほど潔く、わかりやすいものをつくり上げた、つまり「映画」として整えてきたことこそを驚くべきなのでしょう。正直、唐突な歌唱シーンが訪れたときは、ああ、松ちゃんと同じ轍を踏むのか、と心が萎みかけましたが、それもこの映画の一部としてきちんと機能していることがわかったとき、この人は映画を撮ることから逃げなかったんだな、と直感しました。(どうしても比べてしまうのですが)松本人志監督は『大日本人』で映画から逃げながら映画を撮った。しかし板尾創路監督は、映画に真っ向から取り組んだ。「映画」のリングに上がった上で、板尾創路の試合をして見せた。だからこそ、この映画のオチはこれ以外にはありえない。

どういうオチになるか、は板尾先生があるところへたどり着いたときに誰にも予想がついて、わたしはでも、そのオチはいやだな、と思いました。しかし、しかしですね、そのオチが映像として具現化したとき、それを目にしたときわたしは「ああ、これでこそ板尾創路の『映画』だ。なんと堂々たる処女作だろう!」と感嘆してしまったのです。國村先生のあの科白、そして板尾先生と松之助師匠のあの微笑み。二人の老人の薄い胸に刻まれている/いないもの。それはまさに板尾創路の世界観そのものであり、また映像として立ち現れたときにこそ圧倒的な強度を示すものであるということ。つまり、これが純然たる映画であるということ。…板尾先生ったら凄すぎるうう!話が違う!

もちろん、拙いところもあります。回想シーンの最後のモノローグはあからさまに説明科白になってしまった。宗教的モチーフは使い方がおざなりすぎる。あれじゃ死んでる、とか、いつ鍛えたんだ、とか、そのパ○○○○ダーどっから持ってきた!とか辻褄の合わなさ過ぎるところがある。でも、それもひっくるめて、堂々たる、本当に堂々たる「処女作」だと思います。

最後に特筆事項としてはキャスティングね。ほぼ全員文句ない。出色はぼんちおさむ師匠と松之助師匠ね。もう、ふるいつきたい。あとねえ、どういうお積りか存じませんが、そもそも自分を追わせるお相手に國村隼先生をお選びになるなんて板尾先生ったらもうもうっ☆と申し上げたい。さらに國村先生のあられもないお姿があまりにあまりで、もう堪忍していただきたい。あまつさえ、鈴木と父親とのふれ合いの場面には不穏なほどのエロスが漂っており、板尾先生どういうお積りかとやはり詰め寄りたい。しかし板尾先生のデレ(國村先生が休暇中に云々)はちょっとやり過ぎではないかと再度詰め寄りたい!

豪腕投手の試合運びか、あるいは… ハ ン マ ー で ガ ッ ツ ン ♪ ガ ッ ツ ン ♪ み た い な ♪『96時間』(CinemaScapeコメント再録)

思わせぶりなタメを作らずにガンガン球投げて、かつ一本調子にならずにテンションを維持する力ワザに惚れ惚れしたワァ。主人公も物語も止まりません。誘拐された娘を取り返す、ザッツオール。その筋だけ取り上げると『コマンドー』が浮かぶわけですが「何が始まるんです?」「第三次世界大戦だ」でおなじみ、ぼくらのだいすきなお茶目☆でトキメキ☆のハチャメチャ☆なハッタリ☆感と違ってゴリッゴリにアクチュアルなところがこの作品の身上でチャームポイント、かつ強引な試合展開に説得力を持たせる強化系魔法となっています。セレブな継父の懐を狙った、あるいはビジネス絡みの誘拐か?と思いきや単に人身売買組織の犯罪に巻き込まれたという事件のスケールの小ささがかえって切迫感を生んでいたりして、しかもそれがたまたま、ではなくてきちんと狙ってやっていそうなあたり「リュック・ベッソン脚本になってるけど、あいつぜってーなんも書いてないぜ!」と微笑ましい気持ちになります。

以下ネタバレのため畳みます。

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マイケル・ジャクソンのこと

ご多分に漏れず、その人が死んでから思い出したように、ユーチューブでマイケルのPVを見たりしている。死んだ、と聞いてとにかくびっくりしたけど、アイコンすぎて、遠いひと過ぎて、その存在が浮世ばなれし過ぎてて、悲しいと言う気持ちは湧いてこない。でも、早すぎるよなあとは思う。

「マイケルまじキチガイ!ホモペドプギャーm9(^Д^)」みたいなのはキライだ。今は死んだばかりだからそういう言動は見かけないけど、マイケルに関するゴシップが流れるたびにそういう反応がわりと当然、という一定のコンセンサスがあるのはイヤだった。あの裁判だって結局すべての罪状について無罪だったのにさ…。

そんなふうに、なぜか、いつのころからか、わたしはマイケル親派だ。*1たしかに奇矯*2なひとだけど、その奇矯さを哂う気持ちにはどうしてもなれない。哂うよりも、年端も行かぬうちからショービジネスの世界で生き抜くことの業とかを想ってしまう。もちろんマドンナみたいに内も外もコントロールして強靭にサバイヴするひともいる。でも、マイケル・ジャクソンの魅力はそうではないところ、子供のような稚気、繊細さやシャイネスにこそあったとわたしは思うので、それが結果として行動の奇矯さを生んでしまうこともやむなしと、いや、せめてそんなにプギャーm9(^Д^)せんといたげて!と思ってしまう。


マイケルの踊りにはとてもクセがある。けっこう猫背気味だし、手足はダンスの基本的な動きから外れて奔放に無造作にうごく。上の映像では6:15ごろからの群舞、下の映像では4:55ごろからのひとりで踊っているパートを見ると特にそう感じる。

マイケルのダンスが唯一無二であることなんて今更すぎる話だけど、独特の「振り」を生み出したということ以上に、体の動きそのものが独特であることこそ重要だという気がする。

マイケルのダンスを見ているとドキドキする。それは、むちゃくちゃ「ゆらぐ」から。独特であるということは、美しさの基準からはみ出しているということでもある。ゆえにそれは、気持ち悪さと紙一重ですらある。「美しさ」からはみ出して「気持ち悪い」の一歩手前へと度々ゆらぐ。ゆらぎながら、同時に、美しさの「基準」の方を揺るがす。マイケルのダンスは、「気持ち悪い」の一歩手前にゆらいでも、平気で「これは美しい」という顔をする。そして実際、見ているものはそれを認めざるを得ない。「美しい」とされていることとは違う、違うのに美しい。なぜかは知らない。知らないが、認めざるを得なかったという動かぬ事実はある。重要なのは、とにかくそれを認めさせるほどの力があったということだ。基準はいずれ変容するものだが、それをたったひとりの力で揺るがしうるところに天才の凄まじさがある。

独特の「振り」があるだけでなく、動きそのものが独特であるとうことは、その「ゆらぎ」が頻繁にたち現れるということだ。ほんの数分の間に「美しさ」がゆらぎまくるPV。そんなもん、スリリングでドキドキするに決まってるだろうが。

そしてわたしは、教科書どおりであることから少しずつズレようと(おそらく、戦略的にと言うよりは無意識に)するしぐさに彼の繊細さやはにかみを見る。それでいてギョッとするほどあからさまにエロティックなうごきをしてみせ(ながら、挑発的なエロ顔ではなく照れを含んだ悪戯っぽい笑顔を浮かべ)るところに稚気を見る。「美しい」の基準を外れても平気で「美しい」の顔をしているところにも。だから…と、それを行動の奇矯さに直接結びつけて考えるのは無理筋だとはわかってはいるが、それでも、その人がその人であることの ―美しさも醜さもかしこさもバカさも、とにかくいろいろなこと全部ひっくるめた― どうしようもなさを想うと、やっぱり、せめてそんなにプギャーm9(^Д^)せんといたげて!とは思ってしまうのだ。

*1:たぶん、MJマニアのNONA REEVES西寺郷太氏の影響は強い。

*2:ネバーランドだったりバブルスだったり、つまりあまりにもコドモのまんま年だけ取ってしまったっぽいところとかが。性的嗜好なんて結局は本人にしかわからないことだし、どんなふうであっても(誰かにひどいことをしたりしたのでない限り)責められるべきことではない、ということは敢えて書いておく。

『エグザイル/絆』@高槻ロコ9プラス(CinemaScapeコメント再録)

んもおおうトー先生ったらやりすぎ!この映画ドスケベ!ヘンタイ!露出狂!隠すフリぐらいして!

これはひどい。もうねえ、全裸すぎ。フルスロットル。キモチイイことしかやってない。隠す気もない。あのね、このゼロ年代も終わろうというご時世にド真ん中ストレートで『ワイルドバンチ』とかありえない。杉作J太郎でももうちょっとなんか言い訳とか照れ隠しとかすると思う。三すくみとか空き缶とか引越しの手伝いとか記念写真とかエンストとかリッチー・レンのキャラクターとか棒立ち銃撃とか野営で焚き火でハーモニカとかちんこの揉み合いとかウィスキー回し呑みとかプリクラとかまた空き缶とか、もうねえもうねえもうねえ………ありえない。トー先生あほすぎ。もしくは悟り開きすぎ。だって「“スタイリッシュ”すぎて馬鹿馬鹿しい…けどカッコイイでしょう?」程度のメタすらないぐらいベタなんだもん。「男の美学」をやりすぎてやりすぎて童貞ウォーズになっちゃってるんだもん。端的に言ってどーかしてるよ!でもトー先生躊躇ないの。「王様はハダカだ!」って言われても「ハダカですが何か?」って返す勢いよ。

しかしこれがねえ…キモチイイんだよねえ…。もうずっとニヤニヤしっぱなしだったもんねえ…。この映画がいつまでも終わらなければいいのにと思ったもんねえ…。げに甘美なるはホモソーシャルの浪漫よ!ああ!嗚呼!(腹上死)こんな最上級のマタタビを喰らわされたからには、たとえド変態と罵られようとも、リアリティなぞ犬に食わせてこのメルヒェンに殉じねばなるまい。トー先生には一生ついていきます。

予算6億円の同人映画『CASSHERN』(CinemaScapeコメント再録)

非商業の映画は一般的に「自主映画」と呼ばれますが、敢えて「同人」と呼びたいのは、原作アニメあっての二次創作であるが故でしょうか、この映画の「オレの考えたキャシャーン100%」っぷりに自主映画でなく同人誌を連想してしまったからです。

・壮大なスケールで別世界を描いてみせたはずなのにどうしようもなく「狭い」ところに「セカイ系」と同じ匂いを感じる。

・お金も労力も惜しみなく注ぎ込み全力で構築したビジュアル・イメージは既視感にあふれており、また、端からそれを隠す気もなく、むしろ全面に押し出しているかのような「こういう画おまえら好きだろwwおれもwwwww」的ktkr感。

・「きれいな」キャスティングに象徴されるマガジンハウス的ソフィスティケイト。何を描いても何もかも清潔。よごれも痛みも清潔。

そんなところも含めて「わたしたち」と同じ病、より乱暴に言えば同世代的なそれを勝手に感じ、どんよりした気持ちです。もう少し何かひっかかるところがあれば激しい同属嫌悪にかられたかもしれません。

そんな個人的感慨は別として、とにかく、物語ることについての資質も、実は興味も、ないのかなあと思います。ならばもう、映画としての体裁だけは整えるなんてことは放棄してしまえばどうだったでしょう。案外、見たこともないようなド凄いものが出来たのかもしれません。もしくは映画のお約束が全然守れていなくても、そんなことがどうでもよくなるような「異常な過剰さ」があれば、愛せたかもしれない。そのどちらにも突きぬけられなかった残念な映画だと思います。

とは言えテーマはとても立派です。「<先ず>赦すことから<しか>なにも始まらない」これ、わたしが一本前に観た映画のコメントの一部なのですけど、なんと『CASSHERN』がその映画と同じことを言ってたというシンクロシニティにビビってたじろいだことはさておき、これ超厳しいけど超真実ですよ。立派。でもいかんせん、ラストシーンで唐突にこんなこと言われてもちっとも響かないよね…。

空虚な台詞に誰もが潰される中、それに負けない唐沢寿明って凄いんだな、と気づかされました。さすがシェイクスピア役者。大滝秀治が凄いのは知ってたけどやっぱりすげえ。息子との電話が切れたところの芝居。人間の発するノイズを徹底的に排除したこの映画の中で唯一排除し切れなかったノイズでした。この映画に最も嵌っていたのがミッチーで、期待された仕事を十全にこなしており、それは主演を含めた他の役者と比べて大いに評価されるべき仕事ぶりではあるのだけれど、そこにこそ彼の悲劇があるような気がしました。それがなんなのか、まだ言葉には出来ていないのですが。