真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

目にする論調全体がゴシップ記事化してる

見たいもんばっかでレコメンデーションを安易に走らせると、当初は良質なものが集まることもあるけど、長期に見るとどうにもうまくいかないもんなのかもしれない。

確かに多様な人が均等に意見を言い合えば全体が「正しい」方向に行きやすいってのはありそうな気もする。ただネットではその議論は前提からして成立しないので検証できない。『みんなの意見は』で集合知が成立している前提となる判断の独立性とか多様性というのがはなっから存在しない中で、なんでネットの意見の話と集合知の話がうまくリンクしちゃったのか今でも不思議だ。

特に、ネットの場合は参加している人の単純な平均より力強い主張をする人の知的平均を見る方がいいと思う。つーのも実際に人々が影響を受けるのはそういう人々の意見からだから。また世論形勢も今後下手するとそういう方向になりかねない (幸いまだなってない)。

んで、見てみるとその面での知的平均は結構低い。例えば下流なんたらでぶーべー言ってる人が下流とは何かに関して深い洞察をしている人と比べて、発言したがる回数が圧倒的に多い。

レベルがある一定に満たない論壇で、異口同音の主張を「おれがおれが」みたいな感じでみんなだらだら延べ上げるという傾向は学会でも少なくないとはおもう。だから査読とかがあり、パーフェクトではないまでも多数決だけに依らない議論が成立する。また質が高まってくると発言者の方も自分の主張がどの立ち位置のものであるか把握し、発展性がなければ取り下げるか「サーベイ」という視点に変えてあくまで情報の質にこだわる。まぁあくまでそういう傾向が十分含まれているという程度の話でしかないんですけど。

どうもネットのここ数年を見て、そういう情報の調停メカニズム自体を集合知に依存しすぎて、平均値が徐々に押し下がってるような印象を受ける。以前見た内容が何度も言葉を変えて出てきて、ガイシュツであることも考慮に入れられず物事の刺激的な側面だけしかとらえられていないというのに、ただ初見で何かすごそうというだけでその度にランクの上に来る。印象だけで判断すれば多数派のように見える、とか、重要な問題っぽく見える (けど実際は枝葉末節のどうでも良いちっちゃいことがらでしかない) 「議論の種」が重宝され、一足先にそれらの兆候と防衛策等々、建設的な事柄を指摘しようとした人には目を暮れない。そういう全体的に「程度が低め」の議論が巻き起こるのが常というのがここ最近のネットの傾向であることはそうなんだけど、それが「当たり前」になってきた昨今の事情は最初に知力のある人が「うぐっ」と息を詰めた感じとはまた違う、より根深い問題に思えるのです。

まぁ例えば問題が発生して仮にそれを予見出来たとしましょう。そうすると、今度ですね、後から「ほーら言った」って奴が多数出てきてぎゃーぎゃー騒ぐわけだけど、なら分かってた時点で止めろよ、というツッコミが今度はぎゃーぎゃーの声に埋まっちゃって、つまり抜本的な解決にはまるでなってない。あー、それがまさにゴシップっぽいってことなんですが。

ポイントは、最初から明らかに予見された「論壇のレベルの低下」の原因が、その場にいる人がその場の人に与えるフィードバックの数周後にやってくるということだと思う。つまり最初のうちは「結構うまくいくじゃーん」という結果が出るので「予見」が外れて見える。実際、オリジナルの主張では「フィードバックの数周先に甚だしい影響が起こる」というところは強調されてないので、外れて見えたときに言い訳が効かない。ところがながーい目で見ると、主張の「意図」通りに状況が徐々に悪くなっていくということが見えてくる。短期では何であっても社会的な影響は分からんもんだ。

幸い10年とかネット使ってて、多数派に依らずに、色々考えてみた結果良さそうに見えるようなネタをピンポイントで拾い上げるというスキルが若干なりともついてくるので、「私」はいいんだけど、今後その世界に投入される若者はさらに今の「若者」が作ったそういうネガティブループにはまるんだろうなぁ、という気がした。衆愚とは長期的な傾向なんだねぇ。

一つのアドバイスとしては本当に信用できる「師匠」を探し求めることですかね。正直なっかなか見つからないと思うけど…

#というのもそういうランクの人、ネットではめっきり喋らなくなっちゃいましたしね。特に日本だとメディアに露出してるのは一流の人ではないということが結構増えた気が。ほんの少し前はそうでもなかったのにねぇ

追記 (2011/05/18): 2011-05-19 - 真 もわ爛漫 メディアなどによる情報共有によって集合知が弱まるということが研究レベルで実証されたそうな。