ツイッター

今さらですが、表題のものをはじめました。


https://twitter.com/mozukusex


フォローとかは、いや、どうせつまらない文章しか書けないから恥ずかしいので、それでもお願いします。

なお、表題のものに呟くことによって、文章に悪い癖がつかないかと危惧しております。

また、悪い癖がついたところで大して変わらないだろうとも思っております。

なんて、自虐というのは、他人から笑われる前に、自分で笑ってしまえという、悲しい防衛本能なのですね。ほんとうは、誰だって格好良く生きていきたいのです。

生ぬるい素麺はじめました

食事についていつも思うことがあるのだけど、けっきょくは自分の怠惰を露呈する形となるので公言するのが憚れます。

でも、これってやっぱり前フリでしょう。
いまから書くに決まっているのです。



さて、私だったか僕だったか、いまだに過去に用いた人称が思い出せない拙者が語るところによると、お腹が空いてから料理をはじめても遅いということと、拙者が語るところによると、というのは文章がおかしいよ、ということです。


たとえば、今まさに私はお腹が空いています。
今日は素麺を食べるつもりです。
さらに言えば、素麺を茹でる時間を利用して、この文章を書いております。タイムリミットはあと五、六分といったところでしょうか。

素麺は言わずもがな夏の涼しい食べ物です。しかし、茹でたては熱い。食べられたものじゃない。
そのため、湯切りをして、冷水にひたして、ボウルに氷を大量に浮かべて、と一つひとつ工程をたどっていくのですが、そのうちに私のお腹と背中がくっついてしまうというわけです。


素麺にかぎりません。カレーライス、グラタン、肉じゃがにラタトゥユなんかも調理中になにかをつまんでいないととても作れない。そして、つまんでいるうちにお腹いっぱいになってしまうこともあるし、カレーを作ったもののお米を炊き忘れていて膝から崩れ落ちることもある。


そういうわけで、途中で食べてしまえ!と、表題の生ぬるい素麺をはじめることになるのですが、なんということでしょう。これ以上書くと麺がふやけてしまう。


それでは、ぐっない。

あれ、何年ぶりno?

明けましておめでとう、自分。
いや、このブログを楽しみにしてくださっている方々に向ける言葉じゃないか。まてよ、ということは、やっぱり自分?


そういうわけで、ずいぶんひさしぶりにこちらへ書き物をします。

はじめに弁解しておかなければいけないのは、僕がこのブログを放っておいたのは、ばかにしながら始めたツイッターフェイスブックが思いのほか楽しくて、一行の軽みを極めようと日々を浪費したからではなく、ただ、ここの存在を忘れていたからであります。
忘れたというのは、正確に、たまに出先などでふと思い出したりもするのだけど、ブログが更新できる状況、つまり家でのんびりしているときはすっかり失念しちゃっているということを指します。


だれに弁解?だから、このブログを楽しみにしてくださっている方々に、つまり、自分?いや、もうこのネタはいや。


過去の日記にさかのぼると、僕が最後に書いたのは去年の4月。しかも、やはり下らない、内容がないようなものしか書いていない。うん、内容が、ないような。

もはや、一人称である自分を僕と呼んでいたか私と呼んでいたのかさえも曖昧になっていて、そのあたりは今日からまた仕切りなおして「僕」に統一してもいいのだけど、果たして、次に書くのはいつか。書かなければいけないと思うことで、それは宿題となり、宿題は何歳になってもいやなものだから、ほら、もう、書いている途中からすでに書きたくなくなって、すぐ下にある保存ボタンを押してやろうかしらという気になるのだけど、しかし、これ、いつまで句点を打たずに続けられるのだろうか、いつまででも続きそうな気がする。

あ、おわった。


今回はブログを書くためのブログのようなへんてこなものになったけれど、次回からはきちんと書きますよ。

立ち小便

部屋のベランダから見える茶色いマンションのエントランス。小さい子どもが出たり入ったりを繰り返していて、何をしているのだろうと思ってみていたら遊んでいるだけだった。
どうやら子どもの想像力についていけないほどに年を取ってしまった大人な私、二十八歳です。

社会人として働き始めて七年くらい、はじめて暦どおりの生活を始めた私ですが、言いたいことは、どこに行っても人が多い。遊楽地や新規オープンの店ならともかく近所のカッフェや行きつけのスーパーまで人で溢れている。しまいにはコンビニも立ち読み客で賑わう始末で、何かほら、もっとやれることがあるのではないかと、人ごみに疲れて早々酒を飲み始めた私は思うのですが、だからと言って道行く人をつかまえて、「ほら君、もっとさ、世の中のためにできることがあるだろう」と言うにはあまりに自分の立場が不明確すぎて、結局子どもは無邪気でいいな。でも無邪気って漢字で書くと案外恐ろしい字面だな、と思いながらベランダから外を眺めて、あっ、あの子駐車場の隅で立ち小便をはじめやがった、と、そんな春の夕暮れです。

送別会

送別会があった。
乾杯の挨拶時以外にひとことも別れについての言及がない、妙な、というか限りなくただの飲み会に近い送別会だった。もしかしたら、この間まで特別整理期間だったので、その慰労会であったのかもしれない。
私はテーブルの端に座り、彼ら(実際には女性が多い職場なので彼女ら)の楽しげなおしゃべりをぼんやりと聞きながら麦酒を嘗めていたのだが、そこでようやく思い出した。
これは私を送別する会である。
目下のテーブルには自分で盛り付けたサラダと片付けられてない空いたグラスが切なく座っていて、本当はトマトも加えて彩りを良くしたかったのに、と思いながら緑と紫で単一化されたサラダに箸をつけた。噛み切るに苦労した。
彼女らの話題はどうやら胸の大きさに移ったようで、一人が身振りも混じえて説明すると、一人はコンプレックスをもっていると笑いながら語った。
私もその話し合いに加わりたい、と思ったがもちろん提供できる情報などなく、一人の仕草、つまり自身の胸を恥ずかしげもなくわし掴みにする様子に萎縮してしまい、もはや男性としての性別を否定された気になって店員を呼ぶボタン(このボタンの正式名称が知りたい)を押して麦酒のおかわりを頼もうとすると、
「カシスオレンジも一緒に頼んでおいて」
と同じテーブルの誰かの声がした。
同じことを何度も言って恐縮だが、これは私を送別する会である。
しかし、私はそれを我慢して、然るべき後、こう言うのだ。
「あ、カシスオレンジきましたよ」



本当は、送別会を開いてくれてありがとう、と書きたいだけなのに、今までの生き方で染み付いている何かが邪魔をして、私を素直にさせないのだ。
次の職場でこそは、がんばります!

はつれ雪ふる、二月のはじめ

西区にある職場に東区から自転車をこいで、いや、自転車のペダルをこいで通っている。
と、書くと当たり前に思われるけれど、東区と西区のあいだには中央区というものがあって、ほとんどの場合、その区域が一番長い距離をもっているのである。具体的に言うと、私の細くて軽い自転車で約四十分、それも遅刻しそうなぎりぎりの緊張感で車道を走ってようやく着く。それを往復と、九百メートルトラック×三周の早朝ランニングを毎朝続けている。ばか、早朝ランニングと書いているのだから、毎朝と書かなくてもいい。
「すごい。がんばっているのね」
なんてことを人からよく言われます。


これだけではただの自慢である。いや、少し自慢したい気持ちがないわけではない。だって、そうじゃなきゃわざわざ書かないもの。
しかし、問題なのは、これだけカロリーを消費しておいて体型に少しの変化も見られないということで、それはつまり、同じだけのカロリーを摂取しているということになる。

そんなに食べているのですか?いえ、食べていません。

そう、私はそんなに食べていない。同居人と同じ量しか摂っていないのは盛られた皿を見ても瞭然であり、まさか私の料理にだけ大量のマヨネーズがかけられているということもあるまい。

それなら、どうしてですか?お酒を飲んでるからかもしれません。

かもしれない、ではなく、そうである。冬だから、とか関係なく私は実に酒を飲む。たしなむ、どころではない。鯨が海水を飲むがごとし。まだ仕事中に手が震えないだけマシだが、震えだしたらおわりだ。入院だ。「酔いがさめたら、うちに帰ろう」だ。

ニーチェいわく
「自制心という言葉を知っているだけで、なにがしか自制できているわけではない。一日に一つ、何か小さなことを断念する。最低でもそのくらいのことが容易にできないと、自制心があるということにはならない」

洪自誠いわく
「花は五分咲き、酒はほろ酔い加減に、最高の趣がある。満開の桜を見たり、泥酔するほど酒を飲んだりしては、台なしだ」

向井秀徳いわく
「酔狂を悪いとは思わん。なぜなら俺自身、今まさに酔っぱらっているからだ。たいていビールから〜中略〜空気感が冬だ。短パンでいきがる小学生の決して明るいとはいえん行く末を勝手に想像しながら俺は自販機のワンカップを手のひらでぐるぐると弄んでいた」

これらはいつかビレッジバンガードで立ち読みした際に控えて置いた言葉である。
だからと言って、何というわけでもない。ただ、他人の言葉を借りて偉そうにしてやろうと思う、少し厭らしい気持ちがあっただけです。

ある二月の晴れた日に

二月二十五日(金)
晴れ。春風


有給をとった。
思い出したようにまとめて四日とったら、気を利かせた責任者がシフトの休みを調整してもともとある週に二回の休みを前後に合体させて、六連休になってしまった。余計なお世話だと思った。なぜならばそうなると、と私は思案した。それを見透かしたかのように同僚が
「あれ、山本さん、どこかいくんですか?もしかして海外?」
と無垢に聞くのだ。私はとっさに答えた。
「そうさね、自分探しばしよかと思ってね」
実に機転がきいている。
これには、けっきょく自分は自分自身の中にあったという[幸せの青い鳥]の法則と同じいいわけを適用することができて、休み明けのお土産は福岡空港で[通りもん]を買えばよいのだ。
ネタにもなる。個人的には博多ぽてとが好きだ。


旅行など、行く気がないのだ。言わせて貰うと、せっかくの長い休みなのに、旅行にいかないなんてもったいないという考え方こそもったいないのである。
私は新しい男なので、そんな見知らぬ土地よりも自分が根を張ったこの街を素晴らしいと思うことの大切さを知っている。消費社会から一線をひく生きかたができる。私の妻になる女性は実に仕合わせだ。
私は、この機会に福岡の街をみてみようと思った。

そうして、あっというまに六連休の四日目になった。
思い返そう。
一日目、私は天神の蔦谷と併ったスターバックスコーヒーに一日中入り浸った。人間観察が趣味と答える輩を観察してやろうと思ったのだ。ほんとうの話、人間観察が趣味と答える輩は、まさか自分が観察されているなんて思っていないからいけない。まるで自分が世界の中心だと信じてやまない、今どき、天動説を信じているような古くさい人間だ。
キャラメルマキアートを注文して、二階に上がった。たいして興味もないアート系の専門書をカモフラージュに人を見た。棚一列に並んだ本を[アート系の専門書]とまとめるあたり、私の興味のなさが伺える。しかし、[きことわ]の作者が私と同い年には見えなかった。小説家というのはやはり早く老けてしまうのですね。
そうして、さあ、観察してやろうとテーブルについたのだけれども、そこで私は気づいた。世の中にはもっと上がいるのではないかと、気づいた。
私は人間観察をしている人間を観察してやろうと思ったのだが、もしかしたら、人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうという人間だっているのではないか。さらには人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうという人間だっているはずだ。そうなると、人間観察をしている人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間を観察してやろうと思った人間だっているはずで、あ、もう、わからん!
とにかく、もう、せん。


そういうわけで、無駄に[きことわ]と[苦役列車]というほとんど対照的な芥川賞同時受賞作を読んで、中島京子の[桐畑家の縁談]と、糸糸山秋子の[イッツ・オンリー・トーク]を買って、帰った。最近、こういうの好き。
あと、寄り道してタワーレコードで[踊ってばかりの国]も買った。
なんだか、買い物日記みたいになった。



二日目はもう、天神には疲れたので家の近所を散歩した。新しくできたセブンイレブンでなぜかマヨネーズを貰った。昼過ぎから麦酒を買って飲んだ。家の近くの土手沿いをどこまでいけるか、ただ真直ぐ進むと最後はゴミ溜めみたいなところに着いた。殺風景とはこんなところなのだろうとわかった。
風が吹くと、お腹を冷やした。不法廃棄されたゴミはどんな強風にも耐え、その場にしがみついていた。まるで、私のようだと思った。
川をはさんだ向こう岸と、こちらでは家賃が違う。向こうが少し高い。駅が近くて、お店が多いのだ。私もいつかあちらにと思ったが、それがいつになるのだろう、その前に車も買わないとだし、貯金もしなきゃだなと考えると、すっかり酔いも冷めてしまった。二日目は失敗した。


三日目、朝起きるとなんだか目が痒くて鼻がムズムズする。アレがきた。同居人に告げると、もともと無駄な六連休を快く思っていないようで、
「そがんたしらん」と冷たく言い放った。私は薬局に走り、飲み薬と目薬、鼻にシュッとするやつを購入した。今年の花粉症対策には一万円までは出そうと思っている。そんなわけで、この日は一日中家でじっとしていた。
こうやって一日の日記が短くなっていくのは飽きてきた証拠である。


四日目、そうしてよく晴れた昼間から日記なんか書いている。よっぽど暇なのだろう。このままでは、六連休最終日の夜の後悔が目に見えている。
どうにかしようと思うのだが、新しい男はこんなことでは動じない設定なので、平気なふりをしようと思う。第一、新しい男という表現はとても古い本から盗んだ。もう、どうでもいいさ。