オーケストラについて 2

前回はオーディションの協奏曲を演奏する時の伴奏して頂く方について書いた。
「ほとんど前奏で決まるよね」
これはオケで働く仲間の多くが口を揃えて言う事なので多分間違いないとは思う。
もちろん僕も強く思う。
単なるオーディションの伴奏と思って来るピアニストの方にお願いすると前奏を弾き始めた時に×を書かれる。

難しいのはぴったりと自分に合わせて下さる伴奏の方にお願いしてもダメだと言う事。
受験者の癖がそのまま出てしまうから。癖とは多くの人が気付かないものだ。
もちろん僕自身もそう。
だからこそちゃんとオーケストラとして伴奏をして下さる方にお願いしないと言葉は単純だけど、損をする。
オーディションでのミスは僕は仕方がないと思ってる。
だけどオーディションの前の準備は誰でもが出来ると思う。
その中にお願いするピアニストを選ぶ事もオーディションの重要な準備だと思うな。


そして絶対にしてはいけない事。
パート譜だけと対峙して演奏しない事。
もちろんオーケストラスタディとして出題される所は、その楽器の演奏する難しい所や目立つ所が多い訳だけど、
どんなに技術的に難しくても多くの楽器と絡みながら曲は進行している事を忘れないで欲しい。
2次審査となると、打楽器、木管楽器金管楽器、弦楽器と全ての人が聴いている。
しかも受験者が弾いている所を自分のパートを頭で想像しながら聴いている。
その聴いているあらゆる楽器の人が自分のパートの事を意識せずに演奏している事はすぐにわかってしまう。

4小節間長く音をのばして、5小節目の音が切れる所まで出題されているなら、その5小節目にどんなハーモニーに変わっているのかも実はチェックしている。
単なる小節数のばしているのか、そのハーモニーにたどり着くまでどういう音色を保ち、そして変化させるか、実はそういう細かい所を聴いているものだ。
オーボエ宮本文昭さんは「縦の線を合わせる事が出来るのは2流、音の切り具合を他と共有できて1流」と良く言う。その通りだと思う。

少なくともスコアに書いてある情報は知って演奏して欲しいと思う。

僕は受験する方々を批判しているわけではないんだよね。
せっかく良い音を持っているのに、とても柔軟なテクニックを持っているのに、そんな受験者達がそんな基本的な事に興味を持たずに受験して消えていく事がもったいないと思ってたから。
優秀な人がオーケストラで、又は音楽で一番必要な事を準備出来るのにして来ないでオーディションではねられていくのを今までどれぐらい見て来た事か。
本当にもったいない。

とはいえ、オーディションはどのオケも公平で民主的なルールで運営されているはず。
素晴らしい奏者をちゃんと「素晴らしい奏者」と判断出来るオケが良いオケだと言う事に尽きるんだけど。
給料が良いオーケストラがもちろん良いオーケストラとも言えるかもしれないけれど、僕の中での良いオーケストラと言うのは良い音楽を「良い」と言えて素晴らしい奏者を「素晴らしい」とみんなが言えるオーケストラの事を言うんだと思う。
それは指揮者の事を語る時も同じ。
今はリハーサルを公開したり、ゲネプロを公開するオーケストラも多いと思う。
神奈川フィルも前の常任指揮者の時からリハーサルを完全公開した事もあるけど、その時にそのオーケストラはどんなオーケストラを知るには団員さんの指揮者に対する質問の質で判断出来る。
なるほど!という事を質問しているのか、どうでもよい質問をしているのか、これでそこのオーケストラの事はだいたいわかると言っても過言ではないと思う。


指揮者の下野さんが大阪フィルの副指揮者をされていた時の事をよく話してくれる。
「指揮者のとある一言でオーケストラの多くの人の顔が険しくなったり、信頼を勝ち取った瞬間をずっと見て来てあれがあったから今の僕がある。本当に良い勉強ができた」と。

公開リハーサルはそのオケの本質を知る絶好の機会だと思ってる。

オーケストラについて 1

オーケストラで働いて25年を超えた。
都響で4年、その後2年ほど全国のオーケストラをさすらい、神奈川フィルと契約して19年が経った。
全国のオーケストラで出会った友人達とは音楽の話からそのご当地のオーケストラ事情まで本当に多くの事を話した。そして膨大なオーケストラの仲間達にお世話になった。
有り難い事だったと思う。


僕自身がほんの少し成長する事は、本当に努力したって米粒1粒成長出来たら大成功なのは昔から感じてた。
下手すると最大限練習しても現状維持がやっとである事も。
長いスパンでないと結果はわからない。
だから今頑張ってる事は10年後にしか現れないと思ってる。
つまり、今の僕の演奏は10年前何をしていたかの結果なんだと。


よく「オーケストラを良くする」とか「オーケストラが上手くなった」という話を聞くけど、それは本当にそうなったんだと思う。それは確実に一人一人の努力もあるけれど、やはり素晴らしい奏者がオーディションで入って来た事が相当大きいと思う。
比較しちゃいけないけど、自分の成長を考えるととてもじゃないけど簡単に上手くなるなんて不可能。
オーケストラもそうだと思う。

1つの基準として素晴らしい奏者を素晴らしいと評価して、合格を出す事が出来るオーケストラが良いオーケストラ、あるいは1流のオーケストラなんだと思う。
そして、その素晴らしい奏者が新たに入団すると教えられる事が沢山あって、入団した奏者も中堅ベテランから学ぶ事が沢山あり、相乗効果でオーケストラは上昇気流に乗れる。
もちろん指揮者というのはもの凄く影響が大きいものの、内部での上昇はそれでしかなかなか出来ないと思う。


だから一番大事なのはオーディションだと思うんだよね。
僕ももう大人になったから正直に胸の内を明かしてもいいかと思うので書こうと思う。

オーディションには課題があって、協奏曲を演奏する事と、オーケストラスタディ(オーケストラの曲のその楽器の重要だったり目立つ所を弾く事)の二つが必ずある。
あとはオケによっては室内楽を団員と一緒に演奏したりとか、いろんな試験はあるにしても、まずは前に書いた2つは必ず通らなければいけない関門。

まずその協奏曲を演奏する時気をつけて欲しいのは伴奏者をちゃんと選ぶ事は相当大切だと思う。
何故か。
ピアノで便宜上伴奏して頂くけれど、オーケストラに入ると言う事はそのピアノが伴奏してくれた部分を演奏する事が仕事であるって言う事。
だからいい加減な伴奏者で良しとしてる人はオーケストラに入ってもそういう伴奏しかしないだろうと少なくとも僕は判断する。
でもその伴奏によって良い演奏になる時もあるし、足を引っ張られる事もあるのは多くのオケの仲間は口を揃えて言うから2つの理由からピアニストをちゃんと選ばないと1次オーディションは突破はまず無理だと思う。


オーケストラスタディについてはまた長くなるので次回書きたいと思う。

チェロの日

先日、日本チェロ協会主催の「チェロの日」が今年も行われ、その第1日目にベートーヴェンソナタの2番を弾かせてもらった。
お客様は一般の方ももちろんいらっしゃって下さったけれど、ほとんどがチェロ協会の会員の方々とチェロ界の大御所、僕の先生達によって占められていた。


そんな中でチェロ弾く事は言葉にならないぐらい緊張したけれど、僕にとっては新たなチャレンジだったし、演奏の善し悪しは皆さんが判断するにしても無事に弾き終えられた事は今後の為の財産になったとは思う。
コンクールで審査されていた先生方や大学の試験で常にいらっしゃった先生が客席にいらっしゃる事を知って舞台に出ると言うのは、普段のコンサートの緊張とはまた違った恐ろしさが加わる。


僕がまだまだ未熟だなと思ったのは「30年前よりは多少は成長出来たでしょうか?」と先生方にお伺いを立てる様な無駄な事を心に秘めて舞台に出た事だ。
そうすれば当然(上手に弾かなきゃ)とか(こういうベートーヴェンを弾かないと怒られる)とかそんな事を考えて弾いているようではダメだわ。


このコンサートの後にチェロ協会の会員さん達との懇親会があり、それに参加したけど、皆さんチェロ愛が半端じゃなく、話していても圧倒された。
ベートーヴェンの2番を敢えて選曲された理由を教えて下さい!」
とか
「あの指遣いはオリジナルですか?それともどなたかもその指遣いで弾いているんですか?」等々。
何一つまともに答えられない様な質問ばかりされて往生した。


日本チェロ協会は会長が堤剛先生。副会長が中島顕先生。
実は中島先生は僕の子供の時のチェロの先生。
でも、そんな先生方がいる中で弾かせてもらった事は本当に感謝。
その環境を作ろうと思っても出来ないし。


その先生方の中で電話を下さった方もいて、その言葉が有り難かった。
僕の今の状況をドンピシャで言って下さり、アドヴァイスを頂いた。
他の楽器の世界は全くわからないけど、チェロの世界の良い所は、沢山先生がいてもみんなでチェリストを育てようと言う空気がある所。
誰々のお弟子さんという所を超えて、みんなが意見や感想を言ってくれる。

それなのにそこで良い所を見せようとしてる僕はまだまだ未熟にも程がある。


1月1日にあの世に旅立った猫ちゃんの遺骨を葬儀の方に本当に小さなカプセルに入れてもらったんだけど、それをコンサートではスーツのポケットに忍ばせて演奏した。
だから何、というわけではないけれど、まだまだ彼女がいない生活に慣れなくて。
20年ずっと留守番していた訳だから、初めてコンサートを聴いた事になるね。

明けましておめでとうございます

ある日玄関を開けると2匹の三毛猫が突然現れた。
同じ様な三毛のデザインで、少しだけ黒の部分が多い方を「クロ」、
比べると少しだけ小さい方を「チビ」と呼んでかつお節などをあげ始めた。
もう20年も前の話。
それから「チビ」は一匹狼で懐くことはなかったけど、「クロ」は次第に家に入って来る様になり家に住み着いた。
それから5匹の子供を生んだけど、その子供達も全員他界してしまった。
最後まで元気でいたのが「クロ」だった。

2016年のカウントダウンも終わり、2017年を迎え初日の出ももう少しでという頃、20年一緒に暮らした「クロ」があの世に旅立った。
秋頃から少し体調を崩したものの、こんなに早くお別れがくるなんて。
12月18日から28日まで仕事で京都にいたけれど、最後の方は京都・東京を往復していた。


年間100日は家を空けているし、ひょっとしたら看取る事が出来ないのかなとも思っていたけれど、クロは頑張って待っててくれた。待ってるだけじゃなく、そのあと数日間は一生懸命お世話をさせてくれたし、一緒に新年を迎えようという僕の希望も叶えてくれた。


いたずらなど一切しない猫で、ある意味臆病で慎重な猫だったけど、家にいるのが当たり前になっていて、いなくなる事がどうしても想像出来なかった。
でもその日は容赦なくやって来た。
でも一緒に新年を迎えてくれたんだから、あんな飲まず食わずで最後まで頑張り続けたクロ以上に頑張らなきゃと思う。

当たり前で笑われるけど、クロは経済やお金に対しての価値観は皆無という姿勢で生きていた。
「不快か幸せか」だけで20年生きた。
彼女が旅立つその時を見ながら、お金では買えない音楽の価値をもっと深く勉強しようと心に決めた。

去年の今頃、僕の好きな東京新聞さんが「クロ」を取材して下さった。僕ではなく「クロ」を。
東京新聞の大元は愛知県を中心とする新聞「中日新聞」だから、実家の父親はもちろんの事、名古屋の知り合いからも多くの連絡を頂いた。
そして僕の50歳の誕生日のリサイタルの紹介も一緒に載せて頂いた。
良い想い出だな。

母親にしても叔母にしても「クロ」にしても、大事な人を亡くす事で僕は学び、そして自分の死への準備を段々するんだなと思った。
まだまだだと当然思っているけど、その日がいつ来るかわからない。
その為にも、クロと最後に過ごした3日間の様に大切に時間を過ごしたいと思う。


新年早々こんな話で大変申し訳ありませんでした。
官庁の仕事初めが今日と言う事もあり、書かせて頂きました。
クロがちょっと調子を崩し始めた2か月前からどうしてもブログの更新ができなかったなぁ。



今年もよろしくお願いいたします。

晴れた海のオーケストラ

第二回目となるモーツァルトばかりでプログラミングされた「トリトン・晴れた海のオーケストラ」の公演が終了した。多くのお客様に脚を運んで頂き、この場を借りて感謝したいと思う。
ありがとうございました。


リハーサルの開始からの事を少し話すと、このオケの事が少しわかって頂けると思う。
最初にジュピターの1楽章を通した時から、ズレるとか何かう具合がある箇所は皆無だった。
だからこそ、そこからが大変なんだという気持ちがメンバーのほとんどが感じていたと思う。
それから何をするか。
当然コンサートマスターの矢部くんがリーダーシップをとり「こうしてみたらどうだろう」という事からリハーサルが進行していく。その提案に対して、ただただそれに従って行くだけのリハーサルだったら2時間もあれば終わる。
そこでこのオケのメンバーの凄い所は弦楽器だけの方向性が決まるとそこに一番合う音色であったり、タイミングであったり和声感だったりを管楽器や打楽器の方々が瞬時にして彼らのパレットの中から新たなものを提案して音にする事だ。それを体感した弦楽器の奏者達が各々のパレットからその管楽器や打楽器から生まれた響きに対して音の質を決める事も素晴らしい。
1つの提案に対してただそれだけが行われるのではなく、乾燥ワカメが水分を得るととんでもなく大きくなる様にアイディアが膨張して試行されていく所が凄い。

例えばジュピターの1楽章で矢部君が「ここでファーストバイオリンとファゴットがラのフラットを弾くから聴いて欲しい」と言うとみんなが音量を下げるのではなく、どうしたらそこのラのフラットの音が特徴的な音として浮き上がるか、その前からの音楽の持って行き方、そのラのフラットが鳴っている時の音色から音のスピード感、などが一瞬にして作られ試される。何度かそこをやるとほとんどの人が納得する形にまで作られてしまう。
このオケのメンバーの頭の中には完全にジュピターのスコアが入っていないと出来ない。
何故なら、自分の弾いている音が、和音のどの位置にあるかを知っていないとそれは出来ないからだ。


個人的な事を書きたいと思う。
第1回目の演奏会、及びトリトンでのコンサートではなかったけれど9月にベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲演奏会をこのオケで演奏した時のコントラバスは池松くんだった。
今回は吉田秀さん。
彼は二人とも素晴らしいコントラバス弾きであると言う事は僕が言うまでもなく、素晴らしい低音を作れる日本でもトップクラスの演奏家だ。
そして同じ低音を弾く僕にとってもいつも刺激になるし心の栄養を与えてくれる2人だ。
実を言うと、池松くんが弾く時と吉田秀さんが弾く時では僕は弾き方を完全に変えている。というより変えなきゃいけない。発音のさせ方も変えるし、音程感も変える。
具体的にどう変えるかは書かないし、それがどれだけお客様の耳に違って聴こえるかも定かではない。
でもそれがオーケストラ、特に室内オーケストラでは絶対にやらなければいけない事なんだと信じてる。

実はその二人の違いを矢部君も当然捉えていて、前回とはいろんな事を変えている事が凄く良くわかる。
その変え方が自分と全く一致していれば何も言う事はないし、多少違う事があればそれはそれで話し合う。

音楽は国境のない言語である、とどなたかがおっしゃったけれど、本当にモーツアルトの言語を目指し、そしてその言語の話し方をお互いのパレットから知恵を出し合い何も話さなくてもそのシェイプが出来上がって行く、僕にとっては理想的な事。

そして、本番では「みなさん、現地で会いましょう」と言ってステージに上がる。
現地と言うのは曲の最後の音だ。


このトリトンの演奏会、トリトンのスタッフの方々の本当にきめ細かい音楽と演奏家に最大の愛情を注いで下さる姿になんとかして応えたいとみんなが思っている。
演奏会は、スタッフ、演奏家、そしてお客様の3つが信頼し合うかどうかで結果が決まって行く。
全てのお客様が満足する演奏会などある訳はないけれど、スタッフと演奏家がこれだけ信頼し合えている現場なのだから、あとはお客様からの信用を増やしていく努力を続ける事かなと思う。


こんな演奏会に参加出来て、なんて幸せなんだろうと思う。

様々な想い

シベリウス作曲のフィンランディア交響曲1番と7番というプログラムの定期演奏会が終わって、余韻と言うのか様々な事に想いを馳せている。
実は1番も7番も演奏するのはもう20年近く前だと思う。
その時の7番の印象は「なるほどね、うーん」みたいな感じでしかなかったけど、今回演奏してなんとも胸に染み入ると言うか、今の自分の心に深く押し寄せる何かがあった。


それは年齢のせいなのか、世の中の出来事も含めた様々な事に翻弄されている最近の僕のうろたえた気持ちのせいなのかはわからないけれど、年齢のせいであるなら歳を重ねる事も悪くないなと思う。悪くないどころか、いいもんだなと。


とはいえ、昨日は僕の友達的お弟子さんが30代前半で亡くなって丁度1年になる。
そんな彼を思うと「年齢を重ねるのも良いものだ」なんて言えない。
昨年の彼が亡くなった日から、実はまだ全然立ち直れていない。
人生は長い短いではなく、どう生きたかだと思っていても、未だに悔しいし、悲しい。
彼が亡くなる直前にくれたメールを未だに読み直す。
それで励まされている。


彼を慕う高校の時のオケ仲間、中央大学のオケ仲間、そして務めていたキリンのオケ仲間が亡くなって1年が経ち、彼を忘れない為のオーケストラのコンサートを11月19日に板橋で行う。
そんな奴いないぜ。全く。
彼が中央大学のオーケストラ時代にドボルザークのチェロ協奏曲をやっているのだけれど、何故か僕がソロを弾いた。池袋の芸術劇場だった。
そんな事もあり、今回の1年のメモリアルでもドボルザークの協奏曲を弾く事になっている。


彼は去年再入院する直前に僕の家にレッスンに来ている。
「先生、新しい楽器を買ったら別人の様に上手に弾ける様になりましたからレッスンして下さい」
と電話がかかって来て。
全く上手になってもいなかったけど、ああいう気持ちが気持ちよかったし、それで来てくれる事が嬉しかった。
その後、ゆっくり経堂のイタリアンでご飯を食べていろんな話しをしたけど、本当にユーモア溢れる男だった。
「僕、発表会でソッリマのラメンタチオを弾きましたが、先生のラメンタチオより多分お客さんには印象に残る演奏だったと思います」と笑いながらその時も言ってたな。

ドボルザークの協奏曲で多少、いや、そこそこ大きなミスをしないと
「先生、いつも僕の事を『本当に下手だな』とおっしゃいますけれど、先生も口ほどにないですね」
という一言が聞けないな、と思ったりもする。
まあ、そんな事を調節出来る程の力もないから、いつも通り僕は弾くんだろうけど、それでも彼は
「先生も10年前から正直そんなに成長してないみたいですけど、大丈夫ですか?」
と言うだろうな。
そんな友達的なお弟子さんという関係はずっと僕がいなくなるまで続くと思っていたよ。


今年、君がいなくなったキリンビール本社のビール工場見学に行ったよ。
そして今度、いつもこれを聴いて手術に向かったというブラームスの1番を友人達が弾くから。
君が大笑いできるように僕も適度なドボコン弾くから。

オーケストラ・アンサンブル金沢

アンサンブル金沢には学生時代苦楽を共にしたチェロの親友、早川がいる。
僕たちがまだ25、6の頃、彼はアンサンブル金沢に入団した。
その時は
「僕も金沢に遊びに行くし、また東京にも遊びに来いよ」
と言いながら寂しいと言うより、僕たちの未来が眩しかった様に思う。
その数年後、彼が地元の甲府で結婚式を挙げた時に、彼がもう金沢で生きて行く事を決意したんだと、そのときは本当に寂しく思ったし、結婚式なのに抱き合ってお互い泣いた。
でも彼とは忘れた頃に会ったり、ご飯を食べたりはしていたし、僕が金沢市に行ったときはもちろんの事、近隣の松任市野々市に行った時は必ず会ってご飯を食べた。


今回はかなり間が空いて再会する事になった。
しかも今まで仕事でというより、久しぶりにご飯をと言う事がほとんどだったけど、幸運な事に今回アンサンブル金沢に参加する機会を得て、しかも彼と隣で弾く事になった。


僕達は学生時代本当にお金もなく、食べる物にも困った。
早川の実家からお米が届いたと言うと、僕が桃屋の「江戸むらさき」や「メンマ」を持ってそれをおかずに米をひたすら食べたり、素麺を段ボール一箱友達から貰ったときは二人でもう素麺は勘弁してくれと言うぐらい毎日素麺を食べて暮らしていた。アパートも歩いて5分程で行き来出来る距離だったし。
そんな日々も今となっては本当に楽しい時間だったと思う。
夜の22時まで学校で練習したら彼の家に米を食べに行き、その頃ブームになったファミコンの野球ゲームをしたりした。彼に結局一度も勝てなかったな。


そんな日々を一緒にオーケストラを弾きながら思い出していたな。


アンサンブル金沢は外国のメンバーが多い。
だからと言う訳ではないけれど、ヨーロッパを感じる語法をハーモニーの進行や響きから感じる事が多かった。そんな中でいつもニコニコして日本人からも外国のメンバーからも慕われている早川を見て、嬉しかったし、誇りに思ったよ。
学生時代は夢を語ると言うより、目の前にある課題や苦労を乗り越える事で必死だった。
お互い音楽家になれるのかもわからず、ひたすら練習していた時代は今から思えばかけがえもない毎日だった。
それがお互い違うオーケストラだけど音楽をしていて、話すと「そういえば学生時代はこんな事を言ってたよな」と逆に思い出し、一応夢は持っていたんだなと思い出す。


ブルガリア人のコントラバスの首席女史に「あなたの首席としての仕事は私を幸せにしてくれた。コントラバスをいつも意識してくれるあなたの仕事に感謝する」と言われたけど、お世辞だとしても嬉しい。
これは僕が最近ようやく行き着いたコントラバスとの融合する方法を彼女が感じてくれたからだ。
それが正しいのかどうかはわからない。だから音楽は深い。



僕にとっては幸せな金沢への旅だった。早川はもちろんの事、日本センチュリーから金沢に移ったスタッフのTさんや一緒に仕事ができた皆さんにも感謝したい。

仕事とは関係ないけれど、金沢の食文化の次元の高さは素晴らしかった。