『ドリームクラブ』のほろ酔いソングに歌とヒロインの関係性の革新を見た

ドリームクラブのカラオケのほろ酔いバージョンというのは実は革新的かもしれない。端的に言うと、歌に対する開き直り。


商業的な歌というのは基本的に上手く歌われることが意図されている。
実際には下手なものもあるが、それらは『上手く歌うこと意図したが結果的に下手』というものと『演出意図をもって下手に歌っている』の2種類であり例外的だ。つまり表面的に下手とは言えど大元の部分で『上手い歌』が志向されているわけである。
そんな中にあって新作ソフト『ドリームクラブ』で提示された歌にはどこか革新的なところを感じさせられた。


取り上げるのは作中でヒロイン行うカラオケの酔っ払いバージョンの歌だ。
ほろ酔いで歌うヒロインの歌はとても下手だ。しかしその酔っ払い加減が可愛いというもので、すなわち『演出意図をもって下手に歌っている』の一種である。


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しかしそんな演出意図を超えて迫ってくる凄みを私は感じた。
それは何か?歌に対する開き直りである。


従来の歌というのは、前述のように『上手い歌』である。
なぜ上手いか?何が上手いか?
ヒロインの魅力を引き立てるための上手さである。可愛いヒロインは歌も上手くて可愛い、あるいは可愛いヒロインは歌が『下手』で可愛い、というようなものである。歌の『上手さ』という魅力をヒロインの魅力に重ね合わせるわけだ。如何にヒロインを魅力的にするかという製作者の思惑が裏に配置されているのが従来の歌である。歌のが『上手い』のは『上手い歌が魅力的であるから』だ。下手な歌は『下手な歌が魅力的』という思惑がある。どれもヒロインの魅力に直結するわけである。


そしてドリームクラブのカラオケほろ酔いバージョンにある凄みとは何か?
それは上述の『製作者の思惑』がある程度取っ払われているということである。上手い歌でもない、下手な歌でもない、ただの歌である。分かり易く言うとかわいい女の子は何をしてもかわいいということだ
ここで起きたのは『かわいい女の子は歌もかわいくなければならない』というのから『かわいい女の子はどうなふうに歌ってもかわいい』というのへの転換である。


虚構のキャラクターに対して『かわいさ』という魅力を付与するにあたってはあらゆる要素に気を配ってかわいいヒロインを生み出す。なので歌もかわいくなければならない、というのが今までのもの。
このほろ酔いバージョンにあらわれているのは、『かわいいヒロイン』がいる。かわいいヒロインなので何をしてもかわいい、というものだ。
かわいさ、魅力というのが後天的(シナリオに沿って)に付与されるものではなく先天的(キャラクターデザインなど)に備わっているという確信があるからこそできる逆転である。ドリームクラブのヒロインに備わっている先天的魅力とはすなわち3Dモーション、キャラクターデザイン、グラフィック、喋り声などである。基本要素で既にかわいさが確立しているためあとは何をしてもかわいい、ゆえに敢えて歌が上手く(かわいい、魅力的で)なければならないということはなくなり、謂わば素(す)のキャラクターによる歌を提示できるのである。


以上に述べたことは三次元に置換すると分かり易いだろう。
化粧をして、可愛い服を着て、歌も可愛い声で歌って、と色々な要素を積み重ねて『かわいさ』を演出していたのが従来のゲームである。対して、基本・前提としてかわいい』人物が居て、かわいいからどんな服を着てもどんな歌を歌ってもかわいい、というのがドリームクラブでありほろ酔いソングである。
三次元の基本・前提としての『かわいさ』というのは『身体的魅力』と言い換えてよい。三次元の魅力とは生理的に直接訴える肉体の魅力である。これは従来の二次元ゲームでは及ばなかった領域だ。そこにドリームクラブは切り込んだ。3Dデザイン・モーションの魅力が一定水準を超えたため、今まで成しえなかった基本・前提としての『かわいさ』をヒロインに備えることが適ったのではないか、そのために起こりえた転換ではないかと考える。




・まとめ
ドリームクラブのほろ酔いカラオケには『上手い(魅力的な)歌』→『魅力的なヒロイン』から『魅力的なヒロイン』→『魅力的な(上手さは関係ない)歌』という逆転が見受けられる。




こっちの歌だと逆転していない従来通りの『魅力的な歌』→『魅力的なヒロイン』の流れがあらわれているかなあ。
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