『Rewrite』のクラシック音楽引用とBGMから推測する作品の志向


Rewrite』でクラシック音楽が出てきた部分を引用しておきます。
文章中で固有名詞が言及されたのみで、それ以降シナリオに絡むこともなくBGMや効果音での使用もありませんでした。
ただ『最果てのイマ』にサティが意味ありげに出てきたことを思うと『Rewrite』のバッハも無視できません。例えば、制作側が異なっていればここやそのほかの場面で「最愛の兄の旅立ちに寄せて」がBGMとして用いられていてもおかしくなかった、ということが『最果てのイマ』を引き合いに出すことで可能性として想像することができます。
以下Terraルートより引用。

親の制止も無視して、ホールに出た。
そこでずっと掲示板を眺めていた。
『森の聖歌隊、大募集〜マーテル合唱クラブへ入りませんか? 毎週土曜の午後に活動しています。〜』
気を引く記事などひとつもない。
でも茶番よりはましだ。
ボリュームを絞った音楽が流れてくる。
バッハ、最愛の兄の旅立ちに寄せて。
・・・学会が終わったのだ。


バッハ作曲「BWV992 最愛の兄の旅立ちに寄せて」の音源は↓

バッハ:カプリッチョ<最愛の兄の旅立ちに寄せて>/フランス組曲第2番
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「『Rewrite』のBGMがシナリオと合っていなかった。これは制作陣のロミオシナリオへの理解が及んでいないという面のあらわれではないだろうか」という趣旨のことをレビューに書いたが、このことは上述のクラシック引用にすらあらわれている、という牽強付会もできなくもない。
「シナリオへの理解が及んでいない」というのをもう少し噛み砕いて言うと、作品全体の出来や方向性を管理する人たちが王道少年漫画的な作品を志向したのに対し、ロミオシナリオは文章のみを見るに規模の大きい葛藤を軸にしたSFエンタメであり、そこに齟齬が生じていたと言える。前者は2つめのOP曲やBGMの全体的な方向性と特にTerraルートでのBGMの使用状況から読み取れる。新奇性の薄い単純なBGMはつまり既存の文脈を意識させる音楽であり、そうした単純なBGMは王道少年漫画的な友情→葛藤→超克→大団円みたいなシナリオの作品を仕上げるためのものであるはずだ。超能力者が超絶バトルで地球を救うというシナリオの土台自体がこの方向性を示している。
他方ロミオシナリオの志向は、プレイした人なら分かるはずと言ってしまいたい。要素だけをあげるなら葛藤→超克→再出発と前者の要求を満たしつつも、朱音ルートの埋まらないすれ違いやTerraルートの間に合わなかったことなどは明らかに王道少年漫画的快感を削ぐ展開であった。つまりロミオは前者と志向を異にしていた。
違うものを志向しながらも要素要素はなぜかばっちり抑えてあるのはロミオの見事さであるが、実際は要素が抑えてあるだけでそういう味付けをするとシナリオと演出が齟齬を来して足を引っ張り合う、引っ張り合ったというのが『Rewrite』である。
ロミオシナリオが志向した方向で演出がほどこされていたなら、あるいは「最愛の兄の旅立ちに寄せて」が文章中のみならずBGMで使用されていたとしてもおかしくなかったのではと妄想する。ただ、王道少年漫画を志向した場合「最愛の兄の旅立ちに寄せて」は使用する必要がないことは曲を聴けば納得してもらえると思う。幼少期の鬱憤や抑圧だけを単純に示したいなら「最愛の兄の旅立ちに寄せて」は全然必要ないはず。逆に葛藤にまみれたシナリオなら、幼少期の記憶に淡く残るシグナル的に用いられる録音のバッハなんてとってもアリなんじゃないだろうか。
で、こうした志向の齟齬が制作側にあったのではというのが作品から読み取れるというと思います。そしてロミオもKeyも王道少年漫画的な作品を上手く作ることはできず、逆にKeyが志向を曲げてSFエンタメに徹することもなかったのでロミオシナリオが志向していた側面も活きなかった、というのが結果としての作品にあらわれていると読めます。