特撮の書割っぽさは、思考実験らしさを強調するための手段である?

シン・ゴジラ』見てきました。見てない人は見たほうがいいですね。


ゴジラシリーズは全く見たことないですし、特撮も見ない(映画だけでなくライダーも見てません)のですが、そんな中で見た『シン・ゴジラ』は「特撮とは何か」を得心させてくれるものでした。
特撮にはチープな印象を持っていました。きぐるみのゴジラがミニチュアを破壊するイメージ。なので、映画蓮明期であれば技術的な必然だったのでしょうけど、今の時代にわざわざチープなものを提示する(ie. ゴジラの新作が出る)必要はあるのか?という疑問がありました。
果たして映画がはじまると、最初から映像はチープな印象です。前情報を入れてなかったので、『シン・ゴジラ』がどこまでCGか分からないまま見始めましたが、CGは浮いて見えました。予算の問題か技術の問題かわからないけど、同時代の他の有名映画のCGに劣るように見えました。しかし、しかし、『シン・ゴジラ』を見進めて、少しチープ浮いて見えるCGや、果ては特撮である意義まで得心してしまいました。「特撮とは、SF的な思考実験を提示するものである。書割っぽさは思考実験らしさを強調するための一手段である」と考えました。


映画見てから他人の感想を漁って読みましたが、CGの質と役者の演技をマイナス評価している人はけっこう多いように見えました。なので「CGと演技に書割っぽさがある」という点までは、くどくどしい説明抜きに『シン・ゴジラ』を見た人に納得してもらえると考えます。この感想記事で言いたいのは「CGと演技の書割っぽさが、『シン・ゴジラ』の思考実験らしさを強調している」という点であり、そのためCGと演技の書割っぽさがわざとか予算の問題かわからないものの、今作の映画に表現的な側面でもわかちがたく組み込まれているという点です。
シン・ゴジラ』の思考実験らしさを強調というのは、あれです。SFはSF的な現象の理由を読者が納得できるよう丁寧に説明することが必要かと思いますが、理由の説明を「これは特撮だからそういうものです、ゴジラだからそういうものです」として、その先にある結果を思考実験として観客に受け取らせるものだと見えました。書割っぽさが少ない(つまりCGも演技もすごく自然)であれば、「いくらなんでも怪獣は無い。なぜ怪獣を出した」と見てしまいそうですが、CGと演技の書割ぽっさがゴジラという現象の書割っぽさと結びついて、この映画はゴジラという現象の理由をリアルに書くのではなく、ゴジラという現象が起きたという思考実験を提示するからその先をリアルに考える、という映画に帰結していました。