断片日記

断片と告知

幻の幻

言った、聞いてない、の口喧嘩を朝からするのは疲れる。たたき起こされ、いつの間にか吊るされていた喪服を着て、歩いて近くの寺に向かう。今日は、父の七回忌。喪服とはいえ、久しぶりにスカートを穿き、久しぶりに踵のある革靴を履く。黒い服を着てきっちりと髪を結わいた顔は、年齢以上に老けて見え、鏡に映る女はどこのババァだ、と愕然とする。母と弟と親戚の歩く後ろをぼんやりとついて行く。晴れてよかった。母が同じ言葉を何度も繰り返す。
渡り廊下を歩き、本堂へと向かう。子どもの頃、退屈だったお経を聞くという行為が、今はそんなに嫌いではない。本堂の天井から下がる凝った飾りや照明を見ながら、ぼんやりと聞くお経は意外と楽しい。開けっ放しの本堂の障子からは、近くの小学校の運動会の声援と、なぜか蝉の鳴き声がする。久しぶりの晴れ間に騙されて起きた寝ぼけ蝉か、今年最後の蝉なのか。新しい卒塔婆を持ち、供花を抱え、線香の煙を撒き散らし、寺に隣接する墓まで歩く。順番にお参りを済ませ、七回忌も無事終わる。
目白の中国料理屋の個室で昼飯を食べる。どことなく顔形が似た人間ばかりが囲む円卓は、なんだか可笑しい。ピーマンもニンニクも嫌いだと騒ぐいちばん年嵩の伯母に、昔の話を少し聞く。目白で焼け出され、高松に移り、戦後昭和23年に雑司ヶ谷に定住したと教えてもらう。もっと昔の雑司ヶ谷を亡くなった祖母の口から聞いていたのは、目白にいた頃から雑司ヶ谷の寺に参拝に来ていて見知った景色だと知った。雑司ヶ谷に定住したのが戦後ならば無理かしら、と思いながらも一応聞いてみる。鬼子母神の裏あたりに小さな印刷所がなかった?あったわよ、とあっけなく伯母が言う。確か名前は宮崎さん。私が期待していた名前は鳥羽さんで、知りたかった印刷所はボン書店だ。しかし、宮崎さんの印刷所があった場所は、ボン書店のあった場所から十歩くらいしか離れておらず、その昔、あの場所に何かそういう磁場があったのかしら、とひとり妄想にふける。