m.r.factory

2017-10-18

[]遺影がない

日雇い労働者の町で古本を売らないかと誘われ、八月末、横浜寿町に乗り込んだ。寿町の真ん中に建つ寿町労働総合福祉会館の建て替え工事のため、この夏だけ空いた巨大な更地に水族館劇場芝居小屋を建てている。水族館劇場の本公演は九月一日からだが、八月中の毎土曜日は小屋の周りでイベントが行なわれており、誘われた古本市もそのひとつだった。

古本と古本屋を乗せて、車で寿町に向かう。大通りから入って三ブロック目、角を曲がった瞬間、車中に小さな声があがる。車道の両脇に並べられた数百台の自転車と、道端にしゃがみ寝転がる男たち。車に視線が食いついてくる。車窓の景色が一変する。

「盗賊たちのるなぱあく」と名づけられた更地に入ると、右手にまだつくり途中の巨大な水族館劇場芝居小屋が、小屋を囲むように組まれた足場には鬼海弘雄さんの写真が大きく伸ばされむき出しで飾られている。

古本市の会場は、更地に入って左手にある、小さな掘っ立て小屋のひとつだった。工事現場のような鉄骨で組まれた足場のうえに、板が渡され、壁はなく芝居でつかうような布が垂らされ、屋根はテントのような生地でたわんでいた。水族館劇場芝居小屋は劇団員たちの手づくりで、この掘っ立て小屋も彼らの手で建てられたものひとつだった。

六人の古本屋が場所を決め、鉄骨に渡された板に布を敷き、おのおの古本を並べていく。掘っ立て小屋の入り口と中にも、鬼海さんの写真が勲章のように飾られている。更地とむき出しの鉄骨と写真と小屋が、並んだ古本と併せていい風情だ。雨が降った日は、掘っ立て小屋まで鉄骨の足場が橋のように組まれ、タイかどこかの水上マーケットのようにもなる。日が落ち裸電球が灯ると、戦後闇市の気配さえしてくる。

こんな場所で古本を売る機会などめったにない。いろんな催事に出ている古本屋の友人も、こんなのはじめて、と落ち着きのない顔をしている。こんなに面白い場所なのに、本公演前で人が来ないのがもったいない。少しでもこの場の面白さが伝わるように、更地のあちこちで写真を撮りツイッターにあげていると、白いランニングの男に声をかけられた。

「この町の人間が四千五百円も払えるかよ。」

男は水族館劇場芝居小屋にさがる、前売り券発売中の垂れ幕を見ながら、声に怒りをにじませている。

どうせたくさん金もらってやってんだろ、と続くことばに、この劇団はお金持ちじゃないよ、あの小屋も劇団員の人たちが自分たちで建てているんだよ、とたいして知りもしない劇団の、誰の替わりかわからない弁解がわたしの口をつく。

金持ちじゃないということばに男の気配が少し緩んだ。

「おれは金持ってたよ。昔は歌舞伎町とかで遊んだりしてたのになぁ。おれさ、人生は上がったり下がったりとんとんだと思ってたけど、この町に来て、下がったり下がったりの人生もあるってはじめて知ったよ。癌もやってさ。ほら。これ、手術の痕。」と白いランニングをまくって見せる。へその横、つれた縫い目が縦一文字に腹を走る。

おれの写真撮ってよ。鬼海さんの写真がいくつも飾られた鉄骨の前に男を立たせ、シャッターをきる。おねーさんも撮ってあげるよ、と男に言われ、入れ違いに鬼海さんの写真の前に立つ。ほら、もっとポーズとって。わたしは手を振り上げて、わたしのアイフォンを構える男に笑ってみせる。

「おれ、遺影がないんだよ。」鬼海さんの写真を見上げながら男が言う。「七十になったら、おれこの人に写真撮ってもらいてーなー。」

しばらく古本を売っていると、また白いランニングの男が戻ってくる。

さっき撮った写真見せて。アイフォンの画面を男に見せる。なんだよただのおっさんだなぁ、と男が愚痴る。そりゃそうだよ、ただのおっさんなんだから、と軽口で返す。あと二年で七十を迎えるという男は、そりゃそうだよな、と笑いながら、再び町へ消えていった。

先日、平田さんと新宿台湾料理屋で飲んだ帰り、西口の郵便局へ寄るという平田さんと、紀伊国屋の前辺りで別れた。ムトーさんは今日は歩いて帰らないの?わたしは酔うと、新宿から雑司ヶ谷まで、歩いて帰ることがたびたびある。今日は副都心線雑司ヶ谷まで乗って帰るつもりでいたが、平田さんのことばで気が変わった。せっかくだから一駅くらい歩いて帰ろうか。伊勢丹の手前の角を地下におりずに、左に折れた。

靖国通りに出て、花園神社へと向かう、明治通りとの交差点を渡り終えてすぐだった。グワシャン。鉄とコンクリートがぶつかる鈍い音が後ろで響いた。振り返ると交差点の真ん中に、小さな車と、その横にバイクと男が転がっていた。車のドアが開き、飛び出してきた男が転がる男に慌てて駆け寄る。転がる男は交差点の真ん中で、身動きひとつしない影みたいだ。

信号待ちをしていた人たちが駆けつけ、影の周りに輪ができる。歩道から、誰か救急車を呼んだ人はいますか、誰か救急車を呼んだ人はいますか、誰か救急車を呼んだ人はいますか、と交差点の真ん中に向かって、携帯電話を握り締めた若い女が同じことばを叫び続ける。女の後ろで、ええ、目撃者はたくさんいます、そうです、そうです、と男がどこかへ電話をかけている。手を出す人の多さから、わたしは交差点をそっと離れる。

明治通り雑司ヶ谷に向かって歩く。交差点から少し歩くと、酔った男が道にしゃがんで吐いていた。もう少し歩くと、若い女と男が街路樹の下で抱き合っていた。ガコン、とまた大きな音がして、顔を上げるとファミリーマートのトラックが、荷台から台車へとコンテナを運び移す、明治通りのよくある夜だった。

「この町の人間が四千五百円も払えるかよ。」

いま立ち止まると、夏に聞いたあの男のことばに追いつかれる。

「おれ、遺影がないんだよ。」

止まらなくなった足が一駅を越して、雑司ヶ谷まで明治通りを駆けていく。