これは圏です(はてな使ったら負けだとおもっていた)

きっと何者にもなれないつぎの読者につづく。

Mac信者社会崩壊への四つの道、或いは、Macは二度死んだ

あとで書くための覚え書き。なのでそんなに深くはない。


Mac信者社会が崩壊する道筋を、思い付く限り挙げてみる。

サードパーティの撤退

有力なソフトハウスが市場を見限って撤退し、その中に安住していたユーザもやがて撤退を余儀無くされるパターン。


これは先日のエルゴソフトの撤退が一番分かり易いと思う。Mac市場は世界的には拡大しているけれど、日本では横這い状態が続いている。世界的には当分先にしても、国内では近い内に他の会社も撤退してしまうかも知れない。


海外でMacのシェア拡大を支えているiPodブームだって、何時かは終わる。その後どうかるかは判らないだろう。

ジョブズが死んだとしたら

Apple のシンボルとも云える、——いや、Mac教の教祖とも云えるスティーヴ・ジョブズ。勿論、彼の後継者は居るにはいるが、彼ほどのカリスマ性があるだろうか。


ジョブズは或る種神懸かり的なカリスマ性によって、Mac社会を牽引している。Mac教をMac教たらしめているのは彼だ。その彼が仮に死亡したとしたら、相当な影響が出るだろうと思われる。


唯、僕達Mac信者はMacAppleと云う標識を崇拝している訳だから、ジョブズ亡き後もそれで続けていけるだろう。その変わり、Mac信者のカルト性はより大きくなるに違いない。

Mac = Apple の構図が崩壊したとき

前項の終わりで『MacAppleという標識』と云う言葉を使った。ここには『Mac=Appleである』と云う、一つの暗黙の了解が含まれている。

この前提が崩れたとき、Mac信者社会は分裂することになる。

いや、今や少しずつ崩れかかっているのかもしれない。iPodが売れ、社名からはComputerが取れ、家電を売り始めた。


ジョブズの目の黒い内は大丈夫だろう。だが、彼が去った後に何が起こるかは判らない。

メジャー化

最後に一つ毛色の違う物について述べる。それは『Macがメジャー化した時』と云うこと。


まあ、Macがメジャー化することは当分無いだろうと思われるけど、実はこれが実現されて仕舞うと信者の半分は失われる事になるだろう。

Mac信者は、隙あらば周囲の人間にMacを布教し、Windowsの欠点をあげつらい、Officeを貶し、Macの素晴しい哲学を説き、Macの普及に尽力して居る様に見える。これは或る面では正しく、又、或る面で間違っている。

Mac信者にとってこの様な『布教する』と云う行為は、それ自体が自己表現であり、ポーズであり、ともすれば目的にもなっている。
つまりは、Mac信者にとって『布教する』と云う事は自身のアイデンティティーの発現でもあるのだ。


この事から、『少数派である』と云うマイノリティ意識が、Mac信者のアイデンティティティティーの、かなり根幹に関わってくるものである、と云う事が判る。


周囲のMac信者を思い出して欲しい。果たして、布教行為をしないMac信者が居ただろうか。
居たとすれば彼は異端なので宗教裁判に掛けられるべきである。


……と云う程の事でもないけれど、自らのアイデンティを自身がマイノリティティティーであると云う事に求める場合が多い。
勿論、Mac信者はMacの洗練された*1GUIに惚れ込んでいて、それをより多くの人々に使って貰いたいという気持も大きい。でも、それに匹敵するぐらい、この少数派意識も大きなウェイトを占めている。


もしこの要素が失われたとしたら、Mac信者の中には空虚感から他のOSに移り住もうとする人々も出てくるに違いない。ただ、その人達は最初こそその世界に飛び込んでいくだろうが、飛び込んだ先のコミュニティに馴染めるとは到底思えない。結果、彼等は露頭に迷い、結局はMacに帰って来るのかもしれない。
しかし、最早多数派となって仕舞ったMacの世界で、彼等がアイデンティティティティティティティティーを保ちながら生きて行く事は出来まい。OldMacを蒐集し、Mac OS XX *2 の御代に漢字Talkを使う。いや、寧ろLisaを使う。ゲームはPippin。
そして、道行く人を捕まえては『最近のMacはなっとらん』とか『真のMacOS9で死んでしまった』とか『GUIを発明したMacの哲学は、最早今のMacには無い』などと昔語りをする、『Mac原理主義者』として、現在のMac信者より忌避されることになるかもしれない。そして『GUIを発明したのはMacぢゃないよ』と云い返されて言葉を失くす日々。

或いは、別の道を選び、過去のMacと互換性のあるOSをオープンソースで開発し始めるかもしれない。しかし、他のオープンソースな人達とは若干思想が合わず、OSSのコミュニティでも孤立し、少数の仲間達と傷口に塩やソースを塗り込んでは日々舐めあうということになる。


まあ、こんな状態にはならないかもしれないけど、でも少数派志向の強い人は上みたいな『Mac原理主義者』となると思う。過去の仲間と寄り合っては愚痴り合う、と云った。



でも、こういう少数派意識と云うのは、何もMacに限った事ではないのかもしれない。
自分達だけの物だったものが拡がってゆくと云うのは、喜ばしいことでもあるけど、同時に、何処か寂しい思いがするものなのではないだろうか?
『俺達が育てた』とか『昔は〜』って云う発言は、こういう意識に起因するものなんじゃないだろうか。

Macは二度死んだ?

さっきの『Mac原理主義者』の会話で『真のMacOS9で死んでしまった』と云うのがあった。

そう、Mac OS9からOSXに乗り換える時点で、Macは一度死んだと云う事が出来るかもしれない。
Macは思想だけを持って、NeXTの遺産とUNIXの財産に乗り換えて仕舞った。今まで積み上げてきた『Mac OS』を捨てて。そして、Public Beta においては、Macのシンボルであるアップルメニューまで捨てようとした。他にもAppleScriptも無くなる予定だった。爆弾は無味乾燥なカーネルパニックに置き換えられ、持ち主の誕生日を祝ってさえくれない。


今のOSXは、旧OS9以上の水準にあるし、根底にはMacの思想が流れ続けている。だから僕は今でもMacを使い続けているし、現に今日OSをLeopardにアップグレードした。

でも、コープランド危機の時に、今までのMac OSは捨て去られてしまった、と云うのは何だか寂しいものではある。
その寂しさの代償として、沢山の利便性(UNIXツールが使えるとか、快適な開発環境とか)を得られた訳だけど、旧来のOSでそれが出来なかったと考えると、やっぱりそこでMacは一回死んだんだな、と。


そして、最近もう一度、Macは死んだかもしれない。

それは、はっきりと区切れることではないのだけど、一つ挙げるとするなら、BootCampの登場を以って、である。

Intelへの移行、BootCampの登場によって、Apple機はWindows機としても使える様になった。勿論、それ以前もLinuxなどをインストールすることも出来たけど、ここで『Apple機 = Mac機』の公式は大きく崩されることになって仕舞った。

そして、このBootCampや、他にもParallelsの登場によって、Macを勧めるときのセールスポイントの一つとして、『Windowsも使える』と云うものが加わった。

それが、またSwitchの要因にもなってきた。


だから、今ではMacを勧める場合かならずこのことが言及される。今まで、さんざんばら、Windowsを、貶してきた、Mac信者によって、だ。


それで良いのだけど、それで良いのだろうか。そこで、一つの価値観の崩壊が起こったと思う。

こうした事は、PPCからIntelに乗り換えたときにも発生した。PPCの優位を主張し続けてきたMacコミュニティが、途端にIntelの速さを強調し始めた。

先程BootCamp登場と云ったけど、どちらかと云うと Intelへの移行を以って、とした方が良いかもしれないな。


BootCamp や Parallels は、或る種特異点的なもの、数字の0みたいな、扱い辛いモノと云う感じがある。
勿論、使いたくないとか頂けない、と云う意味じゃない。

Macのセールスポイントに、非Mac的要素が出て来ることで、最早昔のMacでは無くなって仕舞った、と云う感触がある。ここで、Macは二度死んだのだ。


Macは、死してなお、何度も蘇える、まるでゾンビみたいな奴だ。
まあ、ゾンビと違うのは、インターフェスが洗練されてるってところかな?*3


コンピュータの界隈には、兎角色んな物を殺したがる人がいるけど、Macは大丈夫だ。どんどん殺して貰って良い。
Macは、死んでも甦るのだから。——そこに信者が居る限り。

*1:枕詞

*2:??

*3:これくらスラっと云える様でなければ一人前の信者とは云えません