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読書メモなど

2018-10-28

【読んだ】暮沢剛巳『オリンピックと万博 巨大イベントのデザイン史』

16:22

オリンピックと万博 (ちくま新書)

▼日本に「デザイン」という概念を普及させたのは1960年に開かれた「世界デザイン会議」であり、そこではデザイナーのミッション、とりわけ社会的な責務について確認されたと。1964年東京五輪1970年大阪万博はその概念の実体化をする機会だったと。本書では、丹下健三亀倉雄策、勝見勝、岡本太郎の4人のスターがどう東京五輪大阪万博の双方に関わったのかについて、著者の批評的判断を加えつつ、2020年東京オリンピックの問題点をあぶり出す、というものかと。

▼デザインの観点から東京オリンピックをみた時に、勝因はデザインポリシーを貫徹した事だと。具体的には、勝見勝の統率のもと、オリンピックに関するすべてのデザインを亀倉雄策のシンボルマークと統一感が出るように徹底させたと。他方、東京オリンピックとほぼ同じ布陣で臨んだ大阪万博に関しては、デザインポリシーの統一に失敗したと(この辺は、吉見俊哉の『万博幻想』にも詳しい)。それはイベントとしての性質の違いもさる事ながら、6年の間にデザイン業界の中に起こった勢力図の変化等々に対応できなかったからだと。

▼他方で万博について、万博レガシー()として後世に残っているものが、開催当時には不評だったものばかり、というのが興味深い。万博理念を正当に体現したと思われた菊竹清訓のエキスポタワーはその後注目されずに取り壊され、メタボリズム万博ピークに衰退すると。他方で開催当時不評だった太陽の塔が永久保存されとると。また、松本俊夫横尾忠則中谷芙二子といった面々が参画した「せんい館」は開催当時不人気だったものの、その後高く再評価されていると。おそらくこの辺りは、万博当時は「ノイズ」として捉えられていたものが、後々評価されている、という事なんじゃないかと。

2020年東京オリンピックについては、やはりデザインポリシーの不在が問題だと。加えて、ザハ・ハディド佐野研二郎の問題で露呈したのは、組織としての脆弱さと、責任の所在の曖昧さだと(言わずもがな、ザハ・ハディドは何も悪くない)。加えてこれは僕の予想ですけど、これらの騒動はおそらく運営組織をますます及び腰にさせたはずで、万博の時の様にノイズの様なものが入る余地はますます少なくなってるんじゃないでしょうか。

オリンピックと万博 (ちくま新書)

オリンピックと万博 (ちくま新書)

万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)

万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)

2018-10-23

【読んだ】中北浩爾『自民党 「一強」の実像』

12:58

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

▼頻繁に言われる様に、かつての自民党政治の特徴は「(1)ボトムアップコンセンサスを重視する意思決定」と、「(2)派閥政治によって生まれる党内の多様性」であり、これが利益誘導政治をもたらしていたと。それが94年の政治改革小泉改革民主党への政権交代等々の転換点を経て崩壊していく過程と、それを経ての安倍政権の政治手法を分析するのが本書のコンセプトかと。

▼例えば小選挙区制度の導入によって生じた事のひとつに、族議員の弱体化があると。中選挙区制度の元では、例えば農林なり建設なり水産なり政策分野一本で勝負しても選挙区内で他の議員と棲み分けができたと。しかし小選挙区制度の元では選挙区内のあらゆる要望に応えなければならず、そんなもん無理やろと。

派閥の弱体化もやっぱ小選挙区制度の影響がでかいと。すなわち選挙区内で棲み分けができない以上、公認に際して派閥の影響力は低下すると。加えて政治資金改革で議員への資金配分は派閥経由から議員個人への直接交付になったと。で、こんなんやったら議員派閥に属するメリットって昔ほど切実なものではなくなってるよね、と。

▼友好団体(業界団体)も、経済縮小と政治改革の影響で影響力を失っていると。因みに業界団体財界経団連)とそれ以外では全く意向が異なっていると。後者は利益誘導を求めてきたのに対し、前者は一貫して利益誘導政治を批判し続けており、企業を通じた政治献金を続ける理屈も一筋縄ではなかったんだよ、と。

▼その他にも事前審査制から官邸主導への流れとか諸々あるわけですが、要するに利益誘導政治ができなくなり、固定票も減ってると。そしたらどうやって票を取るかって言ったら右翼っぽい理念とかで浮動票を取るしかないという話ですよねと。なので多分、今の自民党右傾化については、どちらかというと消極的な成り行きでああなってるんでしょうね。多分それはマーケティングの発想なんでしょう。

▼本書の最後にある、安倍と小泉の比較は面白かった。小泉改革のインパクトはやっぱりデカかったんだけど、小泉の動機は要は田中派を潰す事だったと。それは彼の政治家としての原点が角福戦争での敗北にあり、田中派象徴される利益誘導政治を解体したかったと。従って人事も派閥に基づく慣行を無視してかなり排他的な事をやったんだと。

▼対して安倍の政治的な原点は自民党の下野であり、そこでの主要敵は民主党だったと。安倍は小泉の後を継いだ訳ですが、改革の結果支持基盤が弱体化している事への危機感がベースにあるのかと。従って必要なのは小泉的な党内改革ではなく、民主党への対抗のための党内結束だと。なので人事もかなりバランスを見ていて、安倍の党内支持が高いのはこの手法の巧さ故だと。因みにアベノミクスって結局、かつての公共事業を通じたインフラ整備と新自由主義的な政策の両立を狙っていると。要は、小泉がやり過ぎだったとしたら、安倍はそこで失われたバランスを取ろうとしている、ということかと。多分、安倍の右翼っぽい感じとか金融政策過激さとかってのは本人の信条に基づくものではなく、どちらかと言うと行きがかり上やらないといけない役割を引き受けている、という感じなんじゃないかと。

▼改めて感じたのは、戦後の日本にはやっぱり分厚い「社会」というのがあって、それがめちゃくちゃ薄くなっているのが今、という事なんだろうなと。とはいえ、そのかつてあった「社会」ってのはめっちゃ前近代的なものだったんでしょうね。良し悪しは別にして、おそらくは投票行動についても「個人が数百万円得(損)をする」というのとは全く別の投票の動機がかつてはあったんでしょうが、今はそういうの全く無いんだろうなと。

2018-10-21

【読んだ】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

23:39

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

▼「情報」と「意味」の違いについて。「情報」が客観的ニュートラルなものであるのに対し、「意味」とは「情報」が具体的な文脈に置かれた時に生まれるものである(p31−32)。おそらく本書は、個人の身体(と環境のコミュニケーション)を文脈として捉えた上で、そこで生まれる「意味」の多様性を読み解くものかと。強調されるのは、ここでの着眼点福祉的な観点とは別だという事である。ここで言う福祉的な観点とは、視覚障害(という呼び方を本書は肯定する)を「情報」の欠落と捉えた上でその欠落を補完しようとするものであり、本書はこれを志向するものではないと。異なる感覚構造を持つ人々の世界認識を紹介する事を通じて相対化されるのはむしろ晴眼者の身体であり、おそらくは更に加えて、個々の身体の感覚(スケールとペースとパターン?)が可塑的であり変容可能なものである、という事をソーシャル・ビュー等の試みを通じて描き出す点が肝なのかと。

▼とりわけ面白かったのが、「視点」に関する分析。見える人の場合、モノの認識が「どこからみるか」という「視点」によって規定されていると。それは例えば「表/裏」と言ったように、空間や面にヒエラルキーを作ると。それに対して先天的に目が見えない人の場合、「表/裏」にヒエラルキーをつける感覚がないと。見える人には常に、視点によって生まれる死角が存在するけれども、見えない人にはそれがないと。また、視覚を前提にした文化イメージにおいては奥行のあるものを平面化する(三次元二次元化する)特徴があり、見える人のモノの見方はやはりこれに規定されて(しまって)いる。そのため、見えない人の方が見える人よりも「物が実際にそうであるように(≒概念的に)理解している(p68)」と。

▼本書の序盤でユクスキュルが紹介されるのだけど、言わずもがなこの本は、身体と環境の関係への関心に基づいて書かれたものなんだと思う。ポリコレへの批判等も出てくるものの、恐らくは純粋に、著者の専門であるところの美学の本なんだろうなと。即ちそれは、人間の知覚の構造と制度を相対化し続ける作業なのではないかと。

2018-09-17

【読んだ】太下義之『アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて』

09:55

アーツカウンシル アームズ・レングスの現実を超えて (文化とまちづくり叢書)

▼アームズレングスなる原則があると。本書の文脈においてこれは、助成団体たるアーツカウンシルが政府と一定の距離を保つ事を指すと。でもまぁ普通に「え、アーツカウンシルって公的機関っぽいけどそんなんできるん?」ってなるけど、まぁ案の定絵に描いた餅で、今まで一度も実現されたことはなかったいうのを海外の事例の分析を通じて示す。むしろ文化政策の予算増額や総合政策化等々、一見すると望ましい動きがある度にアームズレングスの理念は阻害されていく(政策進化のジレンマ)。この辺は昨年末に訳出された『文化資本』にも詳述されている。

▼本書は、上述の様な現状を見据えた上で、それでもなおアームズレングスなるものを踏まえた制度設計を試みるもの。アームズレングスは具体性を欠いた理想論であるという事を割と最初にゲロった上で、日本版アーツカウンシルやるとしたら日本の特殊性に合わせてこの理念を揉まないとダメだよと。で、日本の政策意思決定構造や地方政治の状況をみるとどうかっていうと、むしろ政策提言とか議会説明とか、政治との密なコミュニケーションの方がむしろ必要なのでは?と。まあ、アームズレングスの本質的なエッセンスを失わず、しかし理念としての揉み込みはもっと必要だよね、という当たり前の(しかしあまりやられてこなかった)話かと。

日本の文化行政の現状を分析するにあたっては、当然55年体制的な戦後の経済状況を踏まえないとダメだよ、と。当たり前だけど、90年台の文化施設の建設ラッシュってアメリカからの内需拡大要求に伴う地方債の乱発があって、という生々しい話があると。その上で、これって要は単にハコモノで文化的な動機なんてなかったよね、という事を率直に示している辺りは、政策決定者だけじゃなくて学生とかちゃんと読むべきだと思いましたね。文化政策議論なりなんなりの話をする中でこの手の話を見ないフリしてる場面って昔からよく見るんですけど、そういうの本当にヌルすぎる。本書の中で、公共ホール(びわ湖ホール)が議会イチャモンつけられた話が出てくるのですが、おそらくは「真面目に考えとかかないといつでも潰されるぞ」という危機感を筆者が示しているのではないかと思いました。

▼アーツカウンシルの役割について。本書で示されるのは「助成事業」「パイロット事業の実施(ケーススタディの構築)」「調査研究に基づく政策提言」だとする。この内、やっぱり調査研究はめっちゃ大事だよねと。とはいえ、日本で「文化的な動機」ってどこに見いだせるんだろう?というそもそもの疑問は拭えない。

日本の文化行政の現状と照らし合わせるならば、例えば指定管理者としてシノギを得てる自治体外郭団体とかがつまんないことばっかりやってるのとかみると、調査研究の重要性を喚起するのはとても大事なのだと思います。あの人達って「(結果論的な)財政的な安定性」と「専門知のストック」を維持する事くらいしか強みないでしょ。ただ、「いつまでも外郭団体ハコモノ仕切らせると思うんじゃねえぞ」みたいな話自体はよく聞くけど、とはいえその反面、あーゆー連中が一生懸命になってるのって結局行政議会との関係のメンテナンスなのかも、とも思っていて、その辺の実態はようわからん。

▼なんか、この記事を思い出した。

http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/review/0612_01_03.html

2018-09-01

【読んだ】清水高志『実在への殺到』

23:55

実在への殺到 (水声文庫)

▼物凄く大雑把に言って、思弁的実在論オブジェクト指向存在論人類学存在論的転回等々、ここ数年の人文学の潮流は、カント的な主客図式を乗り越えるためにモノと人間の様相(フラットネス)を再考しつつ、主体客体の概念を練り直しているのかと。本書はこの手の話のガイドにもなるのだが、そこに(ラトゥールのANT及び)セールの準-客体論、W.ジェイムズと西田幾多郎純粋経験論等を接続し、よりラディカルな議論が展開する所が肝かと。これによって多分、主体と客体のそれぞれの流動的な側面が強調されるのかな、とぼんやり理解した。

▼下手の横好きが過ぎるかもしれないけども、昔仏教の解説書を読んだ時に「自我を認知の集合として捉える」というような事が書いてあってそれがとても印象に残っていたのだけど、それと近年の西洋哲学の潮流がどう関連するのか、少し興味がある。

▼多分、単に主客図式を否定するのではなく、主と客をアドホックなものとして流動的なもののして捉える、というイメージかと。

実在への殺到 (水声文庫)

実在への殺到 (水声文庫)

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