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2018-11-24

岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.8

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今回は、そろそろネタが尽きかけてきた民間信仰シリーズの第8弾をお届けします。


本シリーズに関しては、約9ヶ月前に「乳神様信仰」を、前後2回に別けて紹介しましたが、それ以外にも「オシラサマ」や「金勢様信仰(全5回)」を含め、約30項目もの民間信仰を紹介して来ました。


本当に、「これでもか!!」と言うくらい、岩手県内に伝わる民間信仰を紹介して来ましたので、もう「絞っても何も出ない、ボロ雑巾」の様な状況です。


そんな中でも、今回は、やはり珍しい次のような項目を紹介したいと思います。


金山信仰とふいご祭り

●竜神(龍神)信仰


その他にも、主に「遠野地域」に伝わっていると思われる「夜泣稲荷信仰」とか「神隠し」を紹介しようと思ったのですが・・・情報が乏しく紹介する事が出来ませんでした。


また、「神隠し」は、別に「民間信仰」ではありませんので、また別の機会に、「遠野物語」の記載内容や、その他の事例と共に紹介したいと思います。

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今回は2項目と、紹介する項目が少なく、確かに「ネタ切れ」の影響もありますが、「ふいご祭り」に関する情報が大きくなってしまったので、このような形となってしまいました。


当初は、今回紹介する2件と合わせて、次の情報も紹介する予定でした。


●「お立木(オタテギ)」信仰

●「お不動様」信仰

しかし、これらまで一緒に紹介してしまうと、1回の情報量としては、とてつもなく長くなってしまうので、敢えて分割する事としました。


残りの項目は、次の機会に紹介します。それでは今回も宜しくお願いします。

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金山信仰と「ふいご祭り」

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今回の最初は、「金山信仰」と「ふいご(鞴)祭り」に関する情報を紹介したいと思います。


まずは「ふいご祭り」ですが、この行事は、別名では「たたら祭り」とも呼ばれていますが、鍛冶の道具として使われている「ふいご」を、風の神様としてお祀りし、仕事の安全を祈願する行事になっています。


「ふいご」とは、鍛冶職にとっては、鉄の温度を上げるためには、非常に大事な道具となっています。

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「ふいご」と言う言葉は、「ふきかわ」が転じた言葉とされており、平安時代中期に作成された「倭名類聚抄」と言う辞典には、「布岐賀波(ふきがは)。韋(あしかわ)ノ嚢(ふくろ)、火ヲ吹クナリ。野王案ズルニ鞴ハモツテ冶火ヲ吹キサカンナラシムルトコロノ嚢ナリ。」と書いてあるようです。


一般的に、「ふいご」と言うと、現在では、「刀鍛冶」が、刀身となる鉄(鋼)を熱する時に使っている、いわゆる「箱ふいご」を思い浮かべる方も多いと思います。

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しかし、その始まりは、動物の革、そのものを袋状にした物や、あるいは左図のように、革と板を組合せたりした「革ふいご」です。


日本において、最初に「ふいご」が現れたのは、日本書紀の「天岩戸」の段、第一の一書と言われています。


そこには、次のように記載されています。

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『 故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也 』


即ち「石凝姥」を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき:鹿の革で作ったふいご)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す「日前神」なり


この内容では、鹿の皮を剥いで「天羽鞴(あまのはぶき)」と言う「ふいご」を作り、この「ふいご」で、紀伊国にある「日前宮(にちぜんぐう)」の御神体を作ったと言う事になっているようです。

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話は少し脱線しますが、「日前宮」とは、現在の和歌山県和歌山市にある神社で、一つの境内に、次の二つの神社があり、この二つを合わせて「日前宮」と呼んでいるのだそうです。



・日前(ひのくま)神宮:御祭神日前大神」、御神体日像鏡(ひがたのかがみ)」

・國懸(くにかかす)神宮:御祭神國懸大神」、御神体日矛鏡(ひぼこのかがみ)」


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そして、これら二つの御神体に関しては、この神社の社伝によると、現在、伊勢神宮に祀られている三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」と同等とされているそうです。


この二つの鏡は、「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」が、「八咫の鏡」に先立って作成した鏡とされています。


そして、「日矛鏡」は、どのような鏡なのかは解りませんが、「日像鏡」は、天照大御神の御姿を型取った鏡とされています。


しかし、これら二つの御神体に関しては、門外不出で誰も見たことが無いとの事で、その真偽の程は誰にも解らないようです。

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さて肝心の「ふいご祭り」ですが、これは、岩手県に限らず、北海道を除く全国的に、火を取り扱う業種の方々が、旧暦、あるいは新暦の11月8日、または「一陽来復の祈願」と結びつけ冬至に行っている行事です。


祭りの行い方は、それぞれの地域、あるいは組織毎に異なるようですが、基本的には、供物や普段使っている道具を捧げて、神事を行うだけのようです。


しかし、特に関東地方では、供物に「みかん」等の柑橘系の果物を捧げ、神事の後に、この供物を、集まった子供たちに撒く風習もあるそうです。


供物に「みかん」を捧げるのは、「ふいご祭り」の起源に関係があると言う説と、江戸時代豪商紀伊国屋文左衛門」の故事に因んでいると言う説があるそうです。

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「ふいご祭り」の起源には諸説ありますので、後で紹介しますが、「紀伊国屋文左衛門(紀文)の故事」とは、次の通りです。


紀文が材木商として大成功した。

豪商となり遊郭で遊び、小判をばら撒いた。

そして、この時の様子が川柳となった。「紀伊国屋 蜜柑のやうに 金をまき」

い修慮紂△気蕕紀伊国屋が、みかん事業でも大成功した


これらの事実、あるいは噂が、「ふいご祭り」の供物である「みかん」と結びつき、「ふいご祭り」の時に供物として捧げた「みかん」をばら撒くようになったと考えられているようです。

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そして、「ふいご祭り」と「みかん」の関係ですが、これは前述の通り、「ふいご」そのものの起源に関係があり、次のような伝承が伝えられています。

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,澆んの木に「ふいごの神」が降臨した。

◆屬佞い粥廚、みかんの木に引っかかた。

みかんの木の根本に「ふいご」があった。

す瀘廚靴拭屬佞い瓦凌澄廚、みかんの木に昇って難から逃れた。


また、岐阜県関市で活動していた、「関の孫六」として有名な刀工「孫六兼元」、あるいは肥前(現:佐賀県)の忠吉一派などは、「みかん」の色を焼刃の火色の基準とした事が伝わっています。

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このため、先の「関の刀匠」の家には、「みかん」」と一緒に地元の名産「蜂屋柿」の木も庭に植えていたと言う話も伝えられています。


他方、「みかん」とは別に、島根県を始めとした中国地方では、「桂の木」を「聖木」として信仰しているようです。


四国地方は、「たたら製鉄」が盛んで、「たたら」」の火は、三日三晩燃え続けるそうですが、この「桂の木」も、春先になると三日間だけ赤く芽吹くと言われています。


また、「みかん」の所でも紹介しましたが、「金屋子神社」の社伝によると、鍛冶職の神様と伝わる「金屋子(かなやご)神」が地上に降臨した際、桂の木に寄りかかって身体を休めていたところ、「安倍村重」と言う人物が連れていた犬に吠えかかられて「桂の木」に昇って難を逃れたとも伝えられています。

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その後、この「安倍村重」は、この「桂の木」の横に「金屋子神社」を建立し、自ら神主となったそうです。


ちなみに、先に紹介した「桂の木」は、島根県雲南市にある「菅谷たたら山内」と言う施設にある木なのですが、この施設内部の「たたら場」は、映画「もののけ姫」における「たたら場」のモデルになった施設とされています。

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岩手県における「ふいご祭り」では、一般的に12月8日、12月17日、あるいは18日に開催するケースが多いようです。


そして、鍛冶場を掃除して道具を洗い、餅、お神酒、そして燈明等を神棚に供えて、「鍛冶神」を拝むそうです。


「鍛冶神の掛図」を持っている家では、神棚の横に、左図のような掛け軸を掛けて拝むそうです。


この「鍛冶神掛図」では、中央、ないし中央上段に「三宝荒神」、そして下段に鍛冶場の様子を書いたものが多いようです。


三宝荒神」と随神だけの図柄や、「ふいご」に風を送ったり、あるいは槌を振りあげて鍛冶を手伝ったりする鬼の入った図柄、または天上界に「風神」、「雷神」、「大黒天」、「不動明王」、「稲荷神」の神仏を書いた図柄等、もうゴチャゴチャになっているようです。


それでは、次に、「ふいご祭り」の起源について、2種類の説を紹介します。

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【 鞴の中に人を隠した 】説

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江戸時代中期となる天明4年(1784年)に、鉱山師「下原 重仲」が著した「鐵山必要記事(鐵山秘書)」によると、「ふいご祭り」の起源は、次の通りとなっています。


昔いつの頃か分からないが、ある鍛治場があった。


11月8日に来客があってその日は仕事もせず、酒を飲んでいたところ、駆落者とも凶状持ちともみえる男が突然飛込んで来て、追手を受けている、なんとか陰ってくれと一向に頼まれた。


余儀ないことと思い、早速の思いつきで、吹子の蓋を取ってこの中へその男を入れ、上蓋をしかと締め、俄に注連縄を張り、膳部、神酒、燈明を供え、恭しく礼拝していた。


そこに大勢の追手が飛込み、この屋に逃げ込んだ男を出せという。


左様なことは知らぬ、不審ならば家捜しせよと答えるが、それとばかりに家捜ししたが見つかる道理はなく、最後に鞴に目をつけ、これが怪しいとすでに上蓋を取らんとした。


鍛冶屋驚いて、今日は折角の鞴祭である。怪しいと思うならば何卒明日改められたいと嘆願すれば、それならば明日まで屹度預けると強く申しつけて帰った。


やっとの思いで、鞴の蓋を取って内を見れば、不思議や彼の男の姿は見えなかった。


その後この鍛冶屋は日増しに繁盛し、富貴の身となったという。これ故に毎年11月8日には鞴に神酒、洗米、膳部、燈明を供え、客を招いて酒を饗し、大いに祭りを行うこととなった。



【 天から鞴が降って来た 】説

岩見国邑智郡目貫村に住む「岡崎篤三」氏の祖父は刀匠であり、その祖先も歴代刀匠であって、同家に伝わる「鍛冶職由来縁起」という古文書には、下記の内容が記載されている。


神武天皇が、筑紫国日向の高千穂の峰に登り、東の方をご覧になると夷敵が多く、これを平定しようと思われ、日天に向って五百串を立て御祈りされると、天空から八頭の烏が飛び来り、先導すると東方へ飛び立った。


これに従って出陣されると、国々から御味方に馳せ参する陪臣が多く、備前福岡まで軍を進めて着陣された。


そしてこの里に鍛冶師は居ないかと尋ねられ、味眞治命、道臣命椎根津彦命、天富命の軍勢に詮議されたところ、「天津麻羅(あまつまら)」という鍛冶師が居るということで彼を召出され、剣一千振、斧一千振を作るように下命された。


この時、又、八頭の烏が丸鎖を啣えて飛び来り、これを「天津麻羅」に与え、同時に天から鞴や金敷が降って来た。


丁度この日が冬11月8日であり、天皇は暫くこの地に行宮を設けて帯留された。これが即ち高島宮である。


この時、天皇は46才の御年であり、未だ即位される前のことである。「天津麻羅」は鍛冶場を設け、剣、斧、矛などの全てのものを作り献上したのである。


天皇は「天津麻羅」を鍛冶の庄として天国の名を与えられた。天国の険の焼刃は阻阻を含み、曜霊丸、夜光丸と銘が入れられた。以後11月8日は鍛冶職の鞴祭として祝祭するようになったという。

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最後に、これら「鍛冶の神様」とされている神々を紹介したいと思います。

金屋子神

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この神様は、前述の「みかん」の説明の箇所で紹介した神様で、中国地方で多く祀られている鍛冶の神様です。


「かなやこ」、あるいは「かなやこの神」と言う言葉の初見は、広島県壬生の「井上家文書」中、戦国時代となる天文10年(1541年)の記録「金山の祭文」とされています。


そして、この神様は、一般的には「女神」とされており、後述する「金山様」、「天目一箇神」と同一神とされたり、あるいは神仏が習合した形として「三宝荒神」の姿で描かれたりした掛け軸等も存在するそうです。


金屋子神」に関しては、先の広島県安芸市にある「金屋子神社」が、全国にある「金屋子神社」の総本社となり、その縁起も前述の通りとなっています。


この「金屋子神」は、日本各地で自ら「村下(技師長)」となり、鍛冶の指導を行ったと言う伝説もあるそうです。


金山様 】

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金山様」も、当然の如く「鍛冶の神様」とされていますが、その系統は、大きく次の2つの系統に分かれているようです。


そして、「金山系」の神様は、上述の「金屋子神」と同一神とされているようです。


金山(金神)系

金山彦系(かなやまひこのかみ)


次に「金山彦命」系ですが、この神様は、「伊邪那岐(イザナギ)」が、「加具土命(カグツチ)」を産んだ際の火傷で苦しんでいる時に、その嘔吐物から産まれた神として記紀(古事記/日本書紀)に登場します。


金山彦命」を祀る神社としては、岐阜県不破郡にある「南宮(なんぐう)大社」が有名で、この神社から御祭神が分霊されて日本各地の「金山神社」に勧請されていったようです。

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この「南宮大社」は、前述の「ふいご祭り」の起源で紹介した「神武天皇東征」の時に舞い降りた金鵄を、霊験をもって助けたとされ、当初は、美濃国府中に祀られていたそうですが、その後、第10代「崇神天皇」の御代に、現在の地となる南宮山の山麓に遷座したとされています。


上記の通り、岩手県を始め、全国各地にある「金山神社」には、この「南宮大社」から御祭神を勧請したケースが多いようですが、しかし、その歴史は、それほど古くないと考えられているようです。


國學院大學(黒田迪子研究員)の調査によると、現在、多くの「金山神社」の御祭神となっている「金山彦命」ですが、元々「金屋子神」だった御祭神を、明治時代神社行政で、各神社の神官が強制的に「金山彦命」に変更した可能性が高いとしています。


他方、弊社ブログには何度も登場する「柳田國男」は、「金屋子神八幡神」と言う説を唱えており、現在では、この説が有力となっているそうです。


この「金山様」と言う神様は、岩手県では県北「洋野町八木」で祀られており、この神社には、次のような伝承があるそうです。(※現在この神社の御祭神は「金山彦命」)


金山神社縁起 】

八木港へ鉄積取りに大阪より千石積みの親船が来泊して鉄を満載し出帆せんとするも、錨が磯根に懸り引揚げる事ができず困難失望を極め、やむを得ず、船頭・船員、金山神社に七日七晩不眠不休にて救難を祈願す。


然るところ、八日目に至り不思議にも錨が浮き揚がり、船員一同感謝し出帆する。


偏て船頭、翌再来の時に吉野杉苗を持参し、社殿前側に移植奉納せしと言う、吹切三郎兵衛氏の遺説が書き記されている


稲荷神 】

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ご存知の通り、「稲荷神」は、特に鍛冶職にだけ信仰されている神様ではありません。


名前に「稲」と言う字がある通り、元々は穀物神・農耕神でしたが、現在では、商工業を始め産業全体を象徴する神として信仰を広げています。


この「稲荷神」は、その起源を辿ると、渡来人である「秦氏」に行き着きます。


秦氏」は、平安時代初期、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると、秦「始皇帝」の末裔で、応神14年(283年)に、百済から日本に帰化した「弓月君(融通王)」を始祖する氏族とされています。


この「秦氏」は、稲荷神を信仰する氏族だったそうですが、「秦氏」一族が日本各地に移住することにより、「稲荷信仰」も日本全国に拡がったと考えられています。


さらに、この「秦氏」は、鍛冶の技術を持つ一族だったとされ、そのために「稲荷神 = 鍛冶神」となったとも言われています。


そして、「稲荷神 = 鍛冶神」と言う信仰は、全国に約3万社あると言われる稲荷神社総本社となる「伏見稲荷大社」がある影響かもしれませんが、特に、「金屋子神」への信仰が見られない京都に多いそうです。


他方、「伏見稲荷大社」では、11月8日に「火焚祭」が行われていますが、これは「ふいご祭り」と習合した結果とも言われています。


天目一箇神

この「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」も、日本の神話である「古事記」、「日本書紀」、「古語拾遺」、および「播磨国風土記」に登場する、製鉄や鍛冶の神とされています。


この神様、様々な別名を持っており、次のように13個もの名前を持っているそうですが、この中でも有名なのは、「天津麻羅(あまつまら)」で、前述の「ふいご祭り」の起源にも登場しますし、三種の神器の一つ「八咫の鏡」を作るための鉄も、この「天津麻羅」が製鉄した事になっています。

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・天之麻比止都禰命 :あめのまひとつねのみこと

・天久斯麻比止都命 :あめのくしまひとつのみこと

天之御影命 :あめのみかげのみこと

・天之御蔭命 :あめのみかげのみこと

天津麻羅 :あまつまらのみこと

・天久之比 :あまくしひのみこと

・天戸間見命 :あめのとまみのみこと

・天奇目一箇命 :あめのくしまひとつのみこと

天目一箇命 :あめのまひとつのみこと

・天目一箇禰 :あめのまひとつねのみこと

・天戸須久根命 :あめのとすくねのみこと

・天照眞良建雄命 :あまてらすますらたけおのみこと

・明立天御影命 :あきたつあめのみかげのみこと


このように沢山の名前を持っていますが、「目一箇」とは、字の如く「ひとつ目」を意味しています。いわゆる、民間信仰妖怪として登場する「ひとつ目小僧」の事です。


他方、その昔、「たたら製鉄」に従事する者は、火を見続ける事で片目を失う者が多い職業とされていたようです。


そして、その結果、「たたら製鉄 = ひとつ目小僧」と繋がり、「たたら製鉄」従事者が、「天目一箇神」を信仰するようになった、と言う説もあるようです。


三宝荒神

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三宝荒神」は、屋内の火所に祀られ、「竈神」、「火の神」、「火伏せの神」とされ、「三面六臂」、あるいは「八面六臂」で憤怒の表情で現されています。


三面六臂 :三個の顔と六つの腕とを一身に備えた形。阿修羅像が有名。

・八面六臂 :ハ個の顔と六つの腕とを一身に備えた形。実際の仏像には存在しない。


また、特に岩手県を始めとする東北地方では、何故か「三宝荒神」を、「ふいご祭り」の祭神として祀るケースが多いそうです。


中国で編纂された「偽経」である「无障礙経(むしょうげきょう)」には、「三宝荒神」とは、次のような神とされています。


如来荒神、鹿乱荒神(そらんこうじん)、憤怒荒神の三身をいい、怒るときは一切衆生の福徳を奪い障礙となす。 』


しかし、この神様は、インド由来の神様ではなく、日本の仏教信仰の中で独自に進化した神様とされ、不浄を嫌うので、最も清潔な台所に祀られ「竈神」になっています。


さらに、神道密教山岳信仰、その他民間信仰等とも習合し、次のような神様とされています。


・「役行者(役小角)」が金剛山で修行中に「荒神」が現れ、その地に祠を作って祀った。

密教経典「大日経」の注釈では「日天」の眷属で地震を司る「剣婆(けんばや)」と同一神とされる。

神道では、荒ぶる神「素戔鳴命(スサノオ)」の子孫とされている。

陰陽道では、「御年神」、「奥津彦」、「奥津姫」の三神であり、「竈神(かまどかみ)と同一神とされる。


何れにしても、激しい験力(げんりき)を持ち、不浄を嫌い、祟りやすい神であるが、「火」との関係が強いので、「ふいご祭り」の祭神となったと考えられているようです。


ちなみに、「竈神」に関しては、本シリーズの第2回目で取り上げて紹介しています。

★過去ブログ岩手の民間信仰 〜 聞いた事も無い信仰ばかり Vol.2


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■竜神(龍神)信仰

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三陸地方には、「八大竜王」を祀った神社や石碑が結構あります。


もちろん、「八大竜王」、あるいは「竜神様」を祀る信仰/風習は、日本全国で行われており、元々は、「竜(龍)」が、湖や大河、あるいは川に住むと考えられていた事から「水神様」として、「雨乞い」や「水害防止祈願」のために祀られています。


「竜」を祀ると言う信仰は、古代中国の「道教」で信仰されていた「竜王信仰」と、仏教における「八大竜王信仰」が習合した形と考えられているようです。


道教における「竜王信仰」では、「竜」は、天にいる最高神「玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)」の配下として、雨や水を司る役目を負い、次の二王がいると考えられていたようです。


・河竜王 :河川の水を調整したり、雨を降らせたりする。

・海竜王津波や潮の満ち引きを起こす。海上の安全を司る。


他方、仏教における「八大竜王信仰」では、「竜王」とは、「天部」に属する、次の8名の「竜族」の神様で、仏法を守護していると考えられています。


難陀(なんだ) :「歓喜」を意味する名を持つ竜王。「跋難陀」の兄。過去に「娑伽羅」と交戦。

跋難陀(ばつなんだ) :「難陀」の弟。「難陀」と共に古代インドマガダ国」を保護。

・沙伽羅(しゃがら) :竜宮の王。大海竜王空海が連れてきた「清瀧権現」は「娑伽羅」の娘。

和修吉(わしゅきつ) :別名「九頭竜王」/「九頭龍大神」。元は須弥山で小竜を食べて暮らしていた。

徳叉迦(とくしゃか) :「徳叉迦竜王」が怒って凝視すると、見つめられた人は死ぬと伝わる。

阿那婆達多(あなばだった) :別名「阿耨達(あのくだつ)龍王」。ヒマラヤ「阿耨達池(無熱悩池)に住む。

摩那斯(まなし) :須弥山「喜見城」を阿修羅が海水で攻撃した時、海水を押し戻した竜王

優鉢羅(うはつら) :別名「青蓮華龍王」。青蓮華を生ずる池に住む。

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ちなみに、「りゅう」には、「竜」と言う漢字と、「龍」と言う漢字がありますが、どのような違いがあるのかご存知ですか ?


漢和辞典を調べてみると、次のような違いがあるそうですが、どちらも「りゅう」を表す漢字で間違い無いようです。


・「竜」 :常用漢字。「龍」の省略体。新字体

・「龍」 :常用外漢字。旧字体


しかし、漢字発祥の地「中国」では、これが逆転します。つまり、元々は「竜」と言う字が使われ、その後に「龍」が使われ続けたそうです。

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皆さんご存知の通り、漢字とは、中国「殷(いん)」の時代に使われていた「甲骨文字」から産まれた字体です。


そして、この「甲骨文字」では、「りゅう」と言う字には、「竜」が使われていたとされています。


ところが、その後、「竜」と言う字を、厳格に表現させようとして「龍」と言う字が使われ出したのですが、この「龍」の字の方が、「竜」よりも長い期間使われ続けたそうです。


そして、日本に漢字が伝わった時には、この「龍」が使われていたため、日本における「りゅう」は、「龍」が旧字体となってしまったようです。


その後、太平洋戦争後の国語改革によって、使いやすい漢字と言う事で「竜」が常用漢字となり、「龍」が常用外漢字になってしまったそうです。


このため、本ブログでも、日本の法の下、基本的には「竜」の字を使う事とします。

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さて、そんな「竜神様」ですが、最初に紹介するのは、宮古市鍬ヶ崎(くわがさき)日立浜に鎮座されている「竜神様」です。


この「竜神崎の竜神様」は、宮古湾の入り口、三陸復興国立公園三陸ジオパークの中心となる「浄土ヶ浜」のちょうど背後に位置しています。


画像を見て分かる通り、海にせり出していますので、東日本大震災津波の直撃を受け、木製の社殿は流されてしまったそうです。

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しかし、社殿内部にあった石宮と石碑は、無事に残ったようです。


元々、画像の通り波打ち際に建立されていたので、石宮と石碑は、強化されていたのかもしれません。


この「竜神様」を始め、三陸沿岸の「竜神様」は、海のそばに建立されているので、ほぼ全てが、何らかの被害を受けているようです。


この「竜神様」は、航海安全と大漁祈願のための信仰の場所で、漁民らは出漁や帰港時にはここに参拝しているそうですが、何時、誰が創建したのか等、由緒は分かりませんでした。

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次は、上記「日立浜」からは、直線距離で2kmほど南にある「磯鶏黄金浜(そけい-こがねはま)」にある「龍神碑」です。


この石碑の裏側には、次のような文が刻んであるそうです。


『 ある年の十二月磯鶏地引漁場の前須賀に一個の石が打ち上げられ、水夫一同これを見、竜神様の授かり物で目出度いと大変喜び石崎にこの碑を設立祭り祝った。 』


そして、この碑は、明治28年(1895年)の12月26日に建立されたと彫られているようです。


また、法政大学出発局から出版されている「漁撈伝承(川島秀一著)」には、この引き上げられた石は、当初、形が良い石と言うことで、「蛭子(えびす)石」と呼ばれていた事も紹介されているそうです。


ちなみに、「磯鶏」と言う地名ですが、その意味は、「高貴な人物が海で溺れ死んだ時、磯で鶏が鳴いて知らせた」と言う伝説から産まれた地名との事ですが、元々は「曾計比」と言う字だったそうです。

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次も宮古市田老の青野滝漁港近くにある「龍神碑」です。


「青野滝」と言う地名は、この漁港近くを流れる「青野滝川」の上流にある滝にちなんだ名前で、この滝には「アオ」と言う巨大魚が住むと言う伝説が残されているそうです。


この「龍神碑」には、石碑右側には、江戸時代末期となる「弘化四年(1847年)丁未(ひのとひつじ)」、左側には「四月吉日」、下部右側に「石工・甚蔵、喜久松」、そして左側に「両村中、宝明院」と刻まれているそうです。


そして、「宝明院」と言うのは、この石碑を調査した方によると、山伏の名前との事でした。

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次は、宮古市から国道45号線沿いに南下した釜石市片岸町にある「稲荷神社」敷地内にある「八大竜王」の石碑です。


この石碑は、国土安泰と海上交通の安全、加えて村の繁栄を祈願して、明治29年(1896年)に建立され、下記の文字が刻まれているそうです。


『 天地地久國土安穏 南無妙法蓮華経 八大龍王鎮座 海上安全村内繁栄 』


また、建立者として「木川榮吉」と言う名前も刻まれているそうです。


片岸町の「稲荷神社」自体は、江戸時代初期となる「元禄4年(1691年)」に、御祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を勧請して建立された神社です。

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最後は、大船渡市末崎町小中井の県道275号線沿いにある「宝龍神社」境内に建立されている「八大龍神」碑です。


この石碑も、誰が、何時、何のために建立したのかは、全く解りませんでした。


そもそも、この「宝龍神社」自体の由緒/由来や御祭神さえ解りませんでした。

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また、「宝龍神社」から1kmほど南下した末崎町泊里にも、左の画像のような「八大龍神」碑があります。


この石碑は、「ごいし民族誌」によると、地元の「鎌田家」の祖先が、江戸時代末期、元治元年(1864年)に建立したと記録されています。


「鎌田家」では、この石碑を氏神として祀り、毎年、正月(2日)とお盆に参拝していたそうですが、津波で、この石碑に続く道が崩れ、近づけない状況が続いているそうです。

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この泊里の「鎌田家」の一族では、長期の漁に出る前には、この石碑を拝んでから船に乗っていたそうで、日常的にも、港に出入りする時には、この「石碑」を、船から拝んでいたとされています。


この大船渡市末崎町近辺には、「末崎町の歴史」と言う資料によると、場所や画像は確認出来ませんでしたが、この「八大龍神」碑以外、別の場所にも「八大龍神」碑があり、さらに、「寳龍権現」とか「龍王講」と言う石碑も建立されているそうです。

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今回、「竜神/龍神信仰」として、「八大龍神」や「八大竜王」の石碑を紹介しましたが、それ以上に、何よりも多いのが「津波供養塔(碑)」です。


この石碑や塔は、三陸海岸の、ありとあらゆる場所に建立されており、その数は、国土交通省の調査によると、岩手青森、そして宮城の三県で、317個にも上るとされています。


中でも、岩手県がダントツで、225個も存在するようです。(青森:8個、宮城:84個)


そして、こうした石碑には、次のような碑文が刻まれているそうです。(例:岩手県田野畑村の石碑)


『 ヂシンガシタラ、ユダンスルナ 』

『 ヂシンガアッタラ、タカイトコロニアヅマレ 』

『 ツナミニオハレタラ、タカイトコロニアガレ 』

『 オカミノサダメタシキチヨリ、ヒクイトコロニイエヲタテルナ 』


平成28年東日本大震災では、宮城県犠牲者が多かった訳ですが、どうして、こうした過去の遺産を活かすことが出来なかったのか、非常に悔やまれるところです。


先人達は、意味も無く、このような石碑を建立するはずはありません。石碑を立てるには、お金も労力も必要です。


自分達の子孫が、無事に生き抜く事を願って石碑を建立している訳ですから、先人達の思いを無駄にしないようにしたいものです。


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今回、数は少ないですが、次のような民間信仰をご紹介しましたが、如何でしたか ?

金山信仰と「ふいご祭り」

●竜神(龍神)信仰


本シリーズを振り返って見てみると、当初は、1回の情報提供で、10個もの民間信仰を紹介していました。


ところが、今回は、1回で2項目。どんどん紹介の仕方が、変わって来てしまったようです。


当初は、「広く浅く」が基本コンセプトだったようですが、近頃では、その反対で「狭く深く」となっています。


民間信仰は、様々な要因が絡み合っているケースが多いので、「さらっと」表面だけでは、説明出来ないケースが多い事に気が付きました。


今回紹介した「金山信仰」も、過去に紹介した「カマドガミ信仰」と繋がっています。


また、「竜(龍)神信仰」も、「竜(龍)」に「さんずい編」を付ければ「滝(瀧)」となり、「水神信仰」にも繋がりますし、さらに「滝 = 多岐都比売命」となり、過去に紹介した「瀬織津姫命」や「宗像三女神」にも繋がってしまいます。

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「どの信仰が先なのか ?」と言う論争になってしまいますが、私は、基本は、次の順番だと考えています。


「自然物信仰」 → 「神道」 → 「仏教


最初に、「海」、「山」、「川」、「巨石」、あるいは「巨木」等、人智(人知)の及ばぬ物を崇拝し始め、そこに「神」と言う考えを習合させたのが「(古)神道」だと思います。


その後、「仏教」による国家統一を考えた「国家仏教」の導入に伴って生まれた「本地垂迹思想」により、「神」と「仏」を習合させ、この考え方が、明治時代が始めるまで続きました。


ところが、明治になると、「天皇」による国の支配を明確にしたい政府の方針により、これまで1,000年以上もの長きに渡り信仰されてきた「神仏習合」を強制的に廃止し、現在に至っているのではないかと思われます。


つまり、元々、信仰してきた「自然物」に対して、政治の都合で「神」だ、「仏」だと、余計な者を習合させてきたのが、現在の日本の宗教なのだと思います。


このため、何かの民間信仰を探って行くと、必ず、神道系の信仰とか、仏教系の信仰と重複するのは、信仰の歴史を考えると、仕方の無い事なのかもしれません。

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また、このような信仰の流れが、日本人が多宗教化した事の根本的な原因なのだと思います。


現在は、少し事情が異なるとは思いますが、昔の日本人の家の中なら、仏壇と神棚は、当たり前の様に備え付けられていました。


また、大正時代以降、昭和ともなると、仏壇と神棚を祀っている家でも、12月になれば、クリスマスツリーを飾ってケーキを食べたりして、仏教神道キリスト教と、もうカオス状態です。


しかし、家に「神様」や「仏様」が居て、常に見守って下さっていると思う事で、人間の行動に対して、一定の「歯止め」が効いていたのだと思います。


ところが、これが現代となると、家の中から「神棚」や「仏壇」が消え、さらに戦後には、「現人神」と言われた天皇さえ消えてしまい、もう何の歯止めも無くなってしまいました。


「お天道様が見てるぞ !」とは、私自身は、非常に良い言葉だと思います。


この「お天道様」に、「天照大神」を当てはめるか、「大日如来」、あるいは「天皇」を当てはめるのか個人の自由です。


しかし、この言葉があり、それを皆さんが信じていたからこそ、「安心な日本国」が成立していたのだと思います。

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まあ、「現人神」が、消えた方が良いか悪いかの判断はさて置き、とにかく、日本人の心の中から、「何かを敬う」と言う考えが無くなってしまった事は問題だと思います。


王政復古を!」とか、「国家鎮護のために仏教を!」等とは叫ぶつもりは毛頭ありませんが、何か、「心のスキマ」を埋める物が必要なのかもしれません。


しかし、その「スキマ」を付いて、「オウム真理教」等の異常者に付け込まれたり、あるいは「○○ファースト」等と、耳に心地よい言葉で、人を煽動しようとしたりする考え方は危険です。


皆さんも、この「民間信仰シリーズ」を読んで、何かを感じて頂ければと思います。


次回は、次のような「民間信仰」をご紹介する予定です。


●「お立木(オタテギ)」信仰

●「お不動様」信仰

●「九頭竜」信仰


それでは次回も宜しくお願いします。


以上

【画像・情報提供先】

Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)

・tenki.jp(https://tenki.jp/)

室蘭工業大学(http://www.muroran-it.ac.jp/)

・職業、鍛冶手伝い(https://blog.goo.ne.jp/forginer1984)

・ふいご祭りの伝承とその重層性について(國學院大學/黒田迪子著)

岩手県神道青年会(http://ganshinsei.jp/)

・みやこ百科事典 ミヤペディア(http://miyapedia.com/)

独立行政法人 国立文化財機構「ごいし民族誌

国土交通省津波石碑に関する調査(青森岩手宮城)」

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