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児島宮歴研会考古学講義

2018-03-20 清水寺修理のとき、佐久間不寒(不干斎)に、少庵が頼んで貰い受けた

2018.3.20

「随流斎延紙ノ書」には、以下の事実が記されています。 1.「フクロウの手水鉢」は、清水寺修理のとき、佐久間不寒(不干斎)に、少庵が頼んで貰い受けたものである。 2.清水寺のものは、このとき新しくつくりかえた。 3 。「フクロウの手水鉢」は、宗旦より金森宗和の家来である野志七郎衛門に売られた。 4 。さらに、野志七郎衛門より、小出伊勢守が買った。 5.小出伊勢守より、肥前殿のもとに渡った。上記によると、フクロウの手水鉢は千宗旦からまず金森宗和の家来である野志七郎衛門(別に野沼七郎右衛門ともいう)に売られた。

    

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茶人松屋久重の 「松屋久重茶会記」によれば、野志七郎衛門の自宅を訪れた際、https://books.google.co.jp/books?id=lXF-DQAAQBAJ&pg=PA168&lpg=PA168&dq=%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%B8%8D%E5%B9%B2%E6%96%8E&source=bl&ots=2uennaO3F1&sig=mqjzg39PKh1LNIa6E6ssimHSSW0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjho7qhufnZAhUCHZQKHbH9BAY4ChDoAQg-MAQ#v=onepage&q=%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%B8%8D%E5%B9%B2%E6%96%8E&f=false フクロウの手水鉢は小出吉親氏から前田利常へ渡り、前田利常、胤戚の前田種利は(不干斎)の母父の縁がある。これは不干斎の知るフクロウの手水鉢由来であった。

これによれば、前田家十四代慶寧により、尾山神社へ寄付されたと、尾山神社宮司田辺良美氏による。

尾山神社は前田家の別邸であったという。現在フクロウの手水鉢は、石川県金沢市尾山神社に、ある。尾山神社が創建されたのは明治六年前田利常の遺愛品と記録があったという。

佐久間不干斎祖と伊達政宗祖は、同祖 http://kyusai.jugem.jp/?eid=132

収蔵品データベース検索 / 一般財団法人センチュリー文化財団 書状, 佐久間正勝筆消息, 佐久間正勝(不干斎), 1幅, 江戸-, 17-. 書状, 佐久間正勝筆書状, 佐久間正勝(不干斎), 1幅, 江戸-, 17-. 書状, 佐久間正勝筆書状, 佐久間正勝(不干斎), 1幅, 桃山-, 16-. 書状, 佐久間正勝筆書状, 佐久間正勝(不干斎), 1幅, 桃山-江戸, 16-17. 書状,

佐久間不干斎が一休宗純の筆による軸を監物に贈与しました。監物は蒲生氏郷、細川三斎及び利休を茶に招き、利休に軸を仕立て直すよう依頼しました。これは軸が監物の床の間には長すぎた為です。ところが利休はそれを断り、軸に非はなく、軸を仕立て直す必要はないと言いました。そこで監物は軸ではなく床の間を改造することにしました。芝山監物・Kenmotsu Shibayama | 茶の湯 in サンフランシスコ

芝山監物(宗綱) Kenmotsu (Munetsuna) Shibayama https://shikatashachu.wordpress.com/2014/04/04/%e5%88%a9%e4%bc%91%e4%b8%83%e5%93%b2%e3%83%bbrikyus-seven-disciples/

利休七哲(りきゅうしちてつ)のひとり。

『不干斎ハビアンの思想 キリシタンの教えと日本的心性の相克』を読んでハビアンという特異な「日本人」について基本的な情報を得ることができた。メモしておきたい。


キリシタン時代”をキリシタンの側から生きた日本人


不干斎巴鼻庵(フカンサイ・ハビアン)。本名はわからない。ただ、母親は豊臣秀吉の妻である北政所の侍女だったという。ハビアンは大徳寺で禅僧として修業をしていたが、19歳のとき、その母親に従いキリシタンになったという。時代はフランシスコ・ザビエル来日から34年が経過しており、各地にキリシタンの拠点が出来あがり、大名や有力武将もキリシタンなっていた。ハビアンは日本で宣教を行っていたイエズス会に入り、大阪のセミナリオ、長崎コレジヨヨーロッパ式の学問を修める。そして正式なイエズス会員になり、修道士(イルマン)になる──ハビアンは「キリシタン側の」トップクラスの著述家、説教師、弁舌家として活躍する。キリシタン版の『平家物語』『伊曽保物語』の編纂にも携わる。

「もし私の述べたことに反対する道理があるなら、それを言ってください。私は喜んで皆さん方の言葉を聞いて皆さんがたを納得させませう」

ハビアンはキリシタン擁護の論陣を張っていく。仏教側の学僧たちを相手に宗論(教義論争)を行っていく。秀吉は「伴天連追放令」をすでに出していた。負けられない。そんなハビアンの説教の様子をイエズス会対立関係にあったフランシスコ会宣教師ムニュスは以下のように記している。ハビアンは朱子学者の林羅山(道春)とも論争をしている。http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20141017/p1

仙台市博物館年報 .伊達政宗書状 佐久間不干・

佐久間不干斎、狩野探幽、松平不昧伝来 野村美術館蔵 096 肩衝茶入 薬師院肩衝 大名物

石山本願寺攻めの総大将で、対本願寺交渉が終わると同時に弊履の如く捨てられた織田家の宿老・佐久間信盛の嫡男信(のぶ)栄(ひで)(正勝とも)は父信盛の下で、織田家の主要な戦に参陣した。茶の湯に傾倒していく信栄が描かれる。 天正8年(1580)佐久間父子は共に高野山追放される。失意の信盛はほどなく大和十津川で病没するが、信栄はのち信長に許され再び仕え、信長亡き後は不干斎と号して秀吉御伽衆の一人。」「秀吉公御秘蔵の文茄の茶入ハ、元来上京の針屋宗春か所持なりしをめし上られしに、文琳とも茄とも決し難きほとに文茄と御つけあれかしと佐久間不干か申上られてより文茄と称せられし、是ハ天下に一ツにて 外になき物也となん」とあります。

利休の屋敷を見た佐久間不干斎は「寺ともなく武家とも見えさる家あり・・・高くもなく、低くもなく勾配そらず、早くもなく、ぬるくもなく・・様子しほらしきこと絶言語」と記しています。http://m3m3sk.blog55.fc2.com/blog-entry-76.html

ハビアン父(備後児島、佐久間信盛)問で、神道の伝授を受けた、無二斎であった。後で武蔵二天一流としたのも天に通じるとした天道であった、、ここから取り入れたのは、天道につながっているから、後の、現代でもわかる。 不干斎子息の助九郎長興の臣下に、武蔵の父が筑前黒田氏に仕官していたことを証明する黒田氏の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在している。 宮本武蔵天正十二年三月(一五八四年)、岡山県英田郡大原町宮本において、父・無二斎、母・お政の次男として生まれました。