ディスカバー・マインド!(心の再発見):ジョン・R・サール

ディスカバー・マインド!―哲学の挑戦
ジョン・R. サール
筑摩書房
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非常に面白く読めた。何故かというと、本書でサールは自らの存在論と認識論の大枠を語っているからだ。サールが何故「中国語の部屋」や「アスペクト形態」「強い人工知能」などの概念を創造して、心の哲学の趨勢に逆らったのか、彼の思考を内側から支える彼自身の哲学は、僕はずっと知りたいと思ってきたのだけど、本書にはそれが書かれていた。

まず、序文からはじめよう。本書の目的が著者なりに要約されている。それは何か。デカルトに始まる二元論(物理的なもの/心的なものという対)の否定、「心はコンピュータ・プログラムである」という考えの否定、心がどのように再発見されるかという道筋の三つである。
サールはデカルト的二元論が、心の哲学における消去主義や、機能主義にまで浸透していると考えており、唯物論の歴史を検討して、心的なものを消去しようとする試み(の失敗)の歴史であると結論し、その失敗の原因はデカルト的な枠組みにある、とする。(1〜2章)


更に意識が行動によって説明される、という行動主義的テーゼを否定する一連の論証と、志向性の区別[本来固有の(intrinsic)志向性、あたかも志向性であるかのようなもの]が導入される。
ここで本来固有の、とは人間の意識的な行為に適用されるようなもので、あたかもな志向性とは、われわれが外部の物体に帰属させる志向的な文(「石は地球の中心に到達したい」(p.134)から、落下する)である。(3章)


するとサールにとって意識とは何のことなのか。これはそれほど難しい話ではない。結局、それは生物学的プロセスが産み出す、還元不可能なまでに主観的な心的現象のうちの一つ(p.158)である。そして意識は他の諸々のマクロな理論と同列に位置づけられる。(4章)

しかし意識は強い物理主義に還元不可能なように思える。それはなぜか。サールは五つの異なった還元を区別する。詳しく書くと

  • 存在論的還元
  • 属性の存在論的還元
  • 理論的還元
  • 論理的ないし定義的還元
  • 因果的還元

このうち、存在論的還元がもっとも強い還元であり、ある対象が別の種類の対象以外の何者ではない、ということを示しうる還元である、とされる。また属性の存在論的還元は、属性を他の現象に還元することであり、理論的還元は「気体の法則を統計熱力学の法則に還元」するような、理論の包摂関係に関わる還元であり、定義的還元は、語や文に関連する還元であり、因果的還元とは、還元される存在物の存在と因果力が、還元するほうの因果力によって完全に説明される還元である。(p.178〜180)

そしてサールは心と脳の還元は、このうちの因果的還元である、と主張する。なぜなら、サールによれば、還元とは定義の変更を含むからだ。「赤い」とか「熱い」とかはなんらかの主観的状態を指し示していたのだけれども、それらはより科学的な用語に再定義されるときに消去される。(p.186)そしてその消去の基準はわれわれの関心である。なんとなれば、我々が熱について興味を持つのは物理的な原因だから、である。しかし痛みについてはこれは妥当しない。なぜなら、主観的な熱さと客観的な熱との区別は、見かけと実在の区別によっているが、我々は意識についてはこの区別を付けることができないからだ。(p.189)意識においては、見かけが実在である。であるから、それは存在論的には還元できない。それは因果的還元を許し、他の諸理論と同列に因果的説明を行い、物理世界の中に位置づけられるけれども、存在論的還元は許さない、とされる。(5章)


サールの存在論は第五章までの議論においてスケッチされた。ここからはサールの認識論が語られる。しかしそれは少し入り組んでいるおり、そのままに進むには難しいので、章ごとの内容の要約という方法をとろう。章の順番は準拠する。六章にはサールがこれから解明しようとする意識について、意識が持つ特性がリストアップされている。はじめにそれを見ることは役立つだろう。

  1. 有限な数の感覚特性
  2. 統一性(「結合問題」「統覚の超越論的統一」(p.202))
  3. 志向性(パースペクティブ性、アスペクト形態)
  4. 主観的感覚
    • 意識と志向性のつながり(そして無意識が志向的であるには潜在的に意識的である(ありうる)こと)
  5. 図と地―意識経験のゲシュタルト構造
  6. 熟知性という側面(「わたしの意識経験の組織化や秩序の多くを可能にしているのは、慣れ親しみという側面なのである」(p.209))
  7. オーバーフロー[あふれ出ること]
  8. 中心と周辺(注意のレベル、周辺は無意識ではないこと)
  9. 境界条件(意識の境界)
  10. 気分
  11. 快-不快の次元

七章では、フロイト的な無意識概念について、異論が提示されている。要するに、無意識は(意識を生み出す)神経生理学的プロセス以外の何者でもないということ、そして「無意識の志向性」は無いということ、である。
これはフロイトの無意識概念(に志向性を持たせようとする試み)が、意識の志向性に寄生している、という事を示すことで行われる。フロイトのモデルでは、屋根裏部屋(暗い部屋)にライトを持ってきて、物を照らすことが意識に相当している(そして照らされない部分が無意識である)と、サールはいう。(p.257)意識と無意識の区別は本質的には無く、むしろ無意識の特殊が意識である。しかしサールはこのような無意識を認めない。「無意識の心的状態の存在論的ステータスは、それらが無意識であるときには、純粋に神経生理学的現象の存在に完全に一致する」(p.243)からだ。つまり無意識においては主観性はない。神経生理学的な構造は、単純に客観的現象であり、志向性や、アスペクト形態などの、主観性に依存する性質は持たないのだ。とすると、結局無意識は神経生理学的構造に存在論的に還元可能である、ということになる。還元不可能性は、見かけと現実の区別不可能性によっていたからだ。無意識は独自の存在論的地位を持たない。


八章では「背景」という概念が導入され、志向性にどのように寄与するかが示される。ここでは要するに、(おそらく全体論的な信念の)志向性のネットワークは、「背景」によって支えられており、両者の区別は志向性の有無で為される。(ネットワークのそれぞれは志向性を持つ、背景は志向性を持たない)背景は志向性の基盤をなしている。云々。背景の分析によって、志向性の理解も進むと結論される。

九章では、「脳=コンピュータ」「心=プログラム」モデルについての批判が為される。ここではプログラムという概念が、観察者付与的であり、抽象的で「本来固有のものではない」ことからわれわれの心的状態との区別が試みられるのだけども、少なくとも僕には、それが充分に説得的だとは思えない。ともあれ、サールについていこう。サールは「プログラム・レベル」なるものがない(物理的なレベルしかない)ことから、プログラムの独立的因果的効力を否定する、具体的には、我々の心は脳から物理的に実現されているのだけども、これについての説明をプログラムは与えない。なぜなら、プログラムはそれ自体では計算操作のレベルを超えないから(プログラムが因果的力を持つには、外部の観察者が要請されるから)だ、ということである(そしておそらく、この補強として「中国語の部屋」などの反チューリング・テスト的な思考実験が要請される)。また脳が行うのは抽象的レベルでの情報処理ではないとされ、脳=コンピュータというアナロジーも否定される。

抽象的存在であるプログラムは、物理的世界では因果的な力を持たない、と要約することもできる。




最終第十章では、こういった存在論と認識論から、今後の心の哲学の見通しが立てられる。分量的には、記述の方法についてが多くを占めている。それは、ルールの存在から行動を説明する、また同じことだが、行動を説明するようなルールを探す、というような方法に対する注意である。





満足のいく内容にはならなかったが、とりあえず本書を辿ってきた。「心の再発見」として認識していたので、「mind」の時には本書を知らなかった。これは単純に不注意です。サールは「有限責任会社」のデリダとの論争などにおいて知られていたけれども、僕にとってですがどうも情報は断片的であって、その全体をうかがわせる本書のような本は非常に有難かった。文章は平易なので、mindの次に読んでも読めるかとは思います。