イコノロジー研究:エルヴィン・パノフスキー

「イコノグラフィーは美術史の一部門であって、美術作品の形に対置されるところの主題・意味を取り扱うものである」。ここで形というのは、「視覚世界を構成している色・線・量の全体的パターン」のことであり、それ以上の意味作用を被っていないものである。*1イコノグラフィー、イコノロジーはこの形が何らかの仕方で認識された後の意味を扱う。

美術作品において主題、意味には三つの段階が区別できる。イコノロジーはこのうち最後の層を扱う。
1 自然的主題。これは美術作品の形(色・線、三次元的形状・・・)を、何らかの自然的な対象の表現として認めること、またそれら対象の相互関係を出来事として認めること(以上、「事実的意味」の認識)、そしてその出来事において何らかの表現的特質を(感情移入によって)知覚すること(「表現的意味」の認識)を含む。その記述は「イコノグラフィー以前」の記述である。
2 伝習的主題。この層の認識では、先でいうモティーフはイメージとして認識され、その組み合わせ(コンポジション)は「物語・寓意」(ストーリー・アレゴリー)と呼ばれる。この把握、イコノグラフィーによる解釈は、以下のようなものである。

この主題は、小刀を持った男性像が聖バルトロマイを表し、桃を手にした女性像が「誠実」の擬人化であり、一定の配置と一定の姿勢で晩餐の食卓に着いている一群の人々が「最後の晩餐」を表現し、一定のやり方で互いに闘っている二人の姿が「悪徳と美徳の闘い」を表現しているということなどを理解することによって把握される。

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3 内的意味・内容。先の二つの層の分析によって把握されたモティーフ・イメージ、物語、寓意をそれぞれ「根本的原理の表出として考える事によって」(8)、理解される。「これは、国家・時代・階級・宗教的もしくは哲学的信条などからなる基礎的態度を現す根本的原理――無意識に一個の人格によって具体化され、一個の作品のうちに凝集される――を確認することによって把握される」。
この意味はイコノグラフィーのように「美術作品それ自体」を取り扱うのではなく、その美術作品をある人格、社会、文化といった、他にも限りなく多様な作品(=徴候)に特殊化される「なにか別のもの」(根本的原理)の一徴候として解釈するときに把握される意味である。こうした解釈の方法は本書で「イコノロジー」と名付けられる。

もちろん、美術作品の表現の方式は歴史的に変化している。そのため、これらの把握はそれぞれの歴史的理解によって修正されなければならない。この歴史自体、もちろん作品の分析によって構成されるのだけれど、それらは「組織だった循環」をなす。
例えば絵画におけるモティーフを理解するには、ある対象が特定の歴史的状況においてどのような「形」で表現されるか、という歴史的理解(「様式styleの歴史」の理解)が必要になる。またイコノグラフィー的な理解のためには、そうして理解されたモティーフが、特殊な歴史的状況下でどのような概念・テーマと結びつくか、という歴史的理解(「類型」の歴史の理解)が必要とされる。
特にイコノロジーにおける解釈は、精神の象徴化作用が特定のテーマ・概念をとって表出される仕方の歴史によって修正されなければならない。このため、本書では以後特定の美術作品の分析において、造形美術の枠を踏み越え、文学、神学といった文化的記録にあらわれた徴候をひき、イコノロジー的解釈に役立てている。

ここまでは序論のしかも前半にすぎず、本書の大半は美術作品の分析に用いられている。パノフスキーはまず中世の最盛期・13-14世紀にあっては「古典の「モティーフ」は古典の「テーマ」を表現するのに用いられず、また一方、古典の「テーマ」は古典の「モティーフ」によって表されることはなかった」ことを指摘する。この理由として、(伝統の伝承といった原因の他に)中世精神にとって古典古代は余りに遠く隔たり、同時に力強く存在していたためそれを一個の歴史的現象として捉えることができなかったためである、としている。(28)この再統一はルネサンスにおいてなされるが、それはもちろん過去への単純な復帰ではなく、中世の影響を大きく被っていた。そういう「創造上の相互浸透の過程」が本書において示される。
例えば、「ある古典の人物が、まったく非古典的な装いをして中世時代から姿を現わし、そしてルネサンスによって最初の姿に戻されたとき、この最後の結果のうちに」その過程の痕跡、つまり中世的な意味が残される。こういった像をパノフスキーは「擬形態」と呼ぶ。「時の翁」と「盲目のクピドcupid」はそうした擬形態の例である。また5、6章では、フィチーノの体系が芸術に及ぼした影響がみられる。本書は広い視野において、中世と古代の相互作用によるルネサンス芸術の表現の変化を研究している。私にとって理解することも簡単ではなく、まして「批判的に」読むことなどできそうにないので深入りはしないでおく。

*1:ここでは形と主題の特に厳密な区別がされているので、すぐ下でいう「モティーフ」と「テーマ」、すなわち既に意味を付与されたものが対置されているのではない。