カラマーゾフの兄弟再読

ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、登場人物が精神錯乱をきたして心神喪失状態になるという場面が頻繁に出てくる。現代の裁判制度から考えた場合、心神喪失によって被告の罪が軽減される状況とみなされるほどカラマーゾフの登場人物たちの精神の疲弊度は激しい。

カラマーゾフの兄弟」のテーマの一つ、「カラマーゾフ兄弟たちの父親を殺した犯人は一体誰なのか?」であるが、その答えははっきりと明かされないまま小説は終わりを迎える。というより、ある意味では登場人物全員が犯人なのではないかと思わせるところがある。その理由として、登場人物全員が理性を完全に失い、自分自身の意思を制御できない状態になるという一面を持っているからだ。

現実的に、理性を失わないまま一生を終える人間がこの世界に一人でもいると言えるのだろうか?と仮定した場合、
その可能性はものすごく低いと考えられる。そう考えると、多くの人間が前後不覚の状態に陥って犯罪に手を染める可能性を秘めていると言える。

どこからが精神異常の状態で、どこまでが通常なのか、その境界線はあってないようなものだという見方もあるが、最終的にこの小説の中でもそうだが、社会は罪を犯した者がいかに欲が深い人物だったかそうでないかで判断するのではないかと思う。

カファブンガ

小雨の振りし来るなか傘を持たずに六本木界隈を歩いていて、偶然見つけたカファブンガというカフェに雨宿りがてら入った。ご主人は1960年以前のポピュラーミュージックファンで、当時の流行曲を歌手のゴシップを交えながら有名曲を掛けてくれた。1960年以前はミュージカル映画が絶頂だった背景があるので、歌手の多くはフランク・シナトラに代表されるように映画俳優でもあったようだ。ご主人のお気に入りはイタリア系の歌手の曲で、どうやらブルックリンなどイタリア移民の歌手はカンツォーネや、オペラなどの下地を活かした大胆で派手な迫力のある歌い方が特徴で、大きな声量でまさに歌い上げるといった感じだ。
エルビス・プレスリービートルズ登場以前のポピュラーミュージックはリズムよりメロディが主体で、ブルースやジャズなど黒人音楽の影響が全く感じられず、今聞いてみると却って新鮮な感じがする。心が大きくなるというか、リズムに合わせるというのは、やはり規律正しさというか全体主義的な傾向がやはりあるのか、比較してしまうとこじんまりした感じが拭えない。しかし、自分はジャズのスイングのリズムは好きだし、ジャズの場合はそのリズムの単調さを突き破るために、変則的な音階やフレーズを生み出していった。その歴史はそれはそれで惹きつけるものがあり、どちらが素晴らしいと比較できない。いずれにしても音楽はその時代の人の要望や苦しみが形になったものだと思うと、音楽はこれからも変わり続けていくのだと思うし、そうであって欲しい。

やはりエジプトか

つい最近、オシリス神話関連の本を読んでいて思ったことですが、ギリシア神話よりエジプト神話の方がより自分を惹きつける魅力があるのかなと感じました。ギリシア神話の場合はゼウスというあらゆる権力を手中にした最高神が自身の欲望を満たすために(男としての性欲・征服欲を満たすため?)理不尽な行為(現代の法社会では犯罪以外の何ものでもない)をしすぎていて、目に余るという事実がその理由の一つにあります。

もちろんエジプト神話にもこういったギリシャ神話と似たような傾向があるのかもしれませんが、オシリス神話に限ってはあの世(死の世界、夜の世界)を支配する神ゆえに現実に生きているものに対して手出しをしない、あくまで息を引き取ったあとの人間を楽園へと導くか否かの判断をする存在なので生きているものに害がないし、あちら側にいる存在ということで観念的な神という存在としての神秘性があっていいかなと思います。

その他気に入った理由として、オシリス神話が日本神話と相通ずる要素があるということもその一因として挙げられます。
日本の神話の場合、火の神カグツチを出産して火傷で死んだイザナミは黄泉の国へ送られます。
一方オシリス神話の場合、弟神セトに謀殺されたオシリスは妹であり妻でもあるイシス神の助力によって何度も生き返るが
その度に弟神セトに殺され、最終的にオシリスの息子ホルスが弟神セトを抹殺して全エジプトを支配する王となり、
オシリス神自身は地上世界から遠ざかって冥界の王の座に付いたといいます。
両者とも現世を離れあの世に隠居することで、この世とあの世(生と死)の境界線を具現化する存在としての価値もさることながら、あの世へ行く引き換えに、日本神話の場合はアマテラスやスサノオなどの誕生をもたらすなどこの世に新たな秩序をもたらす存在でもあります。

こういった生と死と復活にまつわる神話が宗教の土台になっていったことを考えると奥深さを感じてしまいます。
その一方で、日本の場合、神道と神話が半ば一心同体になっていることからも分かる通り、神話イコール宗教でもある不思議な国というか西洋とは全く違う価値観でなりたっている国だという気がします。
また、西洋では神話を超えて宗教が根付いていった理由として考えられるのは、度重なる民族同士の戦争による支配・統合によって異なった言語、文化の民族を取り込むうえで、神話を超えた普遍的なものが必要で、その神話を超えた普遍的な価値観がユダヤ教であり仏教、キリスト教イスラム教だったのでしょうね。

ビッグ フィッシュ

久しぶりの書き込み。
ティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」をレンタルDVDで見る。
個人的にチョコレート工場を見て演出手腕の衰えを感じていました。期待半分恐る恐る見てみたのですが、内容は実に面白く濃い。シザー・ハンズから続くファンタジー世界に、エド・ウッドやスリーピーホローのようなゴシックホラー的暗い雰囲気が融合した作風なのですが、類まれなキャラクター造詣やディテールの懲りようはティム・バートンならではの世界観が如実に反映されています。
内容は、もうすぐ子供が生まれる男性が死を間近に控える父親と本気で向き合うという裏の筋があるのですが、
表面上はシーラカンスのような巨大な魚を取り上げると子供が生まれた話や、巨人やサーカス一座が支配する小さな田舎町の話、従軍先のアジアで出会った体は一つで頭が二つある美人姉妹の話など虚実ないまぜとなったような作り話が繰り広げられていく。つまりそれらの話を主人公の男性は父親から聞かされていたという設定。
結末はさておき、描かれている不思議な世界は現実にはありえない世界で奇妙な視点を変えると恐い世界なのかもしれないのですが、ティム・バートンが描くと素敵と思えるところが監督の力量といえるのでしょう。

物語の中で描かれる異次元というか別世界というと、SFのような近未来、歴史や神話になぞらえた壮大な幻想的世界、怨霊が取り巻くオカルト世界など色々ありますが、ティム・バートン監督は20世紀のアメリカをおもちゃで遊ぶ子供の視点のような夢溢れる世界として取り上げそしてファンタジーの世界にまで昇華しているところが斬新というか妙技と言えます。

痩せた背中 鷺沢 萠

痩せた背中 鷺沢 萠

主人公はオイサンと呼んでいた父親の葬式に出席するため、久方振りに故郷の高崎に帰る。家に戻ると、オイサンの女がいた。オイサンは主人公の母親と死別した後何人もの女を垂らしこんでいたが、主人公と三人で暮らした女は一人だけだった。その女は、隣町の床屋で働く20歳くらいの女で、オイサンと親子位年の離れた若かった。主人公はその女が美しかったこともあり親しくするようになる。その女はそれまで身寄りが誰一人なく、初めて自分に優しく接してくれたのがオイサンだと言う。女は学がなく文字も読めなかったが、オイサンに気に入られようと家事にいそしむのだった。ところが、オイサンの悪い癖がまた出てしまい別の女を作ってしまう。その頃から、主人公は女の精神が壊れていく姿を目にしていく。ある日、オイサンはいつものように帰ってこなく待っているうちに寝てしまった主人公。目覚めると既に明け方になっていて、立ち上がって玄関に行ってもオイサンの靴はない。玄関前の襖をあけると布団の上で花柄の浴衣を羽織った痩せた背中が剥き出しになっている。手元は血で染まりその脇にはかみそりが。
女が廃人寸前になり、オイサンは自分の非を認め改心し常に女につき切りになって面倒をみるのだったが、やがてそのオイサンも心臓病の発作に冒されるようになる。
タイトル通り、父親の若い彼女の精神がおかしくなっていき自殺未遂をした時に主人公が見た女の痩せた背中もさることながら、女が精神を病んでいく過程で仕事にも出なくなってずっと家にいつづけるようになり、主人公が学校から帰ってくると机の前で前かがみになっているので近づいてみると、指の先ほどの小さな千羽鶴を折っていたり、温和でのんびりやさんの性格の女が野良犬に父親用のご飯を投げつける姿は鬼気迫るものを感じさせる。それは、芥川龍之介の作品に通ずるところがあり、人間の心の奥底に潜む巨大な想像力を感じさせると同時に巨大な底知れない闇をも感じさせる。
これまで、鷺沢 萠という作家の作品を読んだこともなかったし、意識したこともなかったので初めて調べてみた。するとウィキペデイアにこう書かれていた。十代の時、高校三年生で文学界新人賞を受賞した後、数々の作品を残す。自らの家庭を取材するなか父親の祖母が韓国人だと知り韓国へ留学した経験もある。そして、2004年4月11日、自宅トイレで首を吊りその生涯を閉じた。享年35歳だという。

才能が精神の器を越えて零れだしてしまったのだろうか。しかし、才能ある数少ない人間にしか書くことのできない孤独というものを見事に書ききったこの作品は素晴らしいの一言につきる。


最近、柳美里フルハウスを読んだ。在日文学の旗手として柳 美里が騒がれていた頃、フルハウスを流し読みしたことがあったがほとんど印象に残っていなかった。当時は世間の在日文学という評価が邪魔していたのかもしれないが、ある意味色眼鏡をかけて見ていたのだろう。改めて読んでみると堅苦しい事関係なく素直に面白いと感じた。
昔、伊集院静の作品を読んで同じ事を思ったことがあるのだが、韓国の理想の(?)男性像は日本の光源氏に代表される優男とは正反対で、無骨で男臭い印象がある。上述した三作家が描いた父親像にはそんな共通点があるように思える。



第78回 文学界新人賞  ファーストブルース 松尾光治

親の都合でロスアンゼルス郊外の中流家庭の家が立ち並ぶ街で学生生活を送った主人公の日本人が黒人の女の子と知り合い、そして初体験をして性病をうつされるという出来事を思い出話のように振り返っている話。白人たちが多い街に育った彼は黒人の女の子と付き合うことで、親や白人から白い眼で見られると同時に、黒人の彼女からも肌の色が違うということを何を意味するのかということを教えられるのだが。ただ、主人公が好きになる女の子の肌が黒いことを常に気にしていて、最終的には肌が黒いことを理由に彼女の人間性まで疑うというほどの差別意識アメリカで青春を送った若者のひと夏の思い出というさわやかな話の中で人種差別を軽く扱うことで、人種差別の根深さというより作者の人種差別に対する浅はかさみたいなものが感じられた。アメリカにおける黒人に対する白人の意識だけではなく、日本人の主人公が無意識のうちに人種差別に加担しているせいで、読み終わるとさわやかな青春小説というより人種差別小説という印象が徐々に強くなってきた。十年前とはいえ、この作品に新人賞を与えるのはいかがなものかと。人種差別といったシビアな問題を取り上げる場合、被害者と加害者の立場を掘り下げて問題意識を明確にした上でないと、人種差別を否定するだけでなく書き手自らが己を否定することに繋がると感じた。人にされて嫌なことは、やはり人にすべきではないという正論だがごく当たり前の意識は持ってしかるべきだと思った。セリーヌのように退廃的な意識と反ユダヤ主義を結びつけて独自の作風を作り上げた人もいるが、その交換として手に入れたものは母国フランスから追放される運命だったわけだが・・とはいえ、セリーヌの小説の主人公にはセリーヌの愛が感じられるが、この小説の主人公には作者の愛が感じられない。単純に心理や性格、感情描写が足りないだけなのかもしれない。もしかすると、これが苦々しい気分にさせられた理由なのかもしれない。


by文芸誌ムセイオン

http://eizou.web.infoseek.co.jp/muse1.html

第76回 文学界新人賞 無人車  高林杳子  

運転手のいない車という幻覚とも現実ともつかない白昼夢を見る女の主人公の話。


第75回 文学界新人賞 ちょっとムカつくけれど、居心地のいい場所 伏本和代

主人公の女子高生には年の離れた叔母がいる。叔母はある日、一緒に探偵事務所について来てくれないかと頼む。
叔母の夫がどうやら浮気をしているらしく、その調査依頼に付き合ってくれというものだった。主人公の女の子は母親の様子が変なのが気になっていた。母親の様子が変なのは婦人科から帰ってきてからだった。叔母のこともあり、母親が父とは違う男と浮気して妊娠したのではないかと思い心配になり母親に対して疑いの目を向けるのだった。
やがて探偵事務所から報告があったと叔母から連絡がはいる。叔母には分かっていたことだが実際事実として前に突きつけられるとどうして良いのか分からなくなってしまう。最初は強がっていた叔母だったが実は自分の意思で何一つ動くことのできない弱い人物だったのだ。そんな叔母の姿を見た主人公の女の子は両親の仲睦まじい姿と叔母夫婦の対極的な様子を見ながら子供から脱皮していく。

第77回 文学界新人賞 中村邦生 冗談関係のメモリアル

学生時代の友人同士の男が飲み屋に集まって身も蓋もない話を言い合うという話。日本という国が貧しさや戦争から縁遠い国になり、個人的な問題が一番の国家的問題なのか?だろうかと錯覚してしまう。それはそれで有難いし、平和が何よりだ。しかし、ノーベル文学賞は激動の時代を送る国の作家に送ってほしいと思う。本題に戻ると、この小説はユーモア小説ということになるのだろうが、ユーモアというのはバランスが重要だなと感じた。語りすぎてもダメ、とはいえ淡白すぎてもダメ、同時代人、同国人でなくても面白さが分からなければダメなのだから。


第77回 文学界新人賞 篠原 一 壊音

漫画アキラやウィリアム・ギムスンのSFのような未来青年少女が登場人物で、ゲリラとか反政府分子みたいなそれ系の用語がキーワードとなる物語


by文芸誌ムセイオン

http://eizou.web.infoseek.co.jp/muse1.html

第79回 文学界新人賞 マイナス因子  木村巴

若い女の子二人が、日常への苛立ちやら未来への不安を募らせながら、その果てに心中するというお話。サガン悲しみよこんにちは以来続く女の子小説の典型的なスタイルで書かれている。若い女の子の日記、今で言うとブログを読む感覚に近い。精神的に不安定な若い女の子というテーマはまだ今後も続いていくのでしょうか。ただ登場人物が若さゆえに方法を知らないから力がなく悲劇に巻き込まれるといった、いわゆる若者の暗い話は客観的になって冷静に読むと笑える。

第74回 文学界新人賞 樹木内侵入臨床士 安斎あざみ

樹木内侵入臨床士という不思議な能力を持つ人間、それが主人公だ。主人公の女子大生はある日、保健室に呼ばれて樹木を描いた画を見せられる。それは樹木画というもので、書いた人間の心が反映されたものだった。心理療法の芸術療法のようなもので、病んだ心の人間が描く樹木を樹木内侵入臨床士が見ると、その構成要素を具体的に判別することができるというものだ。この話は、樹木内侵入臨床士という架空の能力を心理療法と重ね合わせながらも異世界に通じる新たな扉として細かく描写したところに説得力がある。



第73回 文学界新人賞 名前のない表札  市村薫

うだつのあがらない生活を送る若者が風俗の女に入れあげる。その女の源氏名和泉式部。太った女だ。主人公はサラ金に何百万も借金してまで毎日通いつたことが功を奏し、とうとう和泉式部と同棲することになる。


第72回 文学界新人賞 海を渡る植物群 みどりゆうこ


外国で暮らす女主人公は理屈と自我が強い。彼女にはフィアンセがいて、その彼は同じ日本人で母親と二人で生活をしている。いわゆるマザコンっぽい男だ。植物好きの主人公は、ある日植物の栽培に詳しい教授と呼ばれている老人の下に訪れる。老人の植物に対する知識は豊富で主人公も老人の牧歌的な生活に憧れを持つ。老人の家に通ううちにフィアンセの感覚のずれを感じていた時、老人から告白をされる。その伏線になるような言葉を老人は告げていたが、親子以上に年齢が離れているが一緒に暮らしたいとはっきりと告白する。主人公の女性にとっては、フィアンセの彼より老人の方が居心地の良さを感じていることはうなずけるのだが、老人がいきなり告白する場面は唐突感が否めない。映画で言うと、ヌーベルバーグの旗手、エリック・ロメールのようだ。中年の男が若い美しい女を手玉にとっていく作品が多いのだが、何故もてもてなのかさっぱり分からない。かといって、分かったらもてもてになれるともどうも思えない。ただ、この登場人物が最初からもてもてのプレイボーイの役割を与えられたから、もてもてなのだとしか思えないのだ。そのもてもてぶりを際立たせるためだけに、出来るだけ美人で若い無垢な女性をその男にあてがうとしか思えない。女性の書いた小説にこういう理解のできない展開になる作品があるが、逆に男の書いた作品にも女性が理解に苦しむものもあるだろう。その男女間の隔たりみたいなものを理解することで、異性の違いによる面白みが発見できるかもしれないと思った。