museionの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-09-06 やはりエジプトか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

つい最近オシリス神話関連の本を読んでいて思ったことですが、ギリシア神話よりエジプト神話の方がより自分を惹きつける魅力があるのかなと感じました。ギリシア神話の場合はゼウスというあらゆる権力を手中にした最高神が自身の欲望を満たすために(男としての性欲・征服欲を満たすため?)理不尽な行為(現代の法社会では犯罪以外の何ものでもない)をしすぎていて、目に余るという事実がその理由の一つにあります。

もちろんエジプト神話にもこういったギリシャ神話と似たような傾向があるのかもしれませんが、オシリス神話に限ってはあの世(死の世界、夜の世界)を支配する神ゆえに現実に生きているものに対して手出しをしない、あくまで息を引き取ったあとの人間を楽園へと導くか否かの判断をする存在なので生きているものに害がないし、あちら側にいる存在ということで観念的な神という存在としての神秘性があっていいかなと思います。

その他気に入った理由として、オシリス神話が日本神話と相通ずる要素があるということもその一因として挙げられます。

日本の神話の場合、火の神カグツチ出産して火傷で死んだイザナミ黄泉の国へ送られます。

一方オシリス神話の場合、弟神セトに謀殺されたオシリスは妹であり妻でもあるイシス神の助力によって何度も生き返るが

その度に弟神セトに殺され、最終的にオシリスの息子ホルスが弟神セトを抹殺して全エジプトを支配する王となり、

オシリス神自身は地上世界から遠ざかって冥界の王の座に付いたといいます。

両者とも現世を離れあの世に隠居することで、この世とあの世(生と死)の境界線を具現化する存在としての価値もさることながら、あの世へ行く引き換えに、日本神話の場合はアマテラススサノオなどの誕生をもたらすなどこの世に新たな秩序をもたらす存在でもあります。

こういった生と死と復活にまつわる神話が宗教の土台になっていったことを考えると奥深さを感じてしまいます。

その一方で、日本の場合、神道と神話が半ば一心同体になっていることからも分かる通り、神話イコール宗教でもある不思議な国というか西洋とは全く違う価値観でなりたっている国だという気がします。

また、西洋では神話を超えて宗教が根付いていった理由として考えられるのは、度重なる民族同士の戦争による支配・統合によって異なった言語、文化の民族を取り込むうえで、神話を超えた普遍的なものが必要で、その神話を超えた普遍的な価値観がユダヤ教であり仏教キリスト教イスラム教だったのでしょうね。

2007-02-27 ビッグ フィッシュ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

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久しぶりの書き込み。

ティム・バートン監督映画ビッグ・フィッシュ」をレンタルDVDで見る。

個人的にチョコレート工場を見て演出手腕の衰えを感じていました。期待半分恐る恐る見てみたのですが、内容は実に面白く濃い。シザー・ハンズから続くファンタジー世界に、エド・ウッドやスリーピーホローのようなゴシックホラー的暗い雰囲気が融合した作風なのですが、類まれなキャラクター造詣やディテールの懲りようはティム・バートンならではの世界観が如実に反映されています。

内容は、もうすぐ子供が生まれる男性が死を間近に控える父親と本気で向き合うという裏の筋があるのですが、

表面上はシーラカンスのような巨大な魚を取り上げると子供が生まれた話や、巨人サーカス一座が支配する小さな田舎町の話、従軍先のアジアで出会った体は一つで頭が二つある美人姉妹の話など虚実ないまぜとなったような作り話が繰り広げられていく。つまりそれらの話を主人公の男性は父親から聞かされていたという設定。

結末はさておき、描かれている不思議な世界は現実にはありえない世界で奇妙な視点を変えると恐い世界なのかもしれないのですが、ティム・バートンが描くと素敵と思えるところが監督の力量といえるのでしょう。

物語の中で描かれる異次元というか別世界というと、SFのような近未来歴史神話になぞらえた壮大な幻想的世界、怨霊が取り巻くオカルト世界など色々ありますが、ティム・バートン監督は20世紀のアメリカおもちゃで遊ぶ子供の視点のような夢溢れる世界として取り上げそしてファンタジーの世界にまで昇華しているところが斬新というか妙技と言えます。

2007-02-01 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

第79回 文学界新人賞 マイナス因子  木村巴

若い女の子二人が、日常への苛立ちやら未来への不安を募らせながら、その果てに心中するというお話。サガンの悲しみよこんにちは以来続く女の子小説の典型的なスタイルで書かれている。若い女の子の日記、今で言うとブログを読む感覚に近い。精神的に不安定な若い女の子というテーマはまだ今後も続いていくのでしょうか。ただ登場人物が若さゆえに方法を知らないから力がなく悲劇に巻き込まれるといった、いわゆる若者の暗い話は客観的になって冷静に読むと笑える。

第74回 文学界新人賞 樹木内侵入臨床士 安斎あざみ

樹木内侵入臨床士という不思議な能力を持つ人間、それが主人公だ。主人公の女子大生はある日、保健室に呼ばれて樹木を描いた画を見せられる。それは樹木画というもので、書いた人間の心が反映されたものだった。心理療法の芸術療法のようなもので、病んだ心の人間が描く樹木を樹木内侵入臨床士が見ると、その構成要素を具体的に判別することができるというものだ。この話は、樹木内侵入臨床士という架空の能力を心理療法と重ね合わせながらも異世界に通じる新たな扉として細かく描写したところに説得力がある。



第73回 文学界新人賞 名前のない表札  市村薫

うだつのあがらない生活を送る若者が風俗の女に入れあげる。その女の源氏名は和泉式部。太った女だ。主人公はサラ金に何百万も借金してまで毎日通いつたことが功を奏し、とうとう和泉式部と同棲することになる。


第72回 文学界新人賞 海を渡る植物群 みどりゆうこ


外国で暮らす女主人公は理屈と自我が強い。彼女にはフィアンセがいて、その彼は同じ日本人で母親と二人で生活をしている。いわゆるマザコンっぽい男だ。植物好きの主人公は、ある日植物の栽培に詳しい教授と呼ばれている老人の下に訪れる。老人の植物に対する知識は豊富で主人公も老人の牧歌的な生活に憧れを持つ。老人の家に通ううちにフィアンセの感覚のずれを感じていた時、老人から告白をされる。その伏線になるような言葉を老人は告げていたが、親子以上に年齢が離れているが一緒に暮らしたいとはっきりと告白する。主人公の女性にとっては、フィアンセの彼より老人の方が居心地の良さを感じていることはうなずけるのだが、老人がいきなり告白する場面は唐突感が否めない。映画で言うと、ヌーベルバーグの旗手、エリック・ロメールのようだ。中年の男が若い美しい女を手玉にとっていく作品が多いのだが、何故もてもてなのかさっぱり分からない。かといって、分かったらもてもてになれるともどうも思えない。ただ、この登場人物が最初からもてもてのプレイボーイの役割を与えられたから、もてもてなのだとしか思えないのだ。そのもてもてぶりを際立たせるためだけに、出来るだけ美人で若い無垢な女性をその男にあてがうとしか思えない。女性の書いた小説にこういう理解のできない展開になる作品があるが、逆に男の書いた作品にも女性が理解に苦しむものもあるだろう。その男女間の隔たりみたいなものを理解することで、異性の違いによる面白みが発見できるかもしれないと思った。

2007-01-11 谷崎潤一郎 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

昨年からお世話になっている水天宮前にある会社へ納品に行った後、日本橋図書館へ向う途中、偶然に人形町の甘酒横丁沿いにある谷崎潤一郎生誕記念碑を発見。半年近く会社へ納品へ行ったついでに立ち寄ろうとずっと思っていたのだが、場所を把握しておらずどこにあるのか分からなかった.

本当に人形町の中心というか、水天宮からもとても近い場所に生まれたのですね。

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日本橋図書館は、谷崎潤一郎生誕記念碑がある場所とは目と鼻の先。建物は正門には大きな時計が飾られ和洋折衷の昭和初期の建物のようなつくりをしている。ちなみに、この図書館は公立の日本橋小学校と建物を兼用している。というわけで、5階と6階にある図書館に授業中の生徒が集団となって現れるという不思議な光景が見られる。

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ちなみに、館内では谷崎潤一郎生誕120周年記念展と称して写真や著作物が展示してありました。

その中に家系図の大きな写しが展示してあったのですが、谷崎の最初の奥さん(後の佐藤春夫の妻)との間に娘がいて、その娘さんの子孫の方々は今もご健在だということを知りました。

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2006年に30回すばる文学賞を受賞した瀬戸良枝の「新しい歌」という作品。官能小説を前衛的に書いた作品。

画家を挫折して東京から地元に戻ってきた、若い主人公の女。女は地元にいた頃通っていた画塾にいた、才能もあって見かけも良い憧れの男に出会い肉体関係を結ぶ。

見かけの悪い主人公はあこがれの男とのセックスに明け暮れる。男はセックスをゲームとしてしか見ていなく、アブノーマルなプレイを主人公に要求していく。精神的に完全なSM的な関係になり主人公の女は抜け出せなくなるのだ。ちなみに、男は留学先のイギリスから帰ってきた後は地元の新興宗教団体に入り怪しい行動で注目をあつめていた。

ある日、実家の薬局に電話がかかってきて、店の経営を実質取り仕切っている兄に取り次いでもらう。兄は謹厳実直な男で妹に対して、いい加減に働いて親孝行をしろという人物。主人公が電話を出ると、相手は同じ画塾に通っていた女で、軽蔑していた奴だった。その女が言うには、自分も同じ男と関係を持っていて、あんたも私と同じようにあの男の体が忘れられないのでしょと言われて儚い気分になる。肉体的に劣等感が強い主人公は、自分の肉体を磨くことで男への気持ちや肉欲を断ち切ろうとする。

見所は、主人公の若い女性の体をもてあそぶ男の言い寄り方や、主人公が快楽に身を委ねるところ。それらを、気持ちよいとか、痛いなど身体表現を通じて描写しているところが秀逸。この作者は泉鏡花の作品におけるこの世と別世界との関係を肉体と精神の関係と捉えたということだ。


第49回群像新人文学賞受賞作品、木下古栗「無限のしもべ」は大江健三郎のような言葉の洪水のような次々と新しい文章が繰り出されるようなタッチで書かれた作品。


似非サラリーマン風の主人公の男が、向いにいる男女のグループの輪に入っていき言葉巧みに言いなりにさせたり、電車で出会った年齢不詳の女の後をつけていき声を掛けるのだが、向こうは八年間入院していたという女性で主人公の想像を超えた人物で面を食らってしまう。


言葉イコール騙す、女イコール性の対象、男は女にエロを求めるという単純明快で普遍的なテーマを扱ったことで、回りくどい多少冗長すぎる文体も最後まで読めてしまう。退廃とエロスを前面に押し出しながらも、八年間入院していた女と主人公との出会いには、作者の優しさやユーモアが見え隠れして微笑ましいものがある。


by文芸誌ムセイオン

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2007-01-10 第103回(2006年) 田山朔美 「裏庭の穴」、藤野可織 「いやしい鳥」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

第103回(2006年)文學界新人賞受賞作二作品を読んだ。

いずれも女性作家の作品。

田山朔美 「裏庭の穴」はまだ若さやを感じさせる母親が主人公

ある日、そんな彼女がミニ豚を飼うことになる。

人付き合いがとりわけ苦手なこともあり、豚の世話に没頭するようになる。

一見幸せを見つけたように思えるのだが。

ところが、夫に浮気をされ、夫の愛人に家に突然の訪問を受けたりするだけでなく、

子供との関係や近所付き合いも悪化の一途を辿っていく。

神経症的主人公の乾いた心が描かれているのだが、後半に近づくとエンターテインメン性が強くなり

まるでホラー作品のように恐怖とまでは行かないが主人公を脅かすいくつもの魔の手が忍び寄ってくる。


藤野可織 「いやしい鳥」

妻に逃げられた貧乏講師の男が、学校の飲み会で出会った男子学生を家に泊めなくてはならなくなる。

それからが大変。学生はペットの鳥を食ってしまうと、段々羽やらくちばしがはえてきて

主人公の男を襲いだすはと摩訶不思議な事が頻発する。

主人公の独白を軸にした語り口で、いまどきっぽい若い男のしゃべり言葉を前面に押し出したことが

現実的なストーリーに現実感を与えている。

ある意味、戯曲的な小説とも言える。

また鳥になった学生が主人公の存在を脅かすところは、まるで不条理漫画のよう。

一昔前には、カフカの影響を受けて面白い作品を描く漫画家が山ほどいたが、

今ではそういった漫画家に影響を受けた小説家もいるというその一例だとも言える。


by文芸誌ムセイオン

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2006-12-31 2006年もあと半日 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

今年は変化のある一年だった。おそらく来年は更に動きがあるように思える。

そんな中、久しぶりに本を大量に読み漁ることができた。

それまであまり好きではなかった谷崎潤一郎のほぼ全作品(谷崎版源氏物語も含め)を読んだ。

そして、同様に今まで何故か遠ざけていた芥川龍之介の全作品も二回くらいづつ読んだ。

この二人は真逆の性格で作風も正反対。

谷崎もそうだし、川端もそうだが少女漫画的なマンネリ度やメロドラマ度が強いなと思える一方、芥川は男の破滅願望が体感できる。もちろん、「刺青」などの谷崎の初期の短編や川端の前衛的な作品にも同様な厭世的である意味宗教的なものもあるが、傾向の一つとしてはそういうものがあるかもしれない。

しかし、二人には共通する志向というか同時代人ならでは感覚や鋭い感覚を持った人間ならではの共通点がいくつもある。あと、今年は安部公房の全作品を三度目以上の再読、年の後半にはロス・マクドナルドの作品に行き着いた。

おととい、今年の仕事も終えて家でのんびりしていたところケーブルテレビをつけると、スピルバーグの処女作品「激突」が始まろうとしていた。テレビ映画で、まだ無名の監督だったスピルバーグは低予算で砂漠でのオールロケで作った作品だ。登場人物も主人公のビジネスマンだけ。台詞もほとんどなし、ただ主人公がのる真っ赤な車とタンクローリーがひたすらカーチェイスをするというだけのもの。そんな物凄くシンプルなのに、何度見てもついつい最後まで食い入る様に見てしまう不思議な映画だ。この作品以前と以降では映画そのものが変わってしまったように思える。スピルバーグなら一人だけで小さいカメラで何か面白いもの撮ってきてもらえますかと頼んだら、超大作より面白いものを作ってしまいそうな気がする。才能とはそういうものなんだろうなと思う。


来年も文芸誌ムセイオンを宜しくお願いします。

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「いい匂いだね。」レモン色のハンカチをテーブルの上に折り目正しく丁寧に置きながらカメラマンの霧島氏は言った。初めて知ったのだが、このマンションは晴れた日に屋上で洗濯物を干す人が多いらしい。というのも、通りに面している側以外残りのビルの三面それぞれが隣接する同じ高さのビルとまるで恋人と肩を寄せ合うように密着しているからだ。おまけに通りに面している側は北西向きなのでベランダだけでなく、どの方角の窓にも陽が差し込まないのだ。昼間だというのに明かりがついていない奥の部屋は地球の裏側が隣接しているかのような状態だった。

「ここに引っ越してきて間もない頃の話なんだけどね。徹夜明けで一服するために屋上に上がったら眼の覚めるような光景を目にしたことがあるんですよ。確か二十枚位は干してあったかな。洗い立ての真っ白なシーツがずらっと一面に干されていて、何となく白い家しかないスペインの田舎町が突然目の前に現れた感じがしたな。昔好きだったアンゲロプロスの映画のワンシーンにも似ていたね。」

「永遠と一日でしたっけ。」

「そうだったかな。浜辺にズラッと真っ白なシーツが干されていて、拳銃で撃たれた逃亡者の血でシーツが真っ赤に染め上げられていくんだよね。」

霧島氏はふたたびレモン色のハンカチを取り上げると、その繊細さを両手で推し量るように優しく広げるとゆっくり鼻を近づけたのだった。

「このハンカチもらってもいいかな。」霧島氏は黒目を上げて眼だけを私の方に向けて言った。

確かにハンカチに対する処置に困っていたとは言うものの、あっけなく片をつけようとしている自分に納得がいかずほんの少し顔を歪めた。カメラマンとしての職業病か、それとも持ち前の性格からかその一瞬を霧島氏は見逃すことはなかった。霧島氏はそっとハンカチを私に差し出したのだった。霧島氏は口元に苦笑いとも照れ笑いともつかない微かな笑みを浮かべながら私を見ていた。このハンカチを自分の手で持ち主に渡さなければならないという意思が私の中に芽生えていた。

霧島氏はソファの横に置かれた荷物を指差して合図した。一つ20キロ以上はあると思われる撮影機材が入ったアルミ製の専用ケースが3つ置かれていた。霧島氏は玄関まで運ぶよとさりげなく言った。

衣類や生活必需品は私が来る前にアシスタントが纏めて空港に持っていったらしく、残っている荷物は仕事に関わるものばかりだった。とは言っても一ヶ月の取材旅行ということもあり、機材だけでも尋常でない量である。玄関まで運ぶだけでも億劫になるほどだった。ところが、私がケースを1つ運ぶ間に霧島氏は残りの2つを運び終わっていた。霧島氏は昨年五十台に突入して、髪は耳の付近以外はほとんど真っ白にもかかわらず、体力に関しては私の数倍あるように思えた。