MUSICA MUNDANA

2009-01-05

[][]あとがき 095


 2008年もいよいよ残すところ今日1日となりました。明日からは 2009年です。それで、何かが変わるわけではないとは思うのですが、一年の区切りですので、新たな気持ちで一年を迎えたいと思います。

 世の中、あまりいい話はないのかも知れませんが、それでも希望を失わずに生きていきたいものだと思っています。

 それでは、皆さん、よいお年を!!

[][]随想 095 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問(その5)◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問(その5)◆


Q6. 環境へのリスク評価はどのようになされるのか?

 環境へのリスク評価は、関連する遺伝子組み換え作物と影響を受ける可能性のある環境との両方に及んでいる。評価のプロセスは、遺伝子組み換え作物の特性の評価やその影響、環境内での安定性を含み、その導入がされる環境の生態学的特徴と結び付けられている。その評価には、また、新しい遺伝子を組み込むことから意図せず結果生ずる可能性のある影響をも含んでいる。


Q7. 環境にとって不安となる問題は何か?

 懸念される問題には、遺伝子組み換え作物の組み換えた遺伝子が自然集団に入り込むのを避けられるか入り込むことが起こり得るのか、遺伝子組み換え作物の収穫後もその遺伝子は存続するのか、また、ターゲットでない生物(例えば、害虫でない昆虫)の遺伝子産物への影響、遺伝子の安定性、生物多様性の喪失を含む他の植物の多種多様性の減少、農業での化学物質の使用の増大などを含んでいる。遺伝子組み換え作物の環境への安全性の様相は、土地の状況に応じて、かなり異なっている。

 現在の調査研究は、益虫に害を及ぼす潜在的影響や耐性のある昆虫がこれまでより早く誘発されること、新しい植物の病原体の発生の可能性、植物の生物多様性や野生生物にとって害となる結果を生ずる可能性、また、地域の状況によっては、重要な輪作を行うことが減少すること、そして、他の植物への除草剤耐性遺伝子の導入(移入)に焦点が当てられている。

[][]数学史 095 ◆13世紀ヨーロッパ


 ◆13世紀ヨーロッパ

 13世紀の数学をどう考えようとも、その世紀が長い知的停滞後の世界の真の覚醒の時代であることは確かです。そのすぐ前の数世紀、ヨーロッパ数学に関する著述家を生み出してはきましたが、数学者は一人も産み出していません。しかし、今や、その時代の精神があふれ出すことになります。極東では、その影響を感じ、中国では代数の著しい復活発展が見られます。インドもそれを感じ取り、一世代前の、バスカラの優秀さを評価しました。そして、知的ヨーロッパのすべてが、これまでになくそれを感じていました。それは偉大なビーコン(水路標識)の光の世紀ではありませんでしたが、西洋のすべての大通りにかけられた灯り、ルネサンスの時代とともに来るべき偉大な啓蒙の時代が約束された世紀でありました。

 世界の数学の知識の発展において最も大きな影響を及ぼしたのは、もちろんずっと大学でした。私たちが現代の言葉の意味で、これらの組織制度の勃興を跡づけられるのは13世紀からです。最も初期の中世の大学は、大聖堂、すなわち教会の学校から成長してきたもので、その始まりの年代については、必然的に曖昧になります。しかし、多くの場合、何らかの君主、市民あるいは教会から公に特権を得た年代はわかっていますので、普通、それらは設立(創設)の年代として受け取られています。時に、二つの年代、国家から特権を得た年代と教会から得た年代とがあることもあります。

パリ大学は、1200年に国家から許可状を得、その学位は 1283年に教皇によって認められました。それに対応するオックスフォードの年代は、1214年と 1296年であり、ケンブリッジは、1231年と 1318年です。パドヴァ大学は、1222年に創設され、ナポリ大学は、1224年に創設されています。14世紀、15世紀にも、他に多くの大学が創立されるのを見られますが、私たちは、13世紀をこうしたタイプの高等教育の基盤が置かれた時代と見なしています。教えられた数学は、まだ、極めて貧相なものでありましたが。

[][]音楽史 095 ◆ダンスタブルとオールド・ホール写本の作曲家たち◆


 ◆ダンスタブルとオールド・ホール写本の作曲家たち◆

 この時代、聖エドモント大学(St.Edmund's College)、オールド・ホール・ウェアー(Old Hall Ware)に保存されている、はるかに重要なイギリスの資料が、1410-20年頃に編集されています。それには、王宮礼拝堂(Chapel Royal)のメンバー、クック(Cooke)(1453年没)、スタージョン(Sturgeon)(1454年没)とダメット(Damett) (1437年没)による、1415年、アジャンクール(エイジンコート)・イヤー(the Agincourt year)での勝利の祈願と感謝を捧げるアイソリズムのモテトゥスを含んでいます。

しかし、これらは技法的な巧みさにおいても音の透き通るような美しさにおいても、後の人の手によってオールド・ホール(写本)に加えられた別のモテトゥス、ジョン・ダンスタブル(John Danstable)(1453年没)の「Veni sancte Spiritus/Veni ceator/Mentes tuorum」によって超えられています。フランク・ハリソン(Frank Harrison)は、この(曲)はチャペル・ロワイヤル(王宮礼拝堂)が、1431年のノートルダムでの九歳年上のヘンリー6世の戴冠式で、ベッドフォード公の礼拝堂(付き聖歌隊)で歌われたかも知れないことを示唆しています。というのは、ダンスタブルは、ブルグンド公であるフィリップの同盟者であり、義理の兄弟であるベッドフォード公に仕えていたからです。

ベッドフォード公は、家臣の中にヨーロッパで最も才能ある音楽家たちの多くを抱えていました。そして、他のどんなイギリス作曲家たちよりも -- カンタベリーベネディクト会士、ライオネル・パウアー(Leonel Power)(1445年没)よりも -- その作品が、イギリスの資料よりも大陸の資料に多く保存されているのが、ダンスタブルでした。彼は、ブルグンドの巨匠を通して、イギリスの流れをヨーロッパ音楽に注入しました。

ブルグンドの宮廷詩人マルタン・ル・フラン(Martin le Franc)(Le Champion des dames, 1440年頃)によって選ばれただけでなく、「G.デュファイ(Du Fay)」やバンショワ(Binchois)が、「公の(高い)音楽と私的な(低い)音楽とを快く致させるための新しい実践(nouvelle pratique De faire frisque concordance En haulte et en basse musique)」を試みたのは、ダンスタブルによるものでした。

そして、一世代後のワロン人、理論家であり作曲家であるヨハネス・ティンクトリス (Johannes Tinctoris)(Proportionale musices c.1474)は、「私たちの音楽の可能性は、非常に驚くほど増大し、新しい芸術が現れたように思える・・・。その起源は、イギリス人たちの中に保持されており、その中でもダンスタブルは第一人者である。1508 年になっても、Livre de la Deablerie の中でエロワ・ダメルヴァル(Eloy d'Amerval)は、「偉大な音楽家たち(grans musiciens)」のリストの冒頭に「ダンスタブルとデュファイ(Dompstaple et du Fay)とを挙げている。」と明言しています。

2008-12-02

[][]あとがき 094


 今日で11月も終わり。明日から師走です。今日は、少し北風(北西の風)が強く感じられます。

 また、今日からアドヴェント待降節)が始まります。欧米では、アドヴェント・カレンダーを毎日見ながら、クリスマスまで、あと何日と待ちわびるのでしょうか。日本も、かつては「もういくつ寝るとお正月・・・」なんて歌がよく歌われていましたが、それとよく似ていますね。

 日本の師走同様、年末の慌ただしい時期でもあります。

[][]随想 094 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問(その4)◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆


Q5. 人間の健康に関する懸念の主要な問題は何か?

 理論的な議論が、幅広い範囲の局面でなされている一方で、論争となっている3つの主要な問題は、アレルギー反応を引き起こす傾向(アレルギー誘発性(allergenicity))、遺伝子導入(gene transfer)と異系交配(outcrossing)である。

 アレルギー誘発性:原理的に言うと、一般のアレルギー性食物からの遺伝子導入は、それが導入された遺伝子タンパク質産生が、アレルギーを引き起こさないことが証明できなければ、阻止される。伝統的に開発された食物が、一般的にアレルギー誘発性のテストは行われない一方、遺伝子組み換え作物のテストの手順は、国連の食糧農業機関(FAO)と世界保健機関(WHO)とに評価されている。現在、市場に出回っている遺伝子組み換え作物には、いかなるアレルギー性の影響も見いだされていない。

 遺伝子導入:遺伝子組み換え食物から身体の細胞や消化管(胃腸管)内のバクテリアへの遺伝子導入は、もし導入された遺伝子の物質が人間の健康に悪影響を与えるなら、懸念を引き起こすだろう。これは、遺伝子組み換え作物を創り出すのに使われた抗生物質耐性遺伝子が、万一遺伝子導入されるようなことがあると、特に関連があるだろう。遺伝子導入の可能性は低いが、抗生物質耐性遺伝子を用いない技術が、最近の FAO/WHO 専門家パネル(専門委員会)では、推奨されている。

 異系交配:これまでの伝統的な一般の種からできた作物と遺伝子組み換え植物を育てた作物とが混ざることだけでなく、遺伝子組み換え植物の遺伝子がこれまでの一般的な作物や野生の関係する種に交じることも、食物の安心安全性に間接的な影響を与えているかも知れない。このリスクは、アメリカ合衆国で、飼料用のためだけに認可されたタイプのトウモロコシの痕跡が、人間の消費のためのトウモロコシ製品にあったことが示しているように、現実的なものとなっている。国によっては、遺伝子組み換え作物とこれまでの伝統的な作物とを栽培する畑を明確に分けることを含め、混入を減らすための戦略を打ち出している国がいくつかある。

 市場流通後も遺伝子組み換え作物製品の安全を継続して監視することの実行可能性と方法は、現在議論中である。

[][]数学史 094 ◆12世紀以降のアラビアの著述家たち◆


 ◆12世紀以降のアラビアの著述家たち◆

 12世紀の西方アラビア人の算術に関する著述家の中で、最もよく知られた人の一人は、アブ・ベクル・モハメド・イブン・アブダラ(Abu Bekr Mohammed ibn 'Abdalah)、一般には、アル・ハッサル(al-Hassar)として知られている人物でしょう。彼の著作は、あまりに広く知られていたので、すでに述べたように、モーゼス・ベン・ティボンによってヘブライ語に翻訳されています。(1259年)

 13世紀初め、キリスト教徒の呼び名で、アルペトラギウス(Alpetragius)という人が、スペインの、恐らくセヴィリャに住んでいて、天文学について著述しています。(1200年頃)彼の惑星の運動の理論、
その著作が彼を数学の著述家としての地位を与えたのですが、マイケル・スコット(Michael Scott)によってラテン語に訳されました。

 アルペトラギウスと同時代の人に、イブン・アル・カティブ(Ibn al-Katib)(1210/11年没)という人物がいました。彼は、算術、幾何学建築についての若干の議論を含む二つの著作を書いています。

 13世紀に、地理的にスペインの文明と緊密な関係にある北アフリカで生まれた学者の中で、最もよく知られているのは、アルバンナ(Albanna)、すなわちイブン・アル・バンナ(Ibn al-Banna)です。彼は、アル・マラクシ(al-Marrakushi)としても知られているという事実から、私たちは、彼はモロッコ生まれであったと推測しています。彼は、天文学、計量、代数アストロラーベ、そして比について著述しています。彼の最もよく知られた著作は、算術の論文である「タルキス(Talchis)」です。

 また一人、イブン・ベドル(Ibn Bedr)として知られるセヴィリャのイスラムの学者がいました。彼は、当時の代数の概論(要約)を書いています。年代は不確かですが、1311/12年に韻文で書かれた注釈があります。

 スペインムーア人の偉大な算術家の最後の人物は、アル・カラサディ(al-Qalasadi)です。グラナダの近くの町、バザ(Baza)の生まれで、算術について広く著作をし、数の理論の扱いにおいて、ある独創性を持っていたように思えます。

[][]音楽史 094 ◆チコニアへのイタリアの影響◆


 ◆チコニアへのイタリアの影響◆

 チコニアのすべての世俗曲が、事実上、イタリアの詩に作曲されたものであることは驚くべきことではありません。しかし、彼は、また、上声部に多くのコロラトゥーラを付けて2声や3声のバッラーダを洗練させ、その世紀の変わり目に生じたマドリガーレの短い復興に参画しました。一方、3声部のカノン「Le ray au soleyl」は、北方の精巧さの典型的な使用例であり、モデナのヴィルレ(Modena virelai)「Sus un fontayne」のマニエリズムについては、すでに述べました。

イタリアがいかに侵略者たちを豊かにし始めたかを示しているのは、イタリア人には馴染みの薄い形式ではありますが、彼の作品の最も重要な部分を占めているモテトゥスです。それらは、1400-10年の時期に年代付けられます。その中の二つは、2声部だけのもので、共に、同じラテン語のテキストを歌い、様式的にマドリガーレとは区別がつきません。また、別の二つは、同一のテキストで、器楽のテノールの上に、自由なあるいはカノン風の模倣の同じ声部の二つのデュエットがあります。

 チコニアは、恐らく、初期の他のどの音楽よりも作品にすばらしい響きの効果を冠する方法をよく理解していたのでしょう。それは、「Venetia, mundi splendor/Michael」の最後のファンファーレや「O virum/O lux/O beate Nicolae」の最後の「アーメン」が証拠付けています。それらを、それほど世俗的ではありませんが、それでも印象的なカノニチ写本(Canonici Codex)の中にあるグロリアの「アーメン」と比較してみるべきです。

この特別なグロリアは、カンタービレ(歌うような)の最初部とある意味で器楽的なテノールやコントラテノールのあるチコニアのモテトゥスと似ています。しかし、写本の中では、そのすぐ前にある(「Spiritus et alme」のトロープスのある)曲は、チコニアの別のグロリアやクレドにもある革新を示しています。合唱とソリストとの交替のための「dui」と「chorus」という印です。それは、この時までに、声のポリフォニーは、もはやソリストのためだけではなかったことを確認させます。

2008-11-02

[][]あとがき 093


 明日で、はや10月も終わりです。1500メートル以上の山々では、もう紅葉は散ってしまったかもしれません。今年の秋こそ、久々に、山へ行ってみようと思っていたのですが、結局行かずに終わってしまいました。

 でも、里山紅葉はこれからです。それを楽しみに待ちましょうか。

 それでは。

[][]随想 093 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問(その3)◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆


Q3. 遺伝子組み換え食品は、これまでの伝統的な食品と評価の仕方が異なるのか?

 全般に、消費者たちは、伝統的な食品(しばしば数千年にわたって食べられてきた)が安全であると考える。新しい食品が自然な方法で開発されると、その食品の特徴の幾つかは、肯定的であれ否定的であれ、変わることがある。国家の食品当局が、伝統的食品を検査するのが求められることもあるが、この場合は、必ずしもそうではない。実際、伝統的な品種改良技術で開発された新しい植物は、リスク評価技術を用いて厳格に評価されないこともある。

 遺伝子組み換え食品に関しては、ほとんどの国家当局は、特別な評価が必要だと考えている。遺伝子組み換え生物や食品の人間の健康や環境に関しての厳しい評価の特別なシステムが作られている。同様な評価は、一般的に、伝統的な食品にはなされない。つまり、この2つのグループの食品には、市場に出る前の評価の過程に、重要な違いがある。

 WHO の食品安全プログラムの目的の一つは、各国の当局が、遺伝子組み換え食品を含むリスク評価に従うべき食品を識別するのを手助けし、正しい評価をするよう勧告することである。


 Q4. 人間の健康への潜在的なリスクをどのように決めるのか?

 遺伝子組み換え食品の安全評価では、次の項目を詳細に調べる。
 (a) 健康への直接の影響:(有)毒性(toxicity)、(b) アレルギー反応を起こす傾向:アレルギー誘発性(allergenicity)、(c) 栄養あるいは中毒性の特性を持つと考えられる特別な成分、(d) 組み込まれた遺伝子の安定性、(e) 遺伝子組み換えに関連する栄養の影響、(f) 遺伝子を組み込むことで生ずる可能性のあるあらゆる予期せぬ影響

[][]数学史 093 ◆12・13世紀スペイン


 ◆12・13世紀スペイン

 12世紀、スペイン数学の研究は、その前の時代の人々より遙かに恵まれていました。アラビアの著述家たちの中で、第一の者は(中世には一般にこう呼ばれていましたが)、アヴェロエス(Averroes)(1126年頃-1198/9年)でした。彼は天文学と三角法について著述しています。彼の同時代人で、学問的に最も優れた人は、アべンパセ(Avenpace)、キリスト教徒たちによってこう呼ばれていましたが、彼は、セヴィリヤとグラナダに 1140年頃生きていて、幾何学について著述しています。

 しかし、先の世紀と同じように、この世紀も、数学の発展に最大の寄与をしたのは、ヘブライの学者でした。ラビ、ベン・エズラ(Rabbi ben Ezra)を別にしても、二人の学者を特別に取り上げるのに値します。マイモニデス(Maimonides)(1135年-1204年)、コルドバ生まれ、スルタンお抱えの医師で、優れた天文学者であった人物と、ヨハネス・ヒスパレンシス(Johannes Hispalensis)(1140年頃活躍)です。彼は、キリスト教信仰を告白し、算術と占星術について著述し(1142年)、様々なアラビアの数学に関する著作をラテン語に翻訳しました。

 同じ世紀、それほど著名ではありませんが、他にも様々なユダヤの学者がいました。例えば、サムエル・ベン・アッバス(Samuel ben Abbas)。彼は、算術、ヒンドゥーの数詞とその用法、代数そして幾何学について著述しています。

 13世紀には、アラビア語からヘブライ語になされた様々な翻訳が見られます。そして、その何人かの翻訳者が知られています。これらの中に、モーゼス・ベン・ティボン(Moses ben Tibbon)がいます。彼の父親と祖父は、哲学及び科学(学問)の著作をアラビア語からヘブライ語に翻訳した人として有名でした。彼は、その世紀の中頃、積極的に仕事をし、アルペトラギウス(Alpetragius)の天文学と恐らく後述のアル・ハッサル(al-Hassar)(1200年頃)の算術を翻訳しています。

[][]音楽史 093 ◆イタリアフランス人ワロン人音楽家(続き)◆


 ◆イタリアフランス人ワロン人音楽家(続き)◆

 こうした休みない放浪は、彼らの物語を語っています。カンブレリエージュの君主の司教職出身のワロン人たちは、イタリア礼拝の仕事に就いていましたが、決して彼らの祖国と接触を断ったわけではありませんでした。もちろん、全く南へは行かなかった人もいますし、ほんのわずかの期間しかいかなかった人もいました。デュファイの師のリシャール・ロケヴィユ(Richard Loqueville)(1418年没)や 1420年代ブルグンド(ブルゴーニュ)の宮廷にいたヤコブス・ヴィーデ(Jacobus Vide)や最も有名なモンス(Mons)のジル・バンショワ(Gilles Binchois)(1400年頃-1460年)などのように。

しかし、イタリア生まれのチコニアの弟子たちやマニエリストたちを圧倒するに十分な人たちがイタリアに進出していました。- 例えば、アントニウス・ロマーヌス(Antonius Romanus)。彼による 1415年のヴェネチアの総督(Doge)にトマソ・モチェニゴ(Tomaso Mocenigo)が選出されたことを記念するモテトゥスが残っています。また、パオロ・ダ・フィレンツェ(Paolo da Firenze)(1419年頃没)、アントニウス・デ・キヴィターテ(Antonius de Civitate)、そしてバルトロマエウス・デ・ボノニア(Bartholomaeus de Bononia)のような人たちもいました。

マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)が、1416年にミラノ大聖堂を去ると、彼の後継者は9年ぶりにイタリア人ではなく、アヴィニョン人のベルトラメ(Beltrame) つまりベルトラン・フェラグ(Bertrand Feragut)でした。彼は、すでにヴィチェンツァ(Vicenza)にきていました。しかし、最終的な結果は容易に予見できます。イタリアは、イタリアの征服者たちを征服し、ワロン人はイタリア化するようになるのです。その過程は、チコニア自身から始まっていました。

2008-10-04

[][]あとがき 092


 今日は、久々に雨。寒冷前線通過ということで、一気に肌寒い気候になりました。皆さん、いかがお過ごしですか。

 前回から、食の安全に関することになるのでしょうか、遺伝子組み換え食品について書いて(訳して)いますが、このところ世間を騒がせている中国の乳製品へのメラミン混入事件には、本当に驚いてしまいます。よく似た事件として、かつて、日本でも、●●ヒ素ミルク中毒事件などがありましたが、身近な重大性はともかく、広がりとその影響の大きさはその比ではありませんね。

 さらに、日本では事故米偽装転売問題なども起こっています。世の中どうなっちゃったんだろうと思う今日この頃です。

[][]随想 092 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問(その2)◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆


 Q2. なぜ遺伝子組み換え食品が作られるのか?

 遺伝子組み換え食品とは、これらの食品の生産者あるいは消費者いずれかに何らかの利点が認められるから開発された - 市販されている。これは、価格の安さや優れたメリット(持続性や栄養の価値)があるあるいは双方を兼ね備えた生産物と言い換えることができるという意味である。当初、遺伝子組み換え食品の種の開発者たちは、自分たちの生産物が生産者たちに受け入れられることを望んでいた。それで、農民たち(またより一般的には食品産業)が評価するような革新を行うことに集中した。

 遺伝子組み換えによって植物を作り出す初期の目的は、作物保護を改善することであった。現在市場に出回っている遺伝子組み換え作物は、主として、昆虫ウィルスによって引き起こされる植物の病気に抵抗力を持たせたりあるいは除草剤への耐性を強めたりすることで、作物保護のレベルを高めるのが目的であった。

 虫害抵抗性は、バクテリア、バチルス・チューリンゲンシス(BT)の毒素産生遺伝子を食品植物に組み込むことで達成される。この毒素は、現在農業で標準的な殺虫剤として使われており、人間の消費にとっては安全である。この毒素を永続的に生成する遺伝子組み換え作物は、特別な状況、例えば、防除圧が高いところ(虫害を受けやすいところ)では、殺虫剤の量が少なくてすむことが示された。

 ウィルス抵抗性は、植物で病気を起こすあるウィルス遺伝子を組み込むことで達成される。ウィルス抵抗性は、植物をそうしたウィルスによる病気に感染しにくくし、結果として、作物の生産を高める。

 除草剤耐性は、幾つかの除草剤に抵抗性を示すバクテリア遺伝子を組み込むことで達成される。雑草圧力の高い状況では、そうした作物を使用することで、結果として、使用する除草剤の量を少なくすることができる。

[][]数学史 092 ◆ラビ、ベン・エズラ◆


 ◆ラビ、ベン・エズラ◆

 この時期の第二の偉大なヘブライの学者は、アブラハム・ベン・エズラ(Abraham ben Ezra)でした。彼は、数の理論、暦学、魔方陣天文学、そしてアストロラーベについて著述しました。カバラに非常に関心があって、当時の最も学識のあるユダヤ人として正当に評価されています。彼は広く旅し、少なくとも東はエジプトまで、北はロンドンまで(1158年)行っています。天文学、暦学とその近隣のテーマに関する貢献に加えて、彼は数について3,4の著作を書いています。

 (1) セフェル・ハ・エチャド(Sefer ha-Echad);
 (2) セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)、主に算術について;
 (3) Liber augmenti et diminutionis vocatus numeratio divinationis, これはラテン語の翻訳だけで知られており、恐らく彼によるものではないだろう。
 (4) タ・フブラ(Ta 'hbula)、ヨセフス問題(Josephus Problem)を含んでいて、分冊の可能性があり、恐らく彼によるものだろう。

これらの中で、セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)だけが、唯一重要です。それは、ヒンドゥーの算術に基づいているのですが、数詞としてヘブライ文字を用いており、計算法の中で0を使っています。

 ユダヤ人によっても、キリスト教徒によっても、同様に高く評価されていましたが、彼の運命は全くの幸せであったとは言えませんでした。彼は逆境との戦いの中で、次のような言葉で嘆きを漏らしています。

 Were candles my trade it would always be noon;
 Were I dealing in shrouds Death would leave us alone.
 私が蝋燭を商っているのなら、常に正午であるだろう
 遺体を包む布を商っているのなら、死に神は私たちを独りにしておくだろう

[][]音楽史 092 ◆イタリアフランス人ワロン人音楽家


 ◆イタリアフランス人ワロン人音楽家

 これまで、ヨーロッパポリフォニーは、イギリス人がそうであったように、ほとんどもっぱらフランス語を話す音楽家たちと近く絶えず接触のあった音楽家たちの手で発展してきました。私たちがちょうど見てきたように、トレチェント(14世紀)のイタリアの一時の個人的な音楽でさえ、次第にフランスの影響によって変容させられてきました。しかし、パドヴァにチコニアが現れたり教皇庁礼拝堂に彼の同国人たちが職を得たりしたことは、新たな展開、外国人によるイタリア音楽家の地位の占有をもたらしました。

これは、特に、ローマ教会の分裂の終わりに著しくなります。コンスタン公会議(The Council of Constance)そのものが、様々な国の音楽家たちを集めました。皇帝ジギスムント(The Emperor Sigismund)は、オズワルド・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein)を伴って来ましたし、イギリス派遣団が伴った歌い手たちは、コンスタンツだけでなく旅の途中のケルンでも特別に称賛されました。

 1417年に、やっとマルティヌス5世が選出されると、彼は亀のようなゆっくりした旅に出かけ、行く先々で礼拝堂聖歌隊員を補充しています。1419年に、マントヴァで補充されたレグラン(Legrant)による、一つのグロリア、二つのクレド、三つのフランス語のヴィルレ(virelais)、ほとんどが一音対一音の様式で大胆な半音階主義の曲ですが、私たちは持っています。もう一人の優れた作曲家 - シャンソンだけですが - ピエール・フォンテーヌ(Pierre Fontaine)(泉のペトルス(Petr. de fonte))は、イェーハン・ドーレ(Jehan Dore)と同じ時、1420年3月にフィレンツェで補充されています。

ニコラウス・グレノン(Nicolaus Grenon)は、1385年の早きにブルグンドの宮廷にいて、それから、パリ、ラオン(Laon)、カンブレ(Cambrai)、ベリー公爵(The Duke of Berry)の礼拝堂にポストを得、その後再びブルグンド(ブルゴーニュ)の宮廷とカンブレに戻っています。1425年6月に、彼は少年たちのグループを引き連れてローマに現れます。彼が、1427年に北に帰ると、彼の親しい友人であったカンブレ出身のワロン人、その世紀で最も偉大な作曲家になるギヨーム・ド・デュファイ(Guillaume de Dufay)が後を継ぎます。

デュファイは、リミニ(Rimini)とペサロ(Pesaro)のマラテスタ家(The Malatestas)の礼拝堂に、1420-6年の間、すでにイタリアにいました。1433年、彼もまた放浪の旅へと去っていく前に、彼は、新しい教皇、エウゲニウス4世(Eugenius IV)を彼の最もすばらしいモテトゥス「Ecclesiae militantis」で褒め讃え、その礼拝堂の三人の新入聖歌隊員を歓迎しています。

デュファイは、1434年、サヴォイのルイ(Louis of Savoy)とイェルサレムキプロスの最後のルジニャン王(the last Lusignan King)の娘との結婚のためにトリノ(Turin)へ赴き、混乱によって彼がローマから追い立てられると、教皇に従ってフィレンツェボローニャへ行きますが、1437年には永久に教皇の礼拝堂を離れ 1444年頃までトリノにいます。そして、生涯の最後の30年間を - 彼は 1474年に没しますが - ブルグンド(ブルゴーニュ)公の庇護のもと、カンブレとモンス(Mons)で過ごします。

[]


 「今年は暑い夏が続くのでは?」と思われた頃もあるのですが、このところの涼しさとその後の局地的な豪雨には、驚かされますね。

 皆さんのところは、如何ですか。

 豪雨被害を受けられた方々にはお見舞い申し上げます。

 私のところも、このところずっと雨が続いていますが、それほどの豪雨にはなっていないようです。ただ、この雨で、庭や畑のあちこちで草が随分大きくなりました。晴れ間を見つけては草取りをしなければならないと思っているところです。

 それでは。


[] ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆

 少し前から、遺伝子組み換えについて興味を抱いたのですが、どうもよく分からないところもありまして、今回から、WHO(世界保健機関)のサイトに書かれている「20 QUESTIONS ON GENETICALLY MODIFIED (GM) FOODS」を訳してみることにしました。何かの参考になれば幸いです。

 20 QUESTIONS ON GENETICALLY MODIFIED (GM) FOODS
 http://www.who.int/foodsafety/publications/biotech/20questions/en/


 遺伝子組み換え食品に関する20の質問

 Q1 遺伝子組み換え(GM)作物や遺伝子組み換え食品とは何?

 これらの質問と答えは、遺伝子組み換え食品の性質と安全性に関する WHO に加盟する多くの国の疑問と不安に応えて WHO が用意したものです。

 遺伝子組み換え作物(GMOs)とは、遺伝物質(DNA)が自然には起こらない仕方で変えられた作物と定義することができます。その技術は、しばしば、「現代バイオテクノロジー(modern biotechnology)」「遺伝子テクノロジー(gene technology)」と呼ばれますが、また時には「遺伝子組み換え技術(recombinant DNA technology)」「遺伝子工学(genetic engineering)」と呼ばれることもあります。その技術を使えば、一つの生物から別の生物に、また、関係のない種の間で、個々の遺伝子を選択して移す(組み換える)ことができます。

 そうした方法は、遺伝子組み換え植物を作り出すのに使われます。- その後、その植物は、遺伝子組み換え農作物を栽培するのに使われます。


[] ◆スペイン(11世紀)◆


 ◆スペイン

 AD1000年頃、多くのムーア人学者がスペインに現れ、算術や天文学、また代数の文献を残しています。

 コルドバ生まれのイブン・アルサッファール(Ibn al-Saffar)は、天文表と天文器具について書いています。少し後(1050年頃)、イブン・アルザルカラ(ツァルカラ?)(Ibn al-Zarqala)は、恐らくコルドバの生まれだと思いますが、天文学占星術について著述し、天文表を残しています。

 その世紀の後半、デニア(Denia)出身のスペイン医学者アブル・サルト(Abul-Salt)は、幾何学天文学について書き、ジャビール・イブン・アフラ(Jabir ibn Aflah)(1140年と 1150年の間に没)、一般にはヘベル(Geber)として知られていますが、セヴィリアで活躍し、天文学や球面三角法、メネラオスの定理について書いています。

 しかし、11世紀の終わり、スペインで最も学識ある学者は、イスラム教徒ではありませんでした。ユダヤ民族、彼らは都合のよいことにスペインの東洋文明との関係で述べられることになるのですが、全般的に、キリスト教の支配でよりもサラセンの支配の下での方が、よい扱いを受けていました。この時代以前に、イタリアでいくらか活躍したことはありましたが、ムーア人からの励まし受け、ユダヤ人たちはスペイン数学の発展に少なからぬ貢献をし、キリスト教徒たちは、数学に関するアラビア語の著作の最初の知識を彼らに負うています。

この世紀、ユダヤの優れた学者の第一は、アブラハム・バル・キイア(Abraham bar Chiia)(アブラハム・ユダエウス(Abraham Judaeus))、一般に、サヴァソルダ(Savasorda)として知られるバルセロナ生まれの人です。(1070年頃から 1136年頃)

彼は、天文学について著述しましたが、主として、算術、幾何学及び数学地理学などを含む百科事典のために知られています。断片しか現存しませんが、彼はまた、Liber Embadorumという書名の著作も書いています。この著作は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)によってヘブライ語からラテン語に翻訳されました。


[] ◆世紀の変わり目のイタリア


 ◆世紀の変わり目のイタリア

 フランス同様の複雑な曲とシンプルな曲との対比が、14世紀から15世紀への変わり目頃のイタリア人、ランディーニより若い世代で、一層フランス化した同時代人の作品を特徴付けています。

これらのうちで最も重要なのは、マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)でした。マッテオは、歌手で、当時、1402年から 1416年まで、ミラノ大聖堂の最初のマエストロ・ディ・カッペラ(礼拝堂指揮者)(maestro de cappella)であったことが知られています。

彼の作品は、すべてモデナ写本にあり、5つのグロリア、一つのアニュス(と恐らくいくつかの作曲者不詳のミサの一部)、そしておよそ24の世俗曲、ロンド、ヴィルレ、フランス語の歌詞で完全にフランス様式のバッラードからなっています。ボド・コルディエ(Baude Cordier)のもの同様、それらは、時には、記譜が期待させるほど音において複雑でない場合もあります。しかし、グロリアの一つは、確かに、イタリア・マニエリズムの頂点に位置するでしょう。

 シャンティリ写本(Chantilly Codex)の終わりにあるモテトゥス、四声の曲が9曲、三声の曲が4曲ありますが、それらはリズム的には歌ほど複雑ではないことに注目すべきです。それらは、三つを除いてすべてラテン語のテキストですが、すべて宗教的なものでは全くありません。世俗のモテトゥスは、長い間それほど重要であったのですが、今や絶滅の危機に瀕した形式になっていました。

他方、宗教的モテトゥスは、シャンティリ写本には決して現れませんが、実際にはそれが知られていなかったイタリアでは、その写し、モデナ写本の中で、新しい生命が与えられていました。ここでは、その作曲家はマニエリストと見られていて、彼のヴィルレに、彼の友人であったかあるいは師であったに違いないフィリップス・デ・カセルタ(Philippus de Caserta)による三つのバッラーダの歌詞と音楽とが織り込まれています。

この新参者は、北から、リエージュから来たワロン人、ヨハネス・チコニア (Johannes Ciconia)(1411年没)でした。彼は、少なくとも生涯の最後の9年間をパドヴァで過ごしています。

 彼は、ここ時期イタリアにやって来た君主司教職(prince-bishopric)の唯一人の音楽家であったわけでもなく、アヴィニョン教皇たちだけが外国人を雇ったわけでもありませんでした。ローマのボニフェティウス9世は、少なくとも3人のリエージュ出身の歌い手を礼拝堂に雇っていました。彼らは、イタリア音楽を変貌させてしまうことになる著しい(外国人の)侵入の先駆者たちでした。前の半世紀の間に、そうした変化の条件がすでに整えられていました。彼らの中で著しく抜きんでて重要なのがチコニアです。


2008-07-31

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 暑中お見舞い申し上げます。 - 盛夏

 今年は、例年より梅雨明けが早く、その後、雨の少ない状態が続いている四国地方ですが、皆さんのところは如何ですか。

 6月は平年並みに雨が降ったのですが、7月に入ってからは、本当に雨の少ないからから天気の状態で、暑さばかりが感じられます。一昨日は激しい雷雨で、こちらは一息ついたところですが、降れば土砂降りで水難に遭った地域も有ったようですね。

 ともかく、7月というのに全国的に猛暑日が目立っているようです。8月はどうなるか分かりませんが、いずれにしろ、熱中症などお身体には十分お気を付けください!


[] ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その3)◆


 ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その3)◆

 Where do mathematical objects live?
 http://www.sciencenews.org/view/generic/id/31392/title/Still_debating_with_Plato

の続き、終わりまでです。


「課題は、数学的命題が、好みや一時の気まぐれに影響されることなく、決定的に真か偽でありうるのは何故なのか説明することだと、彼は認めている。「2 + 2 = 4」のような単純な命題では、これは、数学物理学との関係のためだと彼は言う。例えば、そのような命題は、コインやボタンの振る舞い方を叙述する。さらに物理学的世界から切り離されたより抽象的な命題のためには、彼は、私たちの脳の構造や論理への思考傾向を指摘する。

「しかし、Mazurは、その説明では満足できないと思っている。「私たちは、あまり意識されない存在だが「私たちの(our)」という言葉に目を凝らさ(注目し)なければならない」と彼は書いている。「「私たち(we)」は、個別に存在し恐らく一人一人異なりしばしば欠陥のある能力しか与えられていない私たちの一人一人であり、そうして、私たちみんなであるという意味でなければならないのか? 」この場合、個々人が皆違うように、数学自体が様々に異なっていなければならない。

「一方、もし「私たち」が、私たち個々人の才能の一種の抽象概念 - 実際に私たちの誰でもなく、私たちを結び付けている共通のもの - であるのなら、私たちは、抽象的なイデアの王国というプラトンの概念と隣合わせのところにいると彼は言う。

「しかし、発明という概念も、また、彼の見方では、数学をする経験の中で真実と捉えられる。「ときどき」と彼は言う。「私は、数学をしている間に、私の思考過程や他の人々の思考過程を分析をしているように思えるときがある。」こうした経験のあらゆる側面が、こうした議論には含まれなければならないと、彼は議論する。

「一つのことだけは、議論の余地はない - と私は信じる」と彼は書いている。「もしあなたが十分長い間数学と取り組んでいるのなら、いつかその問いとばったり出会うだろう。そして、その問いは、なかなか(頭から)立ち去ろうとしないだろう。もし、私たちが、数学を考えることは非常に素晴らしいことだと熱烈に感じた経験を大切にしたいのなら、私たちは、その問いに注意を払った方がよいだろう。」


[] ◆イングランド翻訳者たち◆


 ◆イングランド翻訳者たち◆

 イングランドは、12世紀に優れた翻訳者を二人以上生み出しており、アイルランドは少なくとも一人を生み出したように思えます。これらの中で最もよく知られているのは、バースのアデラード(Adelard of Bath)でしょう。トレド、トゥール(Tours)、ラオン(Laon)、そして東方でも学び、ギリシア小アジアエジプトを経由して、恐らくアラビアまで旅し、多くの数学的著作を持ち帰ったイングランドの学者です。

彼は、ギリシア語の知識があると信じられ、ユークリッド(エウクレイデス)をラテン語に訳した最初の人たちの一人ですが、この翻訳はアラビア語からなされたように思えます。彼かあるいはカンパヌス(Campanus)のいずれかが、星の多角形の角の総和を求めたように思えます。その図形は、恐らく占星術での使用のためだと思いますが、当時かなり関心が持たれていました。また、彼は、恐らく、アル・フワーリズミー天文表を翻訳したでしょう。そして、この著者の算術についての注釈も書き、「算盤の規則(Regulae abaci)」と題する著作を書いたと言われています。

しかし、アデラードは、ユークリッドの名をイングランドにもたらした最初の人物では決してありませんでした。というのは、すでに、私たちが見てきたように(p.187)、10世紀には、イギリスの学者たちには、すでに知られていたようだからです。

 アデラードがトレドに滞在した数年後、数学に関心のある別の二人のイングランドの学者が、自らの研究を究めるためにスペインへ行っています。

このうち最初の者がチェスターのロバート(Robert of Chester)(1140年頃)です。彼は、アル・フワーリズミー代数ラテン語に訳し、いくつかの天文表を用意しました。彼は、北スペインのパンペルナ(Pampelune)の助祭長で、また、イタリアギリシアに旅したようにも思えます。彼は、コーランクルアーン)をラテン語に訳した最初の人物でした。(1143年)

 そのイングランドの学者の二人目は、ダニエル・モーリー(Daniel Morley)で、1180年、オックスフォードで学んでいました。彼はパリへ行き、そこからトレドへ行って、アラビアの著述家たちを自由に引用しながら、天文学数学とについて著述しました。こうした人たちが、この時代、数学を求めて強制的に外国へと派遣されたことは、ロンドンの学校で書かれた著作の記録から明らかです。スペインへ行くべきであるというのは、全く自然なことでした。単に言語の理由からだけではなく、アルフォンソ8世(1158-1214年)とヘンリー2世の娘、レノーラ(Lenora)との婚姻で、カスティリアイングランドとの間には、親密な関係があったからです。


[] ◆フランスのマニエリスト(その2)◆


 ◆フランスのマニエリスト(その2)◆

 フランスのマニエリストの作曲家たちは、マショーやその直接の弟子たちと共に、すべて豪華なシャンティ写本(Chantilly Codex)に描かれています。その写本は、実際のところ、アラゴン王によって注文されたまさにその曲集あるいはその豪華版であるかも知れません。なぜなら、それは、彼の勅令にきちんと答えているからです。その何人かは、- フランスの影響を受けたイタリア人と共に - モデナ写本(Modena, Bibl. Est. M.5.24)(olim lat.568)やその他の資料の中にも現れます。

彼らの芸術は、自意識の激しい貴族的な玄人好みの音楽でした。彼らの一人、グィードは、「自然に反して」書かなければならないことに不平さえ漏らしています。「フィリップ[ドゥ・ヴィトリ]」の「boin exemplaire(よき模範?)」は、今では無駄になってしまいました。グィードは過激主義者の一人ではありませんでした。

真の過激主義者の中で最も優れているのは、アラゴンの宮廷にいたフランス人ハープ奏者、ヤコブ・ド・サンレッシュ(Jacob de Senleches)とも、ヤコミ・デ・セントルフ(Jacomi de Sentluch)とも、また(モデナ写本
(Modena Codex)では)ヤコピヌス・セレセス(Jacopinus Selesses)とも様々に知られている人でした。彼の苦心の末到達した精巧さでさえ、「マギルテル・ザカリアス(Magister Zacharias)」という人物によって越えられてしまいます。

モデナ写本の彼のラテン語のバッラード「Sumite karissimi」は、アペルによって「音楽の全歴史におけるリズムの複雑さの極み」と描写されているほどです。記譜だけでなく、記譜のレイアウト上の工夫は、後の時代に加えられたものではありますが、シャンティ写本(Chantilly Codex)の最初のボド・コルディエ(Baude Cordier)による二つのロンドに示されています。ハート形に記譜された有名な「Belle, bonne sage」と円形に記譜された「Tout par compas」です。

後者の一隅に、その作曲者は、ランス(Rheims)生まれで彼の音楽はローマにまで知れ渡ったという内容の韻文が書かれています。

 生まれたランスからローマまで
 彼の音楽は姿を見せさまよい歩く。
 (De Reins dont est et jusqu'a Romme
 sa musique appert et a rode.)

しかし、「Belle, bonne, sage」の実際の音楽は、いくつかの彼の作品(例えば「Amans ames」)ほどマニエリズムには決して堕していません。彼は、恐らく、15世紀初期に活動していたことでしょうそして、その頃には、マニエリズムに対する反動が始まっていました。


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 いつの間にか6月も終わりです。ということは、2008年も半分過ぎたことになります。早いものですね。

 今年は、7月1日が雑節半夏生です。「半夏のはげあがり」などという言葉を思い出しました。「降り続いた雨も、この日には晴れる」という意味だというものもあれば、「半夏(夏至から十一日目に当る日)の日が晴れると後は晴天が続く。」という意味の地方もあるようです。

 今日は、湿舌が入り込んでいるのかと思わせるほどの蒸し暑さでした。半夏生、さてさて晴れますでしょうか?


[] ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その2)◆


 ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その2)◆

 Where do mathematical objects live?
 http://www.sciencenews.org/view/generic/id/31392/title/Still_debating_with_Plato

の続きです。


プラトンは、発見であると信じる者たちの旗手である。プラトンの概念は、数学は宇宙のあらゆる構造物の下に横たわる揺らぐことのない基盤である。数学の内なる論理に従うことで、数学者は人間の観察からは独立した、一時的な性質の物理学的現実(現象)にとらわれない永遠の真実を発見する。「数学者が仕事をする抽象的王国は、数学者たちにとっては、その詳細な知識に長く慣れ親しんでいるがために、たまたまその上に座る椅子より具体的なものである」と、自らプラトン主義者を自認するスウェーデンの Chalmers技術大学の Ulf Perssonは語る。

プラトンの考え方は、数学を考えているとき経験する状況によく合致すると、自らをプラトン主義者であるとまでは言わないが、ハーバード大学数学者 Barry Mazurは語る。定理と取り組んでいるときの感覚が、「数学の概念の狩猟採集者」であるような感覚であると、彼は言う。

「しかし、その狩猟場はどこにあるのか?もし数学イデアがそこにあって、発見されるのを待っているというのなら、人類がそれまで心に描いたことが一度もなくても、とにかく純粋に抽象的概念が存在しなければならない。このため、Mazurは、プラトンの観点を「成熟した有神論の立場」であると考えている。それは、伝統的な意味でのどんな神をも要求するのではなく、「純粋なイデアの、純粋な存在の構造体」を要求すると彼は言う。そうした立場を擁護することは、「理性の貯蔵庫を放棄し預言者たちの資質に依存する」ことを要求する。

「事実、ロンドンのキングズ・カレッジの数学者Brian Daviesは、プラトン主義は、「現代の科学より神秘的宗教とに多くの共通点を持っている」と書いている。また、現代科学は、プラトン主義的な観点は単に単純な間違いに過ぎないことを示す証拠を提供していると彼は信じている。その論文のタイトルを「プラトン主義に死を」と彼は付けている。

「もし、数学がこの純粋なイデアの王国を認知することであるのなら、数学をすることは、私たちの脳になんらかの仕方で物理的世界を超えたところに到達することを要求する。Daviesは、脳の画像化(イメージング)(brain-imaging)研究は、この信仰を次第に本当らしいものではなくしていると、彼は指摘している。私たちの脳は、視覚の様々な多くの側面を記憶や先入観と統合し - 錯覚が明らかにするように常に正しく創造するとは限らないが - 単一のイメージを創造する。彼は、また、脳のイメージング研究は、私たちの数の感覚の生物的基盤を示し始めているとも言う。

「しかし、ニューメキシコ大学の Reuben Hershは、こうした研究が数学を理解する直感的能力のプラトン的概念を論理的に打破するとは信じていない。にもかかわらず、彼はプラトンの観点を拒絶する。そうではなく、数学は人間の文化の産物であり、根本的に音楽や法律やお金のような他の人間が創った創造物と異ならないと主張して。


[] ◆イタリアフランス翻訳者たち◆


 ◆イタリアフランス翻訳者たち◆

 12世紀にイタリアフランスは、数人の優れた学者を生み出しました。彼らのアラビア語の知識と数学への好みは、イスラムギリシア文明の様々な古典をラテン世界に知らしめることになりました。

 これらの翻訳者の中で最初の人物は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)あるいは、プラト・ティブルティヌス(Plato Tiburtinus)と呼ばれる人でした。彼は、1120年頃の人で、アルバテニウス(Albategnius)(アル・バッタ
ーニ(al-Battani))の天文学、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、アブラハムバール・キイア(Abraham bar Chiia)(1120年頃)の Liber Embadorum その他占星術に関する様々な著作を翻訳しました。

 この頃、シチリア島も、ギリシアやアラビアの著作の翻訳が活発でした。こうした学者たちの注意を引いた論文の中に、プトレマイオスの「アルマゲスト(Almagest)」があります。そのアルマゲストは、1160年頃、以前にシチリアの学者によってコンスタンチノープルからパレルモにもたらされたギリシア語の写本から、名前不詳の翻訳家によってラテン語に翻訳されたものです。

 何年か後、ゲラルド・クレモネンセ(Gherardo Cremonense)、すなわち、クレモナのゲラルド(Gherardo of Cremona)(1114-1187年)が、イタリアで、それからスペインで学び、トレドではアラビア語を学びました。彼だけでなく他の多くの中世の、またずっと後の科学者たちにとって、占星術が、医学数学とを加えた総合学(ネクサス)となったように、彼の関心は、その3つの分野すべてにありました。

彼は、様々な数学及び天文学の著作をアラビア語から訳し、その中に、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」「ダータ(Data)」、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、メネラオスの著作、プトレマイオスの「アルマゲスト」が含まれています。その「書物への愛のため」彼はトレドに旅をしています。


[] ◆フランスのマニエリスト◆


 ◆フランスのマニエリスト◆

 イギリス作曲家たちは教会音楽に集中していたからでしょう、洗練され複雑が増していっても、イギリス音楽は、マショー後のフランス人によって到達された極端に複雑なリズムには決して近づきませんでした。宗教音楽は、今や、どの地域でも世俗のものよりシンプルになる傾向がありました。

マショーの影響下現れた作曲家たち - F.アンドリュ(F.Andrieu)とマギステル・フランシスクス(Magister Franciscus)(同一人物であったかも知れない。)、ヴェラン(Vaillant)、キュヴリェ(Cuvelier)、スセ(Susay) - は、様式において最も近く、同じ形式、バッラーダ、ロンド、そしてそれほどではないがヴィルレを培ってき ました。

しかし、彼らは、特に最も高いパートでは、流れるようなカンティレーナを好みました。事実、旋律的な上声部は同じく宗教音楽にも侵入し始めます。アプト写本(Apt Codex)には、10の三声の讃(美)歌があり、そのうち9つで最上部に単純で少し装飾された典礼の旋律があります。

しかし、マショーの死の前に、すでに非常に異なる傾向が始まっていました。バッラードなどと同じ形式が、より短い音価に分割、再分割され、アペル(Apel)が「マニエリズムに堕した」と適切に説明した複雑な記譜の革新を同様に必要としたリズムやクロス・リズム(cross-rhythm)の精巧な技法によって複雑化していきました。

「音楽の記譜法が音楽の召使いとしてのその自然の限界を越え、むしろその主人、それ自体が目的、知的詭弁のための活動の場となっている。」この「マニエリズムに堕した」様式は、その多くが、フォァの伯爵(Count of Foix)のガストン・フェビュ(Gaston Phebus)(1392年没)、ベリー公爵(Duke of Berry)の有名な芸術鑑定家ジョン(1416年没)、そしてアラゴンのヨハン1世(John I)のような皇子に仕えたり、作品を捧げたりした作曲家によって実践されました。もう一人のパトロンは、教皇クレメンスVII世その人でした。