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DJホームラン

151217

YELLOW DANCER

人間の様々な営みの本質を突き詰めていくと、最終的には生と死と性という三つの概念に凝縮される。星野源の『YELLOW DANCER』を繰り返し聴いているうちにそういう考えに至った。


星野源が自ら執筆したライナーノーツには「今までは、どこか彼岸に向けた歌が多い自分でしたが、このアルバムは今を生きるあなたに向けて作りました」と書かれている。これだけを読むと、あたかも彼岸に視線を向ける事から卒業したと言っているようにも思える。


しかし、本作『YELLOW DANCER』は彼岸をないがしろにしているわけでは無い。むしろ多くの楽曲において死別のモチーフや、死者に向けられたメッセージが頻出する。ただし、それらの要素には死を哀しむウェットさはまとわりついていない。


死によって何もかもが終わるわけではない。死者を葬った後も生きている我々の日常は続く。そういった日常の中で、今後間違いなく訪れる自らの死や、既に亡くなった人たちの死を強く認識する事。それは、今ここに在る自らの生を強く認識する事でもある。


周りの人々の死、憧れの人々の死、時に自らの側に訪れる死。それらを見据えて死者を敬い悼み、我々は今を生きて、踊り続ける。本作『YELLOW DANCER』は、此岸の生と彼岸の死、その双方を視野に入れながら、生と死のサイクルの中で一瞬一瞬の時を生きる我々にフォーカスを当てて作られている。そのため、死のモチーフを頻出させながらも、暖かな生命力に満ちた作品へと結実している。


そして性について。一曲を通じて艶かしい暗喩を紡ぎあげる「桜の森」を筆頭に、本作の多くの楽曲では性を連想させるモチーフが現れる。


性行為は、生命を繋ぐ重要な営みであると同時に、親密な関係にある人々が最もプライベートな時間を紡ぐ事でもあり、快楽の忘我の果てに死の断片を感じる行いでもある。種においても人間関係においても個人の感覚においても重要な意味を有する多面的な行為であり、生と死の本質の片鱗に触れる行為でもある。


星野源が、そして彼が参照してきたであろう多くの音楽家たちが性について歌う際、官能と同時にある種の切実さが漂っている事に注意を払わなければならない。彼らは性を歌う事を通じて、生と死の本質にアプローチしている事を本能的に認識しているのだろう。


生と死と性。


生きて、今の我々の針を回す。時に性的な行為を交わして次の君へのバトンを繋く。いつかはそこから降りて死ぬ。


そのサイクルに特別な意味なんてない。意図だってない。ただ全ては過ぎていく。それでも私達はずっとずっと何千年何万年と呆れるぐらいの年数を繋がり続けている。その途方もない事実の尊さを知り、歓びの踊りを捧げるように生きていく。そのダンスステップを踏む我々こそがYELLOW DANCERである。


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楽曲面に若干ながら触れておく。


ハマ・オカモトのベースのセクシーな躍動と、その躍動を緻密に制御する河村カースケのスクエアなドラムが構成するグルーヴ感が本作のムードを象徴している。多くの曲でタッグを組む彼らの生み出すグルーヴは快感を一定の域まで高めたまま、絶妙に維持し続ける。


彼らリズム隊に限らず、本作の多くの曲ではテンションを絶頂まで高まらせるのではなく、グルーヴのうねりをゆっくりと引き伸ばす演奏が多く見られる。


そして、そんなグルーヴのゆっくりとした蠢動を抱きしめるように艶やかなストリングが響き渡り、星野源のハスキーとファルセットを巧みに使い分ける歌声が音像をかき分けて放たれる時、そこに柔らかな官能が生まれる。この官能性も本作を特徴づける大きな要因だ。


一聴するとシングル曲の派手さに気を取られるが、繰り返し聴き込むうちに「ミスユー」、「Soul」、「Snow Men」といったスロウな曲達こそに本作の真髄とも言える魅力が詰まっている事に気付かされる。


そして白眉がラスト前の「夜」。朝と夜の隙間から世界に向けて敬虔な祈りを捧げるこの曲の存在が、『YELLOW DANCER』のアルバムとしてのスケール感を大きく高めている。

150628

マッドマックス 怒りのデス・ロード

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まず、本作を観て感じた事を、できるだけ率直に文章化します。




うおおおおおおおおおおおおおおおおおお。

金字塔が立ったぞ!








以上で言いたい事はすべて言い尽くしたのですが、一応もう少しだけ書きます。本作はジョージ・ミラー監督による『マッドマックス』シリーズの27年ぶりの最新作だそうです。前作を観ておく必要は特に無いでしょう。私は、数日前に予習のために一作目だけ観たのですが、別に観ても観なくてもどちらでも良かったなと思っています。


既に巷間で大いに騒がれているように本作の一つの肝となるのは活劇描写の凄まじさです。爆風と火花と弾丸と鉄塊と人体を大画面いっぱいに撒き散らしながら映画は轟音と共に疾走します。血煙に彩られた、改造車と武器と曲芸の饗宴。ジョージ・ミラー監督の壮大な妄想と美学が、映画の活劇表現の極点を目指してフルスロットルで爆走します。今まで想像すらできなかったエクストリームな画の数々に、イマジネーションの凡人である私は終始圧倒されました。


そして本作を特別な作品たらしめている最大の要因は、極限までボルテージが高められた作品でありながら、ジョージ・ミラーがこの一大活劇を徹頭徹尾、冷静にコントロールしきっている点です。漠然と撮られたようなカットがまるで無く、あまねく全てのカットが映画を前進させる意図に満ちています。できるだけ言葉に頼らずに豊かな物語を紡ぐために、画面の隅々にまで情報が詰め込まれた膨大なカットを、観客が意図を理解できる最短の距離、最速のテンポで繋ぎ合わせる力強くも繊細な編集力が発揮されているのです。


俳優陣につけられた演出の緩急の巧みさも特筆しましょう。絶叫しながら修羅場へと突入するハイな場面も印象的なのですが、無言で視線を交わし合うだけのカットや、ハンドルや銃を受け渡すだけのカットで、両者の間を繋ぐ関係性が変化した事や、物語が次のステップに突入した事が伝わるように撮られている所が、粋だし、巧い。そういった難しい場面の数々を完璧にこなしていたシャーリーズ・セロントム・ハーディー、ニコラス・ボルトのメインキャスト三人も見事でした。


作劇も実に周到なものでした。物語の大枠は単純な「逃走と追跡」、「行きて帰りし物語」という二本の極太の縦軸で貫かれています。この二本の軸に物語を猛スピードで推進させる役割を託しながら、背景では、封建的な権力制度への批判、そのような制度下で抑圧される女性や子供等の弱者に注がれる力強い愛と鼓舞による救済という主題が描かれます。この主題の描き方も、言葉を押し付けがましく弄するのではなく、一つ一つのカットの画作りと活劇の積み重ねによって自然に浮き彫りにされる作法が取られていて、やはり巧い。


編集、演出、作劇における冷静さは、このとびきりエクストリームな死と暴力にあふれた映画に、どこか凛とした品の良さをもたらしていると感じました。過激だけれど、悪趣味ではないんです。その美意識を、この規模で、この速度で、この密度と濃度を保ったまま貫ききったジョージ・ミラー監督の魂の強度が、本作を映画の一大金字塔たらしめているのでしょう。


情報量がとにかく多いし、観ていて気が休まるシーンも片手で足りる程度しか無くて、後は全編これ修羅場といった異常なペース配分です。ずっと手に汗を握り続けていたものですから、観終えた時は心身ともに疲弊し尽くしました。でも、上映期間中にあと2回は観たい。


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ちなみに私は立川シネマシティの極上爆音上映(2D字幕)で観ました。観ていて、理性の上では「自分は今は映画を観ているだけ」だと分かっているのですが、本能レベルで命の危険を感じる瞬間が何度かあってとても良かったです。そして、最後になったけど、ギター男はベスト映画キャラクターオブザイヤー

150622

志村貴子『起きて最初にすることは』


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志村貴子は過去において幾度か、家庭内の性的な緊張感を作品の一要素として採用してきた。ほぼ全ての作品で描かれ続けている主題である精神的な負荷に晒された思春期の少年少女の逡巡と調和することが、この要素が頻出する理由なのだろう。そして、志村貴子が初めて本格的に手がけたボーイズラブ中編である『起きて最初にすることは』においては、義理の兄弟間の性的な緊張感を通して、この兄弟が直面する逡巡が描かれる。


単行本一冊分というコンパクトなボリュームでありながら、その逡巡の濃度は濃い。義理の弟に欲情する兄。ローティーンの頃から一緒に暮らす義理の兄弟同士であること。男性同士であるということ。この二つの障壁に阻まれた兄の情欲はどこまでものたうち回る。ひとたび壊れる始めると、取り返しがつかないことも、失われるものも多すぎる関係性であることを自覚しながら、それでも踏みとどまれず、理性と良心を殺すに至る兄。そして、兄の狂気に直面し続ける過程で、ノーマルの側に立とうとする感情と価値観の皮膜が少しずつ引き剥がされていく弟。クライマックスの、彼らが、その関係性を画する一線の上で対峙する場面は、志村貴子のキャリアにおいて最大の激情が炸裂する。


よしながふみ、雲田はるこ、ヤマシタトモコのようにボーイズラブの世界で名を挙げた後、一般向け漫画に進出する例は近年増えつつあるが、志村貴子のように、一般向け漫画で地道にキャリアを重ねて人気と実力を高めてきた作家が、デビューから20年近くに達したこのタイミングで、ボーイズラブに本格進出するというのは異例だ。しかし、実際に提示された本作において志村貴子は、過去作で育まれた様々なスキルを駆使しながら、男性同士の同性愛というテーマで無ければ、ここまでは踏み込んで描けなかったであろうエモーショナルな新境地の開拓という成果を挙げている。思春期の逡巡を描く事に長けた志村貴子の作家性と、同性愛というテーマは、『青い花』が示す通り、極めて相性が良い。本人もそれを自覚していることが、後書きにおける「これからもBLまんがを描いていきたい」という発言に繋がるのだろう。ボーイズラブであるが故に、手に取るためのハードルは些か高いが、そのハードルを超えるに値する意欲的な作品。


150607

鳥獣戯画


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雨の水曜日。午前7時30分の電車に乗った。

東へ向かうJRは三鷹を過ぎても中野を越えても新宿を経ても密度が下がらない。この時間帯に電車に乗る事も都心方面に向かう事も滅多にない生活をしているものだから、たまにこういう機会があると、いつも新鮮な気持ちで疲弊する。車内では殆ど身動きが取れないし、空間に余裕が無いから本を開く事もできない。せめてもの暇つぶしを頭上の吊り広告に求めるものの、週刊誌と金貸しと美容整形医の広告ばかりでうんざりする。混雑に加えてこの悪天候だ。乗客が持ち込んだ傘が放つ湿気が車内の不快指数を底上げする。


心身ともに湿気にまみれる電車を上野駅で降りて国立博物館へ向かった。到着してみると開館50分前の時点で既に数百人規模の行列ができていた。皆、落ち着いた服装で、落ち着いた態度を保ちながら、落ち着いた行列を形成している。私も落ち着いた32歳男性の顔でその行列に加わる。


雨のおかげで気温が上がらない事には助けられた。足元が水捌け良く整備されていた事もありがたい。結局60分並んだのだけれど、思っていた程つらくはなかった。行列は常に細かく前に動き続けているし、博物館の入口が常に視界に入るので、希望と期待を失わずにいられる。希望と期待さえ失わなければ60分は何とかなる。


そして入館した矢先に「甲巻 60分待ち」という表示が目に飛び込んでくる。一瞬ひるむが、今すぐ並ばなければ事態はさらに悪化すると判断して、二度目の行列に加わった。鳥獣戯画はまだ遠い。


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上野の国立博物館ではこの春、京都の高山寺に所蔵される美術品の展示が行われていた。一番の目玉が鳥獣戯画だ。


鳥獣戯画は甲巻、乙巻、丙巻、丁巻に分かれていて、今回の展示ではその全編が公開される。当然の事ながら巻ごとに展示位置は区切られている。そして、鳥獣戯画と聞いてイメージされる事が最も多い、擬人化された蛙や兎が登場する甲巻は大変な人気を誇っており、観客の大半はこの甲巻へと押し寄せる。そのため展示室内にもベルトパーティションが立てられて、甲巻を観る者はそこに並んで待つよう指示がなされていた。ちなみに他の三巻、乙、丙、丁も観客で賑わってはいるものの、これらは特に待つ必要もなく自由に観られるようになっていた。


私に課せられた待ち時間は60分。屋外に並んだ60分と合わせると合計120分。


短い時間ではない。しかし国宝のために捧げる時間だと考えれば許容範囲と言えなくもない。東京から名古屋まで移動する程度の時間だと考えるとそこまで大変な話でもない。例えば「名古屋に行った」という経験は、それだけでは何の糧にもならない。しかし「鳥獣戯画を観た」という経験は、何かの糧になるに違いない。そう考えるとこの120分は長くない。そうとでも思わないと行列には立ち向かえない。


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長い待ち時間の果てに甲巻に直面した時、まず驚いたのは目と鼻の先に終わりが見えている事だ。甲巻の長さは418センチメートル。畳を縦に二畳半並べた程度である。我々観客は、行列を少しでも早く消化しなければならない博物館員達から、立ち止まらずに鑑賞する事を指示されている。つまり、短時間で作品に耽溺しなければいけない。


息を鎮める。ぎりぎりまでガラスケースに接近する。画面全体を眺めるマクロな視点と細部を観察するミクロな視点を同時に働かせる。虚心に目の前の線に意識を集中する。少しでも体感時間を引き延ばそうと努力する。


それでもあっという間の出来事だった。およそ2〜3分程度で、甲巻の前を緩行する人間のベルトコンベアから、私はゆっくりと弾き出された。


物足りない。もっとじっくり細部に眼をこらしたり、場面を行きつ戻りつしながら、この巻物が描かれた八百年前の日本の光景へと想像を巡らせたかった。それなのに、ふつつかな私はつい「あの猫と鼠の場面だ」、「相撲が始まった」などと、眼前の実物を過去に本で観たシーンの記憶と照らし合わせる答え合わせに熱中してしまい、与えられた鑑賞時間をすぐに使い切ってしまった。


しかし、一定の満足は得られた、


平安鎌倉の人々を模して描かれたこの愛らしくも不敵な動物達は、長い年月を経た今でも多くの人々に大変な行列を作らせながら、ガラスケースの中で奔放に戯れ続けている。

彼らはまるで、私達を軽やかに挑発し続けているようではないか。

混雑する電車に乗り、屋外でも屋内でも何時間も並び、そうやってようやく辿り着く私たちの眼前にほんの一時だけその姿を披露する動物達。製作当初は恐らく同時代の人間のカリカチュアとして機能していたのだろう。しかし今、この時においては、動物たちの笑顔の矛先はガラスケースの前を蟹のようにゆっくり行進する我々であるように思えてならない。

鳥獣戯画は、八百年前から放たれる視線で、この国宝に惹き寄せられて振り回される現代の私達をも射抜いていた。そして恐らく今後も、巻物が物理的に存在し続ける限りは永遠に、鳥獣戯画は私達を射抜き続けるのだろう。永遠に続く営みの、その永遠の一端に触れられた事には満足している。


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乙、丙、丁はじっくり堪能できた。

動物大図鑑の様相を呈している乙巻も、人間そのものが戯れる姿を関節の動きに愛嬌を持たせながら躍動感豊かに描いている丙巻も、それぞれが甲巻とは別の魅力を発揮している。筆の運動性が前面に押し出された丁巻は、慌ただしさが好みではなかった。


この手の墨画を間近で観るという事の醍醐味は、筆が紙に入る角度、そこから流れていく軌道、形作られる構図を通じて、作者の美意識や思想をダイレクトに感じられる所にある。歴史の生の手触りが作品を通じて伝わってくるのだ。


そうやって感じる鳥獣戯画の手触りには、また格別なものがあった。

鳥獣戯画は、何故作られたのか、誰が作ったのか、どういう思いが込められているのか、どのような経緯を経て高山寺に所蔵されるに至ったのかといった背景が殆ど記録されていない。ただ、実物が、残り続けている。

作品として外部の物語を求めずに独立する特異性が、愛嬌のある動物や人間達の背景に佇んでいる。愛嬌のある造形に、21世紀の私の情動が動かされる時、そこには外部の物語を媒介としない極めて純粋な共感が数百年の時差を超えて生じている。胸中に生じる共感を愛でよう。それは歴史を肌で識る事であり、過去から現在に連なる私達の文化の髄に触れる事である。


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鳥獣戯画をひと通り観終えた時点で既に正午に近く、体力も消耗していたので、今回の展覧会のもう一つの主役、高山寺の各種作品群は大雑把に眺めるだけにとどめた。その時間になると行列は膨れ上がり、入館までの館外での待ち時間は60分、館内における甲巻の待ち時間は180分に達していた。「 自分だったら、その待ち時間を提示された時点で心がくじけていただろうな」と思いつつ、購入した大判の図録の重みを肩に感じながら、雨足が弱まり雲間に日が射し始めている上野を後にした。

150601

Obscure Ride

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最初に大切な事を話そう。

俺はceroの新作『Obscure Ride』に、2015年の俺の夏のすべて捧げても良い。それぐらいこの作品に惚れ込んでいる。


次に、反省したい事を話そう。

初めて『Obscure Ride』を聴いた時の事だ。

様々な黒人音楽の意匠を精緻に再現した音の創り込みの深さに、数多のポピュラー音楽の巨人達と同じ地平に立たんとする志の強さに、俺と同世代の若者達が自主自律の活動を通じてここまでの境地に達した事に、心が震えて仕方なかった。その震えを自分の心の中だけに抑えきれず、Twitterにも呟いた。「Obscure Rideを聴きながら過ごせる今年の夏は最高の夏になるに決まっている」。


反省したい。

この発言は、『Obscure Ride』があたかも夏の盛りを鮮やかに彩る素敵な作品であるような誤解を産みかねないものだった。そして正直に言おう。俺はこの時点では本作を「夏の盛りを鮮やかに彩る素敵な作品」という捉え方をしていた。本作に内在する強い喪失感に絡め取られた今となっては考えられない捉え方だ。


『Obscure Ride』では全編を通じて二つのイメージが繰り返し提示される。一つはパラレルワールド。もう一つは忘却だ。


曲ごとに異なる登場人物達は皆、自分達が住んでいる世界とは別の世界の気配を、死や呪術の匂いと共に感じ取っている。

此岸と彼岸の境界線の妖しい明滅を感じている。

境界線を明滅させるのは、忘却された記憶の残滓だ。

こちらの世界を生きる中で、彼らはあちらの世界での出来事を忘れる。しかし、忘れても、心の底に澱のように失われた記憶の残滓が溜まり続ける。何かの弾みでその残滓が心に波を立てた時、彼岸の影は、此岸との境界線を超えてこちらへと伸びてくる。そのような不安定な状態を、不安定なままに言語化する離れ業が、本作の歌詞において次々と繰り出されている。


主に作詞を手掛ける高城晶平が『Obscure Ride』で紡いでみせた物語は、情景を豊かに喚起させる言葉が費やされている一方で、重要な部分を聴き手の想像に委ねる余白も多く確保されている。だから、聴くたびに俺の胸中で物語は更新される。更新され続ける。そのような聴き方をしているうちに、聴き手である俺自身の記憶の中に『Obscure Ride』の物語の思い出が侵食してくるのだ。


飲み干したショットグラスを床に叩きつけた記憶。砂漠の地平線の彼方を臨んでいた記憶。地下鉄の手紙から砂をこぼした記憶。雨の中で傘を差さない人々に出くわした記憶。おろしたての靴でダンスパーティに出かけた記憶。白夜の海で泣く少女を見た記憶。Rojiの窓から流れる空気を感じていた記憶。街の夜をもたらす闇に巨大なまなざしを感じていた記憶。台風前夜の低気圧の中で荒れた庭園を見下ろしていた記憶。運転中に眠気に負けた記憶。


これらの記憶が、『Obscure Ride』という物語と俺という現実の間の皮膜を超えて侵食してくる。実際、歌詞で描かれるこれらの情景の幾つかは、俺自身が本当に体験してきた事ともシンクロするのだから事態はいよいよ厄介だ。


俺は『Obscure Ride』を聴きながら、自分の中には存在しない思い出を失った感覚を抱く。

歌詞の中の登場人物達が、忘却した記憶の残滓に胸をちりつかせているように。

だから毎回アルバムを一枚聴き終わる度に胸中に疼痛を伴う喪失感を抱いている。同時に、それだけの感情の揺さぶりを与えてくれるceroへの最大限の敬意を新たにしている。


そんな喪失感に絡め取られながらも聴き続けている。前述したように『Obscure Ride』の、一聴しただけで心が強く揺さぶられる魅力に惚れ込んでいるからだ。


本作は、俺が思う所のソウルミュージックの最良の形を示している。

ソウルミュージックの本質は、聴き手の、身体と心の両方に密に寄り添い、揺さぶってくる部分にある。

身体を心地よく揺さぶる多彩なグルーヴ。

心を切なく揺さぶるエモーション。

双方が調和しなければならない。

黒人音楽特有の律動するリズムを体現する一方で、歌詞によって胸の深い部分にまで揺さぶりをかけてくる『Obscure Ride』は、グルーヴとエモーションの高次の調和を実現している。

特に、テンポの早遅やリズムの密度に左右されず、どのような曲調であっても、少しずつ、そして確実にグルーブの熱を高める演奏が貫徹されている点には刮目したい。この卓抜した演奏の並走を欠いていたならば、『Obscure Ride』の物語は、ここまで俺に響く事は無かった。


繰り返す。俺は『Obscure Ride』に、俺の2015年の夏を捧げる。

5年後、10年後、20年後。

未来において2015年という年を思い返す時、そこには「Elephant Ghost」のアフロビートや、「DRIFTN'」のフルートの音色が添えられる事だろう。

『Obscure Ride』というパラレルワールドの記憶を俺は決して忘却しない。忘れられるはずないだろう?


Obscure Ride 【初回限定盤】

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