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茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。 Twitter

2010-09-30 花束 このエントリーを含むブックマーク


ひつじ書房でアルバイトしていた元学生さんが20周年のお祝いと言うことでお花を持ってきてくれた。今はしっかりした社会人。

結婚の報告。おめでとう。

相手は、やはりひつじでアルバイトしていた元男の子。今は、りっぱな社会人。

彼のお父さんは遠洋船長で、小学生の頃、無線(CQCQ)でお父さんと話しをしていました、といっていたのが懐かしい。

彼女が、ひつじに来たのは2003年の1月であった。大学1年生。7年前だ。

思い出そうと思ったのだが、ずいぶん過去で記憶があやふや。

2010-09-29 日本語教育学会パネルついて このエントリーを含むブックマーク

この秋の日本語教育学会パネルについて、コメントします。


次のパネルであるが、菅正隆という方と大津先生を同席させるというのは何か考えが合ってのことなのだろうか。菅氏は、もとは文部科学省官僚であり、小学校英語教育の推進者と聞いている。一方、大津先生は小学校での英語教育導入に反対の立場であった。


パネルはいろいろな立場の方がいてよいわけであるが、話しが複雑になるのではないか?


私は日本の言語教育が迷走する理由として、3つあると思っている。


  • 1 国民レベルで言語教育政策に無関心
  • 2 現場の教師たちから言語教育についての発言がない
  • 3 文部科学省が政策を頻繁に変える

この中でも3が大きいと思う。とすると菅さんの言語政策の方針については大いに異論があるわけで、ケンケンがくがくするのが目的ならいいが、もし建設的な議論をするのなら、かなり無理があると私は思うのだ。


主催者は、小学校で英語教育を盛んにして、外国語としての日本語教育も小学校からしっかりやろう、という方向に話しを持って行きたいと思っているのだろうか。そのような考え方もあり得るが、かなり極端な意見ではないだろうか?そういうのとは全然違うのか?


私は、日本語教育を国語教育と協調するように、教育政策を変更することが望ましいと思っています。平田さんの考えに近くて、言語技術教育と言葉の芸術教育にするのがよいのではないかと大筋考えています。文学教育をレトリック教育よりにするとしたら、もしかしたら、言語技術かも知れませんし、美的・表現的レトリックであるのなら、言葉の芸術教育でしょう。いずれにしろ、教育政策をどう決めるのが理想的であるのか、ということそのこと自体をどう作り出していくかという戦略的な側面も重要でしょう。文科省がいろいろとトレンドを作って、学校や大学の現場が混乱すること自体容認できることなのかどうか、というところから議論しないと。


戦略的に考えると細川先生たちのパネルもどうもいまさらという気がします。10年一日。国立大学留学生センターが廃止の方向になっている今の時代に現実的なテーマなのかどうか。教師たちが教えない教えないと言っていたら、職場はなくなるでしょうから。すいません、勝手なことを言って。聞いてからちゃちゃを入れるべきですよね。


そもそも、どれを聴きに行こうか、あるいは聞かないか。私は、教えない的な立場の発表については、教えない派の総帥の弟子にひどい目にあったので、ネガティブに受け止めてしまうのです。


私は、人文科学系の過剰な自己批判的研究には否定的です。都立大学文学部がなくなったようなことを自ら招くのはどうでしょうか、という立場です。社会学は残りましたが、文学研究と言語研究は極度に削減されてしまいました。


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日本語,国語,外国語教育の連携・協働と言語教育の将来について展望する

  • 複合領域としての日本語教育の発展と応用を目指して-

野山広(国立国語研究所), 井上一郎(京都女子大学大学院),

菅正隆(大阪樟蔭女子大学), 横溝紳一郎(佐賀大学),

大津由紀雄(慶応義塾大学)

2010-09-28 桂川連理柵 ちょえもんさんが このエントリーを含むブックマーク

桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)を見に行きました。9月の第1週でした。


私が今文楽にはまりつつあるというのと、花季藤子先生にいま端唄を習っているのですが、「お伊勢参り」でちょえもんさんがという桂川連理柵を題材にしたところがあるので、どういう話しかなと思いまして、この9月にやるというので国立劇場に行ってきました。(芸事には詳しくないので私がおかしなことを言っていても藤子先生のせいではありませんことをお断りしておきます。)


端唄は、当時の流行歌ですが、当時の教養の相互作用なんですね。他の芸能のトピックを唄に組み込むんですね。流行歌と入っても、ラジオから流れてくるのではなくて、流行れば唄うわけです。端唄のちょえもんさんは、悲劇と言うより少し暖かい視線が送られています。可愛いこどももできちゃって、のような感じで心中モノという悲惨さは感じられません。それが端唄のおおらかなところでしょうか。


見たのは国立劇場ですが、長い間見続けている方がいるのですね。始まる前、となりに座っている女性が、桂川がはじまったら私は帰っちゃうからとそのとなりの女性と話しをしていました。その方は、その日の太夫と三味線方はその方のお半ちゃん像に会わないので帰っちゃうと言うのです。凄いですね。役柄の方が好きだとは。いくつものバージョンを見ているのでしょう。


しかし、その発言が耳にこびりついて、先入観となってしまいました。そういう批判的な目で見ると物足りないなあと思いました。お半ちゃんはもう少し危険な、危なっかしい感じがあった方が良かったように思います。14歳の子どものような小娘が強引に恋を実らせて、そのお店を任せられているような成人男氏を結果として破滅させますし、ちょえもんさんも、意識しないで小娘に惚れられてしまう、まじめな商売人の中に隠されている何かというようなものがあって、こっちも危険な男としての魅力があるはずだと思うのですが、あまり感じられないように感じました。人形遣いではなくて、太夫と三味線の方が微妙さが不足していると感じました。文楽を聞く、見る耳も目もまだまだなので、これは仮説です。他の方が太夫と三味線人形遣いをされている時に改めて見に行きたいと思います。


文楽初心者として、となりの女性のことばに影響されてしまったのかも知れません。最後の道行きは、何本も並んだ三味線も壮観でかつ音も良かったし、悲劇感がでていて、凄いなと思ったのですけれども。

2010-09-24 津々浦々まで学校を作ったこと このエントリーを含むブックマーク

これは調べたいことですが、私のちからでは調べきらないので、思いつきとして。

明治期に、津々浦々まで学校を作ったのはどんな熱情に促されてのものだったのだろう。

日本を軍事大国にしたかったから?

日本を近代国家にしたかったから?

日本を教育国にしたかったから?

日本を富国強兵したかったから?

長野の山奥、北海道の山奥まで。でもそれはどうして?

結果として津々浦々まで学校ができたわけです。それはどうしてなんだろうか?

軍事大国にしたいのであれば、別にもともと栄養のいい、都会か少し田舎くらいに住んでいる農民を選んで特訓すればよくて、山奥まで学校を作り、教師を派遣するということをしなくてもよかったのではないか。山奥に学校は必要ない、と言ってもよかったのではないか?

軍事大国にしたい、近代国家を作りたいというのはあくまでスイッチで、なにか不明な情熱があって、その情念を加速したのが、ナショナリズムであったり、国家主義だったのではないか?

よく学校は人々を兵隊になるようにトレーニングした、行進や起立礼などの身体的な習慣を教え込んだというが、それはそうだが、富国強兵するためよりも何か過剰なものがあるように感じる。学校制度は人間を画一化して、兵隊にするための制度なのだから、というような批判をすることがある。じゃあ、学校制度を弱めればいいのか。国文学は、日本の国を敬うようにしくんだ、イデオロギー教育なのではないか、などなどというが、そこにはずれがあるのではないか?

国文学を教えなければ、愛国心は生まれずに、社会的にバイアスのかかった社会が生まれないので万々歳だというのは自己批判として何かがずれているのではないか。国文学、学校、教科書、書籍、新聞が近代国家を作る際に大きな機能を果たしたであろうが、それを解体すればいいのか、どうなのだろうか。

2010-09-16 須原屋市兵衛ではなく嵩山房小林新兵衛のような このエントリーを含むブックマーク

浅草善龍寺に墓参りに行ってきました。

須原屋市兵衛だと思っていましたが、碑名を見ると「嵩山房」と書いてありました。

気になって、ネットで検索してみると違うようですね。

須原屋市兵衛ではなく嵩山房小林新兵衛のような。

調査は、続行です。江戸の学術出版の雄を顕彰するための旅は続きます。



2010-09-14 考古学協会の図書のイギリスへ一括寄贈の話し このエントリーを含むブックマーク

考古学協会の図書のイギリスへ一括寄贈の話しが、1昨日の東京新聞の夕刊に書いてあった。

考古学だから、あちこちで発掘調査が行われ、発掘調査が行われると報告書が作られる。その報告書が考古学協会に寄贈されてきたが、過去には市川市立市川考古博物館に保管してもらっていたのが、場所がなくなって、その保管場所を探していたところ、国内で引き取り手がなく、イギリスのセインズベリー日本藝術研究所(Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures)に一括して寄付することにした、ということに対して、当然だと思うけれども、せっかくの資料を海外に送ってしまうのはどうかということでいろいろもめている、というようなことであった。

しかし、市川考古博物館が満杯でどうするかということは、すでに2006年に議論されてていて、それなりの手続きを経て、セインズベリー日本藝術研究所への寄贈は決まっているということではあるようだ。

そもそも、驚くべきなのは、考古学のそういう蔵書を保管する国家的なアーカイブの機関がない、ということ。そして、長い伝統を持つはずの考古学協会が、政治的な無能ということなのか、そういう国立機関を作らせてこないで、市川市という千葉県の一市町村の好意で保管するという状態に甘んじていた、ということだ。

歴民博とか、そういうところに保管してもらうことはできなかったものか。あるいは大阪の民族博物館であるとか。

東京新聞を読んで初めて知ったわけだが、考古学協会のウェブサイトをみると随分前から問題になっていたようで、考古学という公共性のある研究ジャンルの存在の問題が、たまたま東京新聞を見ると言うことでしか、その問題に知り得ないということに愕然としてしまう。

考古学協会に政治力を持った学者がいなくて、文科省文化庁にそういう施設を作らせることができなかったということなのだろう。あるいは、調査報告書については本当はみんなうんざりしていて、多くの人は散逸しても構わないと思っていると言うことだろうか。とするなら、これは図書館業界の無関心の問題なのかも知れない。

報告書を受け入れる場合に1冊1万円とか受け取り料をとって、それで施設を作るなり、運営するということでも良かったのではないだろうか。発掘には予算が付くわけなので、その報告書作成費に寄贈経費という項目を作ればすむ問題ではなかったか?関係者でもないものが推測で書くのはよくないと思うけれども。

2010-09-13 OpenDoc・オープンドックを電子書籍アプリに このエントリーを含むブックマーク

20日に「電子時代におけるコミュニケーション研究成果発表の形態」で、私も少し話しをすることになっているので、話す内容の下書きを書いています。



研究論文あるいは研究雑誌および学術書を電子化する場合に、単にInDesignでページを組んだのを、PDFにはき出すというのではあまりにも芸がない。せっかくなのだから、紙の論文でできなかった機能を入れる方が面白いし、意義も感じられると考えると実際に、経営学であればシュミレーション機能が組み込まれていて、発表者が書いた主張をその場で検証できるとか、ダンスの研究なら、ダンスの動画、ある視点から見た動画、それを研究分析に必要なスピードで再生できること、などなどの機能が重要になるだろう。

こういう機能は、研究ジャンル、研究テーマごとに違っている、違っているのであれば、それぞれ必要な機能を組み込める必要がある。組み込めるようなブラウザー・閲覧アプリということを考えた時に、ふと思い出したのが、オープンドックだったのです。今回のブログのテーマは、動的論文論文の方ではなくて、それを閲覧できるアプリケーションの話しです。


Appleなどが、だいぶ以前に「オープンドック」というソフトの形式を提案していた。結局、それは受け入れられることがなかったのであるが、電子書籍アプリにオープンドックの仕組みがあるといいんだけどと思う。

オープンドックは、表計算とか集計とか動画再生とか、作曲ソフトとか、機能ごとに別々にパーツ化して、その人が必要な機能を組み込めるようにしようという考え方であった。


たとえば、ワープロソフトに動画再生機能を組み込むとか、作曲ソフトに表計算機能を組み込むとかそういうことができるようになるというものだ。


電子的論文についてのワークショップに参加するのだが、ワープロソフトに動画解析ソフトというパーツあるいはコンポーネントを組み込むとかできれば、研究者や研究論文を読む読者には有益だろう。


そうすれば、たとえば、Appleが用意した電子書籍を読むアプリに自分にとって必要な機能を後から組み込むことができる。あるいは使い手が選択した決裁処理の機能を付けてくれれば、売り手側の押しつけではなく、作り手がカスタマイズできるというものだ。


http://www.jiten.com/dicmi/docs/o/8857s.htm



ネットでOpenDocと検索したら、JustSystemの「xfy」が考え方として共通するものがあるという発言があった。そうかもしれないが、とすると不吉なのかもしれない。xfyが売れなかったおかげで創業者浮川氏はJustSystemを追い出されたから。

ジャスト、企業向けXMLアプリフレームワークxfy Enterprise Edition 1.5」を発売

http://japan.zdnet.com/news/software/story/0,2000056195,20345251,00.htm

2010-09-08 ネットに接続しないと読めないモノを書籍と呼べるか このエントリーを含むブックマーク

ネットに接続しないと読めないモノを書籍と呼べるか



Kindleは、kindleダウンロードした後にkindleで読むことができる。いったん、ダウンロードした後は、ネットは必要がない。これは、iPadアップルのiBookstoreで買った書籍も同様でしょう。



しかし、ネットに接続した時にだけ読めるモノは書籍と呼ぶべきなのだろうか。あるいは一時的にキャッシュされて読めるとしても、キャッシュは一時的な記憶のはずであるので、キャッシュがなくなったら、再びネットに接続しないと読めなくなるとしたら、それは元になくて、サーバー上にあるということになる。これを書籍と呼べるか。



大学の研究室で学術論文図書館サーバーに接続している時だけ読めるというやり方もある。これは、書籍か。手元のマシンにダウンロードできなくて、「所蔵」していると言えるだろうか。ネットワークに入っていなければ読めないのは、「所蔵」しているといえるか?



資料と呼ぶべきではないだろうか。




どうなんだろう?

2010-09-07 紙がメディアということでは、ディスプレイとかわりがないか。 このエントリーを含むブックマーク

紙がメディアということでは、ディスプレイとかわりがないか。


私は違うと思う。


紙はメディアではあるが、ディスプレイと同じではない、と感じる。


紙でできた物理的な本には

電子的なバックアップなしに、場所占有する

電子的なバックアップなしに、書き込める

電子的なバックアップなしに、本棚に入れることができる

電子的なバックアップなしに、積むことができる


これらのことから、2次的に

人にあげることができる

 →同じものを共有することはできない

人に売ることができる

 →2回同時に売ることができない

ライセンス処理のための特別なデバイスが必要ない

 →ただし、古本屋さんが2次的に売ることができる

 →サーバーなどを持っていなくて、商売ができうる

取次、書店、図書館という物理的な場所・空間が必要となる

これを無駄で面倒で不要なモノと考えるか、どうかということによる

もし、無駄と考えるのなら、電子で万歳である、何の問題もない。

公共的な感覚、つながり、連続はどのようにできるのか、ということを考えると電子と紙の本と両方あった方がいいというのが、適当な考えだと思う。

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