ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』より

アクシデント 事故と文明

アクシデント 事故と文明

「序」から。

 アリストテレスの言うように「事故[=偶有性]は実体を露にする」としたら、「実体」の発明は同時に「事故」の発明でもある。それゆえに、難破とはまさに船舶の「未来派的」発明品だし、墜落は超音速機のそれだ。チェルノブイリ原子力発電所のそれであるのも全く同様だ。
 ここで最近の歴史を見てみよう。二〇世紀が、偉大なる壮挙−−人類の月着陸−−や、情報科学や遺伝学は言うに及ばず、化学や物理の偉大なる発見の世紀であったのに対し、その分、二一世紀が、さまざまな惨事からなる、これら隠れた産物の収穫を溜め込んでいくことになるのは、悲しいかな、当然のように思われる。惨事の繰り返しが、明確に捕捉可能な歴史的現象となるほどなのだから。
 この点で、またヴァレリーに耳を傾けよう。曰く、「道具は意識から消えていく傾向がある。その作動は自動的になったと日常よく言われる。ここから引き出すべきは、次のような新たな方程式だ。すなわち、意識は事故があってはじめて目覚めるというものだ」。
 こうした無能ぶりを確認した結果として、次のような明確で決定的な結論に達する。「やり直しや反復が可能となったものはすべて、おぼろげとなり、黙り込む。機能はもっぱら意識の外にある」。
 一八世紀の産業革命の公然たる目的が、まさに規格化された物(機械、道具、乗り物……)、すなわち、罪多き実体の複製であった以上、一九一二年のタイタニック号から一九八六年のチェルノブイリ、またセヴェソ事件や二〇〇一年のトゥールーズ事件に至るまで、二〇世紀が実際に「事故の量産」に見舞われることになったのも今日から見れば当然だ。
 したがって、極めて多様な大惨事の連続発生は、大発見や技術上の大発明がもたらした陰の部分となったのであって、受け入れがたいものを受け入れない限り、すなわち今度は事故が自動的なものになったと認めるのでもない限り、二一世紀の初頭という現在において、「知性の危機についての理解」が急務なのは火を見るより明らかだ。エコロジー(E'COLOGIE)はその臨床的症状だし、近い将来には脱工業化的終末論(ESCHATOLOGIE)の哲学が現れることとなろう。