雨音につつまれてーミルトスの雑記帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


ふくしまの海

by いらくさ
  • 反原発デモが日本を変えるー柄谷行人
  • 放射線防護機能ー『亜鉛の機能と健康』より
  • 放射線の影響と亜鉛とアラキドン酸、そして植物の奇形
  • 過酸化脂質と銅、亜鉛、そして放射能汚染
  • 活性酸素と放射能とニキビ、そしておできの出来た鳥
  • アトピーとの闘いまとめ編(ティートリーではなくラベンダースピカで)
  • 『メダカが田んぼに帰った日』と、太陽光パネルのせいで生き物が生きていけな〜い!
  • 磁気を帯びた火山灰は原発を機能停止させる?!川内原発再稼働反対!
  • ブログ「風の谷」再エネは原発体制を補完する新利権構造
  • 再稼働反対、高浜は廃炉に!
  • 放射線問題と細胞環境維持への提言
  • ここ(↓)に書いていることは私の思考過程のものですので、間違った記載があるかも知れません。

    2017-02-24

    NHK「ためしてガッテン」で薬の宣伝?しかも問題ありの内容で!











    2017-02-23

    倉茂義隆様、写真集『43年の夢』をありがとうございました。


    f:id:myrtus77:20170223095457j:image

    倉茂義隆写真集『43年の夢 ふるさと栃尾の日々日本カメラ社)


    倉茂義隆様、素晴らしい写真集ありがとうございました。
    手紙でお礼をと思いましたが、しばらく後になりそうですので、取り急ぎブログでお礼をと思いました。
    私はフェイスブックをやっておりませんので、フェイスブックに伺うことができませんでした。

    2017-02-22

    「あるがまま」という言葉

    「あるがまま」という言葉は、遣うにしても聴くにしても注意が必要な言葉だろう、と私は思う。

    「あるがままの姿で主の前に出る」、これは良い。というより、どんなに取り繕っても装っても、主の前にあっては意味がないと言える。

    「あるがままで私を救ってください」と主に懇願しても良い、と私は思う。
    しかし私達は、「あるがまま」で救われるわけではない。
    「あるがまま」では救われないから、キリストが身代わりとなって十字架を負われたのだ。


    こうして、神は、キリストイエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(エフェソの信徒への手紙2:7~9)

    2017-02-21

    遠藤周作『沈黙』を巡って


    ● 『私たちは怖れていない(Women’s March)』と映画『沈黙』
    遠藤周作小説沈黙」を、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などのマーティン・スコセッシ映画化したもの。題材が宗教ということで『抹香臭かったら嫌だな』と思いながら、期待しないで見に行ったんですが、これがこれが、大変面白かった。
    (中略)
    お話はキリスト教がどうのという話にとどまりません。(中略)愛を説く神父としてはキリシタンたちに踏み絵に応じるよう勧めるべきではないのか。自分たちが日本に来たからこそ、多くの人が弾圧を受けるのではないか。
    (中略)
    この映画テーマ宗教だけじゃない。世界中の誰にでも当てはまる普遍的なお話です。自分の信念と社会とのぶつかり合いは、自分社会の中でどうやって生きていくかってことにもつながります。これってサラリーマン専業主婦兼業主婦学生も、我々みんながぶち当たる問題ですよね。この映画は1宗教に過ぎないキリスト教を題材にしながらも、誰にでも当てはまる命題昇華させることに成功しています。(抜粋引用


    信仰者であった遠藤周作小説沈黙』の中で犯した過ちは一つだと私は思う。それは、キリストに成り代わって司祭に赦しの言葉を告げたこと、だ。
    しかしこの過ちは、牧師礼拝説教の中で犯すかも知れない過ちなのである。聖書に則さないで神に成り代わって赦しを宣言するなら、あるいは逆に裁きを言い渡すなら、それは遠藤が『沈黙』の中で犯した過ちと同じものになる。どちらの過ちが重いかは知らない。多くの人に広く読まれる小説の中で犯した過ちが軽いとは言えないかも知れない。しかし・・。

    私の属する教派の長老の務めには、「教理を擁護する」というものがある。「教理を擁護する」とは、牧師聖書を正しく語っているかどうかを判断するということである。そして、正しく語っていない場合には指摘するという務めである。
    私は今年、教会の総会でこんな発言をした。「長老方が『教理を擁護する』という務めを果たさなければ、教会員は間違った説教を聴き続けることになります。そして場合によっては間違った信仰を持つことになるのです。どうか長老の皆さんにはこの務めを一丸となって担っていただきたいと切にお願い致します」
    長老の一人がこの務めを果たして説教の間違いを指摘しても、おそらく聞かれることはないだろう。牧師は、自分の語ることが間違っていると思っては語ることが出来ないからだ。
    牧師に妻がいるなら、どこにも規定として記されていなくても、牧師の妻もこの務めを担うべきだろうと私は思う。しかしそのためには、牧師の妻は、夫の信仰から自律した、神によって立つ信仰を持っていなければならない。


    たぶんわたしは踏むだらう展示館に見るこの形而下の板踏絵など 高尾文子『エレミヤ』



    誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(1コリント信徒への手紙13:3)

    2017-02-20

    太宰の『待つ』を読んだ、そして遠藤の『沈黙』を思った

    ネット青空文庫太宰治の『待つ』を読んだ。
    泣きはしないのだけど、何か泣きたくなるような思いがふわふわと胸に満ちてくる。

    それで、こんな聖書の言葉を思い浮かべた。

    主を呼び求める者はみな救われる。(ヨエル書2:32)


    買い物の帰りに駅の冷たいベンチに腰をおろして毎日毎日誰かを待っているこの主人公が、遠藤周作の『沈黙の中のキチジローのように思えた。

    自分を愛してくれる者を、赦してくれる者を、待ち望んでいたのかも知れない、太宰も、遠藤も。