風と、光と・・・雨音につつまれて このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


ふくしまの海

by いらくさ
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  • 以下に書いていることは私の思考過程のものです。古い記事は吟味しつつお読みください。

    2018-10-18

    短歌とは ー 葛原妙子62







    どうもこの頃、キリスト者権力志向しすぎている気がする(ミルトス)



    ● くらがりにわがみづからの片手もて星なる時計を腕より外す 葛原妙子『薔薇窓』
    フォルム短歌的であるというのは、五句三十一音で構成されていること、あるいはそれにできるだけ近い形になっていて、そこからはみ出す場合はなんらかの必然性がみとめられるということである。
    そして内面短歌的であるというのは、言葉文体のすみずみにまで作者の心が映っていると言いきれる、ということだと思う。これは感覚的な話になってしまうのだけど、選ばれている表現描写に対して、これは作者の心の表れだ、という補助線を引いたときに言葉にもっとも筋が通り、言葉がもっとも鮮やかにみえるように感じられる場合、その文は短歌であると思う。
    (略)
    逆にいえば、フォルムさえ短歌的であればそれが短歌である証拠になる、ということになる。形が短歌ならそれは短歌なのだ、というのはとても当たり前のことかもしれないけれど、前衛短歌と呼ばれた歌人のうちの多くは、フォルムだけをアリバイにして短歌なかに短歌ではないものを詰めてきたはずだ。そのなかで、葛原妙子の歌を支えるのはフォルムではなく内面である。葛原の歌には破調、とくに字足らずが多く、フォルムは安定しているとは言いがたいけれど、それをものともしないくらいにはその内面短歌的だと思う。(平岡直子=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より抜粋引用



    あなたの作る俳句短歌的だから短歌を作りなさい」と言われて、短歌とは何か、俳句とは何かと納得のいく答を求めながら得られないできた。「あなた俳句短歌的」ということは、私の作る俳句俳句だと認められないということだろう。では短歌のように三十一文字にすれば短歌になるのかというと、どうもそう簡単にはいかない、いかなかった、のである。それで、どちらも「らしきもの」となった。「擬き」である。

    そんな時に葛原妙子の短歌に出会った。文学史では前衛短歌歌人として葛原妙子の名が記されていたと記憶しているが、妙子自身は自らの歌を前衛とはとらえていなかったのではないかと思える。前衛短歌がどういうものかも私自身は分かっていないのだが・・。

    葛原妙子の短歌に出会って、もう短歌は作らなくてもいい、と思った。こんな短歌を作っている人がいるのだから、能力のないもの(=私)が作る必要もないだろう、と。私は「聴く人間であり、「享受する側」の人間なのだ。


    ところで、平岡氏は、葛原の歌には「他界」という感覚がつきまとっている、と書いておられる。「歌の外側からなにかが訪れる」他界から差しこまれるもの」というような・・。それで思い浮かべたのが、次の一首である。

    薄ぐらき谷の星空金銀交換所とぞおもひねむりし 『鷹の井戸

    この歌については、随筆 孤宴』で自ら取り上げ、こう記している。

     うす墨に近い空は寝ている山家の上一面を掩い、よくみると、一ところに糠星がかたまってちらちらしている。「金銀交換所」という言葉が私に発したのはこの時である。
     ああそこに「金銀交換所」を置かなくてはーーーと思う。金や銀や、銅などのコイン類を両替、つまり取り替えっこする場所だ。しゃらんと音がするとすぐ消えるコイン類だが、下等な言い方をすればそれらコイン、つまりゼニをかき廻す手も要る。
     翳のようにめだたなくて大きな手、輪郭だけを太い線書にしたからっぽの手でよろしく。ねむる。(葛原妙子=著『随筆 孤宴』より抜粋)

    そして、この歌に似たものとして、私は次の二首を思い浮かべる。

    街の原の冬星に視力とどかざるわれを抱(いだ)きあるは象(かたち)なきかひな 『飛行』
    おほきなるみ手あらはれてわれの手にはつかなるかなや月光を賜ぶ 『鷹の井戸

    また、これらの歌とは逆に、手が引っ込められる不安を引き起こさせる歌もある。

    寄りあひて赤児を抱(いだ)く手あるのみうつしゑにふた親のかほかすれたり 『葡萄木立』


    平岡氏の書かれた物では、前の回でも納得させられた。


    字余りと字足らずは対称的なものではない、というのは多くの実作者が体感的にしっていることだろう。字余りを足すもの、字足らずを欠落させるものだと考えると歌のボリューム自在に操作できるような気分になるけれど、実際にはなぜかそうはならない。実際には字余りも字足らずもどちらも「足す」ものなのだと思う。定型からなにかを「引く」ことなどできないのだ。字余りが歌の顕在部分になにかを乗せるものだとしたら、字足らずは歌の潜在部分になにかを書き足す「註」のようなものである。(10月15日の『一首鑑賞 日々のクオリア』より)






    2018-10-15

    咲いていたのが萎れ、蕾だったのが咲いているーホトトギス



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    2018-10-12

    酔芙蓉に始まり酔芙蓉に終わる ー 「葛原妙子の短歌とキリスト教」

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    夏の日照りと続く台風で、今年は、酔芙蓉が哀れである。

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    やはり木が弱っているのだろう。咲いてすぐに落ちてしまう。
    土に落ちるのはいいが、アプローチに落ちた咲き終わった花を踏みつけるのは良い気がしない。




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    覚めやらぬ夢の残骸 芙蓉落つ

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    雪国に住まひし日々は遠ざかる午睡の夢か 酔芙蓉落つ

    振り返れば、この地での生活は芙蓉に始まったように思う。
    ここに来る前、私は本を自費出版しようとしていた。娘と読んだ絵本児童書の紹介本を出したかったのだ。しかし出版社への不信から断念した。その出版社はやはりそのすぐ後に会社を閉じた。

    「葛原妙子の短歌キリスト教」は本にしたいとは思っていない。これは、ここにひっそりと残しておければそれでいい、と思っている。

    私が葛原妙子について書き始めたのは、川野里子氏の『幻想の重量 ー 葛原妙子の戦後短歌』を読んだからである。
    川野氏はこの中でこう書いている。


    しかし信仰を語るとき葛原にとって「血をわけた」ことがさらに問題になる。亡くなる五ヶ月ほど前に入信した葛原の洩らした言葉が「やっぱりあなたたちと一緒になりたいわ」(『児童文学最終講義』)であったことを思うとき、病重い葛原にとっての入信は、肉親と共にあることと同義だったのではなかろうか。(川野里子=著『幻想の重量』p236)


    ここに先立つ頁には、『縄文』、『原牛』、『葡萄木立』からの三首を上げて以下のように言っている。

     ここに描かれているキリストは、先の母子像以上に乾き拉がれている。吹けば飛ぶほどの乾ききった「木の葉」であるキリストピカソ青の時代を思わせるような物思いに沈み、「種」さえ残さない。また三首目などは十字架上に捩れるイエスの美しい裸体を思い描いての作品であろう。イエスが酢を含んだことに思い至り粛然として我に返るかのようである。これらの歌はことごとく象徴的なイエスの像を外れている。神の子ではなく、私たち自身よりも救われ難いひ弱な存在である。こうした歌から窺えるのは、異国の神を異教徒の目でつくづくと眺めるかのような態度である。(p220)


    もう一箇所、『原牛』、『をがたま』からの二首を上げて、

     ここには飽きることなくキリストの受苦にさえ美を読み取ろうとする芸術家の目が働いている。あるいは美男好みであったという葛原のこそばゆいような嗜好が働いていたかもしれぬ。同時にここにはキリストという信仰の対象を自らの美意識の磁場に引き込もうとする力業がある。葛原とキリスト教との関わりは、葛原に信仰があったか無かったかという問題ではなく、(以下略)(p366)


    私は、怒りから、「葛原妙子の短歌キリスト教」を書き始めたのだ。信仰について、キリストについて、何も知らないで、知ったふうな口をきくんじゃない、と言いたかったのだ。

    けれど、妙子について書きながら、妙子の信仰に触れて私は慰められた。この10年近くを、私は、葛原妙子の歌から随分と慰めを得て生きて来たと思う。


    午後三時わが室内にたふれゐる柱の影を人はまたぎぬ 葛原妙子『をがたま』

    そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイによる福音書27:46)


    さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。

    彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人外国人交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウスあなた祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」(使徒言行録10:1~3、28〜33)



    このブログ「雨音につつまれて」は、はてなブログ「風と、光と・・・」に移して保管しました。ただ、移した先は非公開にしていますので、見ることはできません。はてなダイアリーは終了しても閲覧は出来るということなので、古い記事はこれまで通りこちらで見て頂ければと思います。

    新しいものは『風の匂いの中に』で書いております。よろしければいらして下さい。

    「建築士が選んだ傾いた硝子の花瓶に・・」
    「私に無断で夫が購入したデザイナーズグラスに・・」


    なお、ブログ引っ越しのみならず、実生活でも来春引っ越すことになりましたので、来春以降しばらくブログ更新は休みとなります。

    2018-10-11

    ブラック・プリンスの記憶を・・


    刈米義雄の「花鳥な彩月」 『花の小品美術館』より
    ひろって、懐に抱いてきた。
     なにやら巣から落ちたひな鳥を抱くかのような気分。
     残の撫子も茎折れを発見。
     テーブルに飾った。
     野分のつとめて(翌朝)のささやかなる悦び。(抜粋)


    この方の文章、本当に素敵(ミルトス)


    昨日、「庭作りはしまい」と書いたので、今年咲いたブラックプリンス記憶を遺しておこう。
    このクレマチスブラックプリンス」は、『ハリー・ポッター』のスネイプ先生イメージ
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    咲きそうで咲けなかったアマリリスの蕾と・・。

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    こちらは今にも飛び立ちそうな十字のブラックプリンス





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    2018-10-10

    彼岸花が、咲いて素枯れた

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    母の遺した土地の後ろ側に細長い三角形の市の土地が隣接している。ここは元々は河口にある木場材木を運ぶために敷かれた鉄道だったのだが、今では市道になっている。その市道から少し外れた部分がうちの裏に荒れ地となって残されているのだ。
    昨年夏の終わりにここに群がって咲いた藪からしスズメバチがやってきた。裏は車道なのだが、近くに信号があって、信号が赤の時にはそこに沿って車が並ぶ。それで市に、スズメバチの駆除を申し入れたのだが、「すぐに対応します」と言いながら一向に対応してくれなかった。冬に入って、スズメバチ心配もなくなった頃にもう一度、夏になって藪からしが繁茂する前に草刈りをしてくれるように市に申し入れたが、その後も全く音沙汰なしだった。
    仕方なく夫が春先から草刈りをし、私も時折手を入れて何とか形を保とうとしていたのだが、夫が7月入院したので、庭仕事どころでなくなって、夏の間に草茫々となった。
    9月に入って、地籍調査の立ち会いの際に一連の事柄について文句を並べていると、調査の人が、「今回はちゃんと対応してくれると思いますよ。こちらが市の担当の方ですから」と、車道から見下ろしている市の職員を示した。その人は、私の方には目もくれず、もちろん謝りもせず、薄笑いを浮かべたままだったが、後日、草刈り業者はやってきた。
    ところが、草刈りをして欲しいのは市有地だけだと言っているのに、私が少し遅れて行ったものだから、うちの土地の草も刈ってしまっていたのだ。
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    まったく、どうしてこう余計なことばかりやってくれるのか!肝腎なことはなかなかやろうとしないで!お蔭で、芽を出して来年の春には花を咲かせるかも知れないと楽しみにしていたシロヤマブキも、移植して花を咲かせていたチェリーセージも、蔓なしじゃないのに蔓なしのようになってまで毎朝花を咲かせていた朝顔も全部ダメになったじゃないか!
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    私の目指している庭作りは、この漫画に描かれている。しかし、こんな庭作りは周囲からなかなか理解されないだろう。
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    庭にハーブを植え、野菜を育てるのが私の積年の夢であったが、私はもう庭作りはしまいと思っている。


    刈り残された彼岸花が、いつの間にか咲いて、素枯れた。

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