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ふくしまの海

by いらくさ
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  • 以下に書いていることは私の思考過程のものです。古い記事は吟味しつつお読みください。

    2018-12-12

    自己中心的とか利己的とか・・

    さざんくわの咲く家、槇の実の生る家・・・・人は愛さうとこころみながら

    いわゆる自己中、自己中心的であるとか利己的というのは、キリスト教においては大いなる罪だと言えるだろう。キリスト教は、共に生きようとする宗教だからだ。
    利己的な生き方というのは、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」の前段階で留まって、「隣り人を愛する」というところに拡がっていかない。

    「罪」は様々な形で現れるように思うが最終的には「愛せない」というところへと集約されていくように見える。

    自己中心主義とか利己主義などの「主義」に陥っている場合は論外だが、私達は皆、この自己中心的利己的であるところを越えることが出来ないでいるのだと思う。

    しかし、「罪」をただ「的外れ」というような観念で捉えるばかりで実態を明らかにしなければ、次第に「罪」に陥っていくことになるだろう。自分の「罪」を見ながら、黙殺するところから「罪」は生じる。

    中世における異端審問による投獄・火あぶりの刑などもこの「罪」によって発生したと思われる。
    カルヴァン等も自分の考えを正しいとして他を排除しようとしたところで、この「罪」に陥ったのではないだろうか?自ら手を下したのではなかったかも知れない、片目を瞑って人々の為すがままにさせたということなのかも知れない。しかし、それは、ダビデがバト・シェバを手に入れるために部下を戦いの最前線に赴かせた行為と同じだと言えよう。

    自分の考えが正しい」、「自分を中心に据える」、それは自分を「神」とすることに等しい。それは正しくアダムが陥った「罪」だろう。

    蛇は女に言った。「…。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる…。」(創世記3:5)


    ダビデ姦淫の罪を犯した上に人を殺している。モーセも人を殺している。しかし、そういった罪は脇に追いやって、英雄視する場合が多いのではないだろうか?しかし、

    イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアダビデの子なのか。」(ルカによる福音書20:41~44)

    すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネによる福音書6:32,33)

    この世には、キリストイエス以外に、唯一の者、完全なる方、中心となるものは他にない。


    私も、こんなことを書いていては、時代時代なら、火あぶりに遭っているかも知れない。今でも、所によっては異端審問のようなことが行われているようであるし・・。










    世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(ヨハネ手紙一3:17,18)





    2018-12-09

    人間には決して語り得ない言葉 ー「あなたは生きていてよい!」(カール・バルトの言葉)


    ● 2018年11月21日砂子屋書房『一首鑑賞 日々のクオリア』から抜粋引用
    仮に「生まれない権利」というものがあるとすれば、人は生まれながらそれを侵害されていることになる。(略)出生・出自についての根本的なネガティブさと、それでも生きはじめてしまっているかぎりは生きつづけることへ奇妙なほどに意欲的であるポジティブさが文体をもねじっていて、歌をいちいちねじれた場所からはじめさせるのではないか。健やかに生まれ育って思春期あたりでねじれる人は歌も四句目あたりとかでねじるんじゃないかな。(略)
    第二歌集の後半は二つの大きな「死」に割かれている。震災による「たくさんの死」と、笹井宏之という「身近な死」である。それらの出来事によって「私の生まれない権利」への問いは「あなたの生きる権利」への問いに反転し、ルートが曲がったと思う。この歌集は途中でめくれて、ちがう歌集がはじまる。第二歌集の後半で歌人斉藤斎藤歌人斉藤斎藤に「こんな風に生んでくれと頼んだ覚えはない」と文句を言うのではないかとすら想像してしまう。そして、けっきょくその台詞がこの歌人いちばん生かすのではないか、とも。(平岡直子=文)




    わずらわしき世のわざに、やるせもなきかなしみに、
    なおひそめるみいつくしみ見させたまえあやまたず
                   (讃美歌316ー3)

    讃美歌のこんな歌詞こころに沁みる時がある。



    福嶋揚=著『カールバルト 未来学としての神学』(日本キリスト教団出版局)より。

     その一方で聖書は、イエス・キリストが「多くの人々のために」自らいのちを捧げることも描いています(マルコ一〇45)。またイエスでなくとも、人のいのちを救うために自らのいのちをすすんで犠牲にする、きわめて例外的なケースもあり得ることをバルト示唆しています。
     いずれにせよ「自殺禁止すべきか、それとも肯定すべきか?」という単なる二者択一、あるいは「自殺は悪か善か?」という単なる道徳的判断聖書から導き出すことはできないというのがバルト洞察です。
     さらにバルトは「あなたは死んではいけない!」という禁止にも、「あなたは生きていなければいけない!」という強制にも、説得力がないことを見抜いています。それらは死の誘惑の中にある当事者に対して訴えかけることができません。
     しかしバルトは、そのような死の誘惑の「暗闇の中にさし込む一条の光」があると言うのです。それは「あなたは生きていてよい(ドイツ語は略)」というメッセージです。バルトはこのメッセージ神学的に次のように説き明かしています。

    (『教会教義学』からの引用は省略します。ミルトス

     バルトはここで「あなたは生きていてよい!」という実にシンプル言葉によってキリスト教福音を言い表しています。日本語訳では「生きることを許されている」となっています。「許されている」という訳語は、その許し(赦し)が人間ならざるものからのメッセージであることを示唆しています。バルトは、この福音をいついかなる時もゆるぎなく語ることなど、人間には決してできないと言うのです。
     「生きていてよい」ということは、決して自明のことではないし、努力のもたらす成果でもありません。どれほど生きたくても、様々な災厄 ーー 災害病気事故戦争など ーーによっていのちを断たれた無数の人々がいます。さらに「生きていてよい」ということがまさに掘り崩され失われつつあるのが現代格差社会であることは、前節で見てきたとおりです。「生産能力のない者は生きるに値せず」「経済成長に貢献しない者は生きるに値せず」。ーー資本主義の末期は、そのような冷気に満ちた社会をもたらしつつあります。その冷気の中で、将来に希望を持てずに死を選んだ人々、死を願う人々がたくさんいます。

    (中略)

     例えば旧約聖書出エジプト記においては、神ヤハウェモーセの一行をエジプト王国での奴隷状態から救出します。そして人々がこの解放の恵みを生かして共生社会をつくるために、神は人々に「律法法律)」を与えます。その律法代表が「十戒」です(二〇2ー17)。十戒ユダヤ民族にとっての共生ルール憲法のようなものです。自らが生かされていることを知る者は、同胞を「生かせ」、同胞を「殺してはならない」(二〇13)という戒めを受け取ります。
     「私は生きていてよい」という自己理解は、「隣にいるあなたもまた生きていてよい」社会、「あなたも私も共に生きて祝福される」社会形成へと人を誘います。自らが受けた恵み、贈与の大きさに打たれた人は、それを第三者に贈与(ペイ・フォワード)するでしょう。このような純粋贈与の力、福音の力は、人を暴力的に従わせる力とも、金銭的に動かす力とも異なる力なのです。
     その贈与の福音を人はどこから、何を手がかりとして知りうるのでしょうか?キリスト教はそれをイエス・キリストという一人物見出します。イエスの教えと生涯、それが行き着いた十字架刑による死 ーー 同胞からも、伝統宗教からも、国家からも、そして神からも捨てられた死 ーーは、人がもう二度とこのように死ななくてよい、自らを犠牲にささげなくともよい、「生きていてよい」という、一回的で決定的なメッセージなのです。
     福音とは、このような「幸い」(マタイ五3以下)の訪れ、幸福の音連れ、告げ知らせであるということができます。そして旧新約聖書を通して、また旧新約聖書の中心人物であるイエス・キリストを通して、この福音を探求するのがキリスト教神学という伝統学問なのです。



    バルトのこの言葉を読んで、久野牧先生説教を思い出した。
          ↓
    http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20121020/p1



    2018-12-07

    生意気にも、カール・バルトと私の一致点と相違点について

    すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順なかに閉じ込めたのである。(ローマ人への手紙11:32)

    この箇所は、初めて新約聖書を読んで、最も心捉えられた箇所である。
    いったいこの言葉の何に心を捉えられたのか?今になって考えた。
    この言葉によって、私は、神に出会ったのではないかと。もっと言うなら、この言葉によって、生きて働いておられる神にぶつかったのではないか、と。さらに言えば、キリストに出会って回心したパウロのこの言葉によって神に行き当たったのだ、と。


    この数年、バルトローマ書講解』を読もうとして、脳が拒否反応を起こすので読めないまま手元に置いていた。最近になって、11章32節のところだけ読んでみようと思って読んだ。


     「というのは、神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのであるから」。これに対して、リーマンは言う。「この慰めに満ちた、喜ばしい結果をもって、第九章に始まった研究が終わる」。われわれは、驚いて目を転じ、ここではむしろローマ書の全体(しかもローマ書だけではないのだ)の鍵が見いだされるはずの、恐ろしく不安にする公理とわれわれはかかわりを持っていることを確認する。(略)この箇所はすべてのものが測られようとする尺度であり、すべてのものの重さが計られようとする秤である。この箇所は、それなりの仕方で、すべての聴く者や読者自身に対して、二重予定の規準となっており、この箇所はその予定の究極的意味を明らかに示そうとしている。ここで問題となる神の「閉じ込める」行為は、含蓄のあるものとして取り上げられるべきである。神の「憐れみ」が含蓄のあるものとして、最初の「すべての人」も含蓄のあるものとして、またそのあとの「すべての人」も含蓄のあるものとして取り上げられなければならない。ーーあとのすべての人はカルヴァンによって激しく狂気する人たちと見なされる危険を冒しても、そうしなければならない。ここに、隠された、未知な、理解のむずかしい、どのようなものも不可能ではない神、このような方としてイエス・キリストにおいてわれわれの父である主なる神がいる。(小川圭治・岩波哲男=訳『カールバルト ローマ書講解 下』より抜粋引用


    ここで言われている「二重予定」とは、「救われる者と滅びる者が予め神によって定められている」というカルヴァンによる教説である。

    私は改革派教会で洗礼を受け、改革派教会がこちらには無いので、最初に足を踏み入れた今の教会に戻ってきた。洗礼を受けたと言っても、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んだわけでもなく、教理教義が頭に入っていたわけでもないのだが、何となく、「二重予定説」には違和感を感じていたものだ。

    これを読んで、バルトは、このローマ人への手紙11章32節から新しい予定説を導き出したのだと理解した。

    福嶋揚氏は、バルトの予定説を以下のように説明している。


     バルトはまたカルヴァンの予定説を検討します。バルトカルヴァンとは違って、神がある人々を救いへと選びつつ他の人々を滅びへと棄却したとは考えません。むしろ選びと棄却キリストという一点において同時に起きて成し遂げられたと考えるのです。(福嶋揚=著『カールバルト 未来学としての神学』)


    キリスト十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたし、旧約においてもキリストが選ばれイザヤ書42章)、捨てられるイザヤ書53章)ことは預言されているから、バルトの言う「選びと棄却キリストという一点において同時に起きて成し遂げられた」という解釈には納得できる。


    しかし、カールバルト 未来学としての神学を読んでいて、ちょっとこれは考えが異なるというところもある。


     もっともバルトはそれらの遺産を無条件に継承することはしません。宗教改革自身原理とした「聖書のみ」「キリストのみ」を貫徹する限りにおいて、彼らの教えを支持するのです。つまり宗教改革精神によって宗教改革そのものを検証するのです。
     例えば古代のアウグスチヌスから宗教改革へと受け継がれた「原罪」の観念をバルト否定します。聖書が描く神の自由にふさわしい人間の真の自由とは、善と悪のどちらをも選ぶことができるという意味での自由、悪を選び「罪を犯す自由」ではないとバルトは考えます。バルトによれば自由とは「ただ善へと向かう自由」です。このような自由責任人間に与えられていると考えるからこそ、「原罪」なるものが原初人間アダムから後世の人間へと逃れられない運命のごとく遺伝するという思想バルト否定するのです。(福嶋揚=著『カールバルト 未来学としての神学』)



    清水書院の『カールバルト』にしろこの本にしろ著者のバルト解釈を通ったものであるし、私自身は『教会教義学』も何も読んでいないからはっきり言い切ることは出来ないが、この考えには、「罪」を忘れ去らせる「魔力」が潜んでいるように思われる。

    そしてバルトのように考えるなら、キリストによる罪からの贖いは必要ないということになる、と思える。

    創造の時に神が与えられたのは「善と悪のどちらをも選ぶことができるという意味での自由だったのだ。そうでなければ本当の自由とは言えないだろう。そして、アダムは罪に堕ちたのだ。アダムが罪に堕ちて、そこから死が全人類に入り込んできたのだローマ人への手紙5章)

    バルトの言うような「ただ善へと向かう自由というのは、キリストに出会って、キリストによって罪から贖われたことを知った者のみが持ちうる自由なのだと私は考える。そのためにも原罪」は外せないだろう。「原罪」を否定すれば、救われる意味がなくなるのだから。

    じゃぁ、バルトローマ書5章12節についてはどう言っているのか?と思って、『ローマ書講解』のその部分を読もうとした。


    「古い」人間もまた、まさに人類であり、人間存在であり、人間世界である。そして個々の人間の偶然性を一方では凌駕しながら、他方ではそれを基礎づけるかれのこの普遍的規定性においてこそ、かれは、かれが現にあるところの者、われわれが知っている者、すなわち神の怒りの下に立たされている人間である。現に存在しないところの、しかもわたしがそれであり、そしてわれわれが知らない新しい人間、すなわち、神の前に義である人間もまた同様である。(小川圭治・岩波哲男=訳『カールバルト ローマ書講解 上』より)


    この辺まで読んで、読む気が失せた。関係代名詞をそのまま訳しているから読む気がしなくなるのだ。関係代名詞代名詞をそのまま訳すというのは、書かれている内容を(自分身体を通して)理解していないからではないかと私は思う。おそらくこれ以上、私は、『ローマ書講解』は読まないな、と思った。

    書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。(コヘレト言葉12:12~13)




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    2018-12-05

    「主があなたと共におられます」ルカによる福音書1:28(待降節にした日曜学校でのお話)

    ルカによる福音書1:26~38からの日曜学校説教

    今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントクリスマスを楽しみに待つ時です。
    クリスマスは誰がお生まれになった時でしたか?そう、イエス様ですね。
    今日は、「イエス様あなたから生まれますよ」と、天使マリアさんに告げに来た時のお話です。

    天使ガブリエルはナザレというガリラヤの町に神様から遣わされてやって来ました。ダビデの家のヨセフという人と結婚約束をしていたマリアさんの所にやってきたのです。

    天使マリアさんの所に来て言いました。「恵まれた人よ、喜びなさい。神様あなたと共におられます」
    いったい何が起こるんだろうとマリアさん不安に思っていると、天使は続けて、こう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。
    それを聞いてマリアさんは「どのようにして、そうなるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と言いました。
    いくら神様がなさることだといっても、「赤ん坊が生まれる」なんて誰にも信じてもらえないとマリアさんは思っただろうと思います。特にこれから結婚しようとしているヨセフさんにはとても信じてもらえそうにありません。ヨセフさんに信じてもらえそうにないこのお知らせは、マリアさんをとても不安にしただろうと思います。

    すると天使マリアさんの問いかけに答えて言いました。聖霊あなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神には出来ないことは何一つない」と。


    私達人間には神様のなさることが納得出来ないと思える場面が聖書にはたくさん出てきます。

    イエス様マリアさん子どもとして生まれて下さいましたが、マリアさんより先に十字架につけられて死んでしまいますね。
    この時、マリアさんイエス様十字架につけられて死ぬということは知りませんでした。でも、もし知っていたら自分イエス様の代わりになりたいと思ったかもしれません。
    けれども、それは出来ないのですね。私達の罪を贖うために十字架上で死ぬのは神の子であるイエス様でなければ出来ないことでした。いくら母親マリアさんであっても代わることは出来ないのです。
    親にとっては、子どもが先に死んでしまうことほど悲しいことはないだろうと思います。特に自分のおなかの中で子どもを育てた母親にとっては、そんなことはとても耐えられないことです。
    それなのに天使ガブリエルマリアさんに向かって「恵まれた人よ、喜びなさい」と呼びかけました。

    私達には神様のなさることが納得出来ないと思うことがたくさんあります。私達の人生においても、納得できなくて苦しんだり、神様を信じられなくなることがしばしばあります。

    イエス様十字架の上で死なれましたが、その死に打ち勝って、蘇られました。神様イエス様十字架にかけることで私達を罪と死から救い出して下さいました。その救いはマリアさんのためでもありました。
    けれど、この時、マリアさんはそういうことを何も知りませんでした。将来イエス様十字架死ぬということも。そのことによって全ての人に救いが与えられるということも。
    これから先、母親である自分子ども死ぬことでどれほど苦しい思いをするかということも。そして、その死によって自分も罪から救われるのだということも、何も知りませんでした。
    けれど、マリアさんはこの時「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と応えました。

    マリアさんが苦しみと悲しみの中で用いられて、私達のために十字架につかれたイエス様がこの世に来て下さいました。そのクリスマスがもうすぐやってきます。


    祈り
    神様あなたは時に私達を苦しい務めに用いられます。けれど、私達が苦しみの中にいる時、あなたがいつも傍に居て下さり、聖霊によって守り包んでいて下さることを覚えていることができますように。この祈りイエス様の御名によって祈ります。アーメン

    2018-12-03

    『聴く』12月号

    聴く』では説教を抜粋掲載としたが、ここでは全文を掲載する。
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     「初めに言があった」
    
 旧約に親しんでいる人であれば、創世記「神は『光あれ』と言われた」(創世記 1:3)という言葉を思い起こすでしょう。

     「言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」
    
 福音書は、言と神との関係を語り始めます。言は神と共にあります。初めから神と共にあります。そして不思議なことに、言は神だと言われます。
    
 そして14節まで読むと、この言がイエス キリストであることが分かってきます。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14)

     ヨハネによる福音書は、神のひとり子であるイエス キリストが、神の言であり、神であることを明らかにしようとしています。ヨハネによる福音書は、ナザレのイエスは神なのか人なのか、という問いに対する答えをはっきりと示しています。そして後に確認される三位一体についての大切な証しをしました。

     3節「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」
    
 世の初めから神と共にあり、神の言であり、神であるイエス キリストは、すべてのものの創造に関わっておられます。

     この点については、コロサイ人への手紙にさらに詳しく書かれています。そこにはこうあります。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイ 1:15, 16)
    
 世の初めから神と共にあり、神である神の言イエス キリストは、この世界存在に関わっておられます。

     4節「この言に命があった」
    
 これは直訳すると「彼の中に命があった」となります。新約が書かれているギリシャ語で言はロゴスと言います。(ギリシャ語名詞は男性名詞、女性名詞中性名詞がありますが)このロゴスは男性名詞なので、彼はロゴス(言)を指します。それで口語聖書は「この言に命があった」と訳しました。これで正しいのですが、「この言に」よりも「この言の中に」と強調した方がよかったかなと思います。
    
 ヨハネによる福音書は、最後の方に福音書編纂した目的が書かれています。20:31に「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエス神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」とあります。
    
 命はヨハネ福音書の大切なテーマです。有名な 3:16にも「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。
    
 イエス キリストの内にこそ命がある。イエスキリスト(救い主)であると信じることにより、イエス キリストの中に入れられ、キリストの命に与るのです。

     聖書メッセージの中心は「神と共に生きる」ことです。それこそが「永遠の命」です。そして、それはイエス キリストの内にあるのです。イエス キリストを救い主と信じ、キリストと一つにされ、キリストの内に入れられる。そのとき人はキリストと共に永遠の命を生きることができるのです。
    
 ヨハネによる福音書は、死を超えていく永遠の命の秘義を明らかにしているのです。

     これまでも申し上げてきましたが、命は自分の命でも自分のものではありません。時を止めることはできず、人は必ず老いていき、死を迎えます。どんなに生きていたいと願っても、死を避けることはできません。この死に支配されている罪人に、神が与えてくださった命の道が、キリストと一つにされて神と共に生きる道、永遠の命の道なのです。だからイエスは言われます。わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)と。

     4節後半「そしてこの命は人の光であった」
    
 ヨハネによる福音書は、光についても記します。イエス自身わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8:12)と言われ、またわたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(12:46)と言われています。
    
 闇は、神を見出すことのできない状態を指します。神を見出すには、光が必要で、その光はイエス キリストなのです。わたしたちは、イエス キリストを知るとき、イエス キリストを通して神を知るのです。
    
 逆説的に言うならば、イエス キリストによらずして神を知ることはできないのです。イエス キリストこそ光であり、イエス キリストを通して神を知ることができるのです。

     5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」
    
 イエス キリストは、罪の世の闇の中で輝いています。イエス キリスト自身が光であり、輝いているので、闇の中にいる者も光を見つけることができるのです。
    
 闇がどれほど光を妨げようとしても、ひとり子を遣わすほどに世を愛しておられる神の愛を妨げることはできないのです。イエス キリストは、確かに十字架で命を献げ、死を打ち破って復活されました。イエスわたしたちのために死んで復活されたので、わたしたちイエス キリストを信じるとき、イエス キリストと一つに結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に永遠の命に復活するのです。

     イエス キリストが一体誰なのか、それを知るとき、わたしたちの前には永遠の命に至る命の道が開かれます。死に向かって生きるのではなく、神の国での復活へと至る命の道が開かれるのです。

     イエス キリストは、わたしたちを神と出会わせてくださる神の言。わたしたち創造に関わり、救いを成し遂げてくださる真の神。わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって命を献げ、陰府(よみ)へと降り、死を打ち破り復活された真の人。わたしたちと一つになってくださり、わたしたち永遠の命を与えるただ一人の主。光となって罪の世を導く命の光。圧倒的な力で、わたしたちを闇で覆い尽くそうとする罪を打ち砕く勝利者であります。

     ヨハネによる福音書は、真の神である神の言、人となられた神の言。わたしたちの命にして光、勝利者であるイエス キリストへの信仰宣言をもって、福音書を始めます。わたしたちを救いに至らせるために福音書を始めるのです。

    ハレルヤ

    父なる神さま
    
 わたしたちの命であり光であるただ一人の主イエス キリストを知らせてくださり感謝します。死に囚われているわたしたちイエス キリストにより永遠の命の道を開いてくださり感謝します。キリストと一つにされ、キリストの内に入れられ、キリストの命に与ることができるように、どうかキリストを信じて生きる者としてください。
    イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン


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