風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

秋(リルケ詩)

              秋

                           リルケ

     木の葉が落ちる、遠くからのように落ちる。
     天の彼方の楽園が枯れてゆくかのように、
     「嫌だ、嫌だ」と言っているかのように、落ちる。


     そして夜々には重たい地球が、
     あらゆる星の群れから孤独の中へと落ちる。


     私達はみな落ちる。この手も落ちる。
     まわりをご覧!みんな落ちている。


     けれど ただひとり 落ちてゆくものたちを
     限りなくやさしくその両腕に受けとめる方が、いる。





とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)

葛原妙子28

「葛原妙子27」で私は、妙子は「(破れて)落ちる不安」を「原不安」として抱えていたのではないかと考えたのであるが、「落ちる」という不安を感じさせる短歌を以下に書き出してみようと思う。

フォームを外れて着きし列車より夜の人暗き雪に飛びたり『葡萄木立』
デッキより見えざる手をあげ飛びし人 しかも片手のありありと見ゆ
鰭のやうなものに變はれるわが手足飛行浮遊のきはにかなしみき
機上なるわれは滑らかわが手より顏よりなべては滑り落つるを
四發機翼(つばさ)うごかず盲目の白雲の中に入りたり
プロペラの回轉に小さき虹たちて虹はみえつつプロペラの見えず
操縦士雲霧とたたかふ孤獨あり乘客に煙草火點(とも)す孤獨あり
飛行しづか雲の中なるわが鼓動大き蜜蜂のごとくひびきぬ
白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時輭
ひややかな翎天に架かる歩道橋人渡らざる長き時輭あり『朱靈』
肉身の均衡あやふきわれがたまたま虛空の橋をあゆめり
橋上にたたずむわれに朝の街霧のごとくに旋回しそむ
橋の上に人歩み去りふたたび橋は明るく宙に浮きにき
微動なき機をかすめをり莫大の時輭のかたまり 闇のかたまり
假眠の中わが尋ぬるは他ならず地上に杳と行方しれぬわれ
零といふ寂しき數を見出でたる民よ碧空を仰ぎしにあらずや
亡靈に似しプロペラ機まなしたにあなふはふはと山を越えゐき
滴々といづれのあたり砂漠(すなはら)を飛ぶ飛行機のオイルの洩れ『鷹の井戸』
赤ん坊をあまた積みたる飛行機が高度一萬メートルに浮く
人輭の赤ん坊が空をこぼれそむ あなやこぼるる 音のせなくに
透きとほるめがねをかけてゐるわれに銀河の中のふかいほらあな
空中にとどまりがたき飛行機の音こそ聞ゆ 迅速聞ゆ

『葡萄木立』の最初の二首は、列車から身を投げたのか落ちたのか、事故か事件を題材に作った歌であろうか。「見えざる手が、しかもありありと見える」という描写が、歌を読んだ後に映像として鮮やかに残る。
抜粋した『葡萄木立』の三首目から八首目までは飛行機に乗った時のものかと思われる。これは第七歌集『朱靈』の最後に引用した歌や第八歌集『鷹の井戸』にまで続いて現れる題材である。
『葡萄木立』の最後に抜粋引用した「白き階段」の歌は『朱靈』の「橋」の歌に繋がっているように思う。

又、私は、この中にちょっと趣の違う歌を二首入れた。『朱靈』の中の「零といふ寂しき數を見出でたる民よ碧空を仰ぎしにあらずや」と『鷹の井戸』の中の「透きとほるめがねをかけてゐるわれに銀河の中のふかいほらあな」である。
これはどちらも、空を見上げた時に虚空の中に吸い込まれる、あるいは空へと落ちる不安を感じさせると思ったからである。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜にも描かれているが、宇宙(そら)というものの中には、ぽっかりと大きな口を開けた真っ暗な孔(あな)が開いているのだ。


しかし中でも私が、落ちるということを妙子自身の原不安として最も表していると感じるのは、「葛原妙子19」でとりあげた『葡萄木立』の中の次の一首である。

寄りあひて赤兒を抱(いだ)く手あるのみうつしゑにふた親のかほかすれたり『葡萄木立』

さて、次にあげる二首は正しく読み取れていないかもしれない。けれど、私自身の個人的な体験から、非常に私の興味を惹く歌である。

ゆめ中に顯はるる地下の空虛にてしづけきみどりの壁をもてりき『葡萄木立』
病棟に猫ゐしことの恐怖よりしづかなる睡りわれを襲ひぬ

私は子どもの頃から死を恐れていた。まわりが寝静まった中で一人眠れないまま、「いつか必ず人は死ぬんだ」と考えていると、その恐怖のために気を失うように眠りに落ちていく。そしてその眠りのきわにか、夢の中にか、地下の狭い洞穴が現れてそこに吸い込まれ落ちていくような感覚に陥るのだ。私はこの二首を見つけた時、子どもの頃のあの感覚を思い出したのだった。深い暗い無の中に落ちていくような恐怖。
そのような私がキリスト教の洗礼を受けて後、八木誠一氏の『キリストとイエス』(講談社現代新書の中に「神は存在の根柢である」というティリッヒの言葉を見出した。そしてその時、私は、これでキリスト教の神を信じる群の中に留まれると思ったのだった。

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)
では、妙子は、葛原妙子はどうだったろう?

さびしあな藭は虛空の右よりにあらはるるとふかき消ゆるとふ『朱靈』


時輭=時間
翎天=晴天
人輭=人間
藭は=神は