風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「世びとのなかに住むべき為に」と『カラマーゾフの兄弟』


讃美歌98
2 さだめたまいし 救いのときに
  かみのみくらを はなれて降り
  いやしき賎の  おとめにやどり
  世びとのなかに 住むべき為に
  いまぞ生まれし 君をたたえよ

クリスマスに向けて礼拝後に讃美歌98番の練習をしている。この曲は昨年も歌ったのだが、時間切れで仕上がっていなかったせいか今年もやるようだ。やはり去年もやったせいか、アルトのパートが結構歌える。

お料理をしながら口ずさんでいて、2番の歌詞の「世びとのなかに住むべき為に」という歌詞にハッとした。カラマーゾフの兄弟の中の一節を思い浮かべたからである。

 三日後、彼は修道院を出たが、それは「俗世にしばらく暮らすがよい」と命じた亡き長老の言葉にもかなうものであった。(原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)より)

カラマーゾフの兄弟を読み始めた時、実は、初めの「作者の言葉」が気に入らなかった。何となく、主人公のアリョーシャをキリストとして描こうとしているのだろうかと思ったからなのだ。読み終えた時、そのようには捉えなかったのだが、やはりアリョーシャはキリストのひな型として描かれているのではないかと98番の讃美歌を口ずさみながら思い返したのだった。
そうだとすれば、ドストエフスキーの「知」は小説の構成においても遺憾なく示されていると言えるように思われる。『カラマーゾフの兄弟』は知性を用いてきっちりと構成されているということだ。

父なる神の死と長老ゾシマの死が、キリストの降臨とアリョーシャの俗世に赴く行為とが、小説の中で入れ籠のように表されている。
神が信じられなくなった時、人々が頭の中で思い描いていた神が死んだと思われた時に、神の子が来られたのである。神の子が来られるためには、神の死に直面しなければならなかった。そして神の子は、この世界に来られてもう一度死なれるのである。


けれどドストエフスキーはそれを書く前に死んだ。きっとそれで充分だったからである。ドストエフスキー自身が、父である神の死に直面し、キリストの降臨を体験したはずだから。
そして私たちも・・。

カラマーゾフの兄弟の冒頭にはヨハネによる福音書12章24節の言葉が掲げられている。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書12章24節)


カラマーゾフの兄弟は、人間の頭によって作り上げられてきた神が死に至る19世紀末に打ち立てられた(キリスト教信仰ではない)キリスト信仰文学の金字塔だと言わねばならない。



けれど、きっとマルケスは、ドストエフスキーを超えている。