風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の霊を知る」(ヨハネの第一の手紙4:1~3からの説教)


● スピリチュアル、ニューエイジ、パーマカルチャー、トランジション・タウンについてブログ「風の谷」再エネは原発体制を補完する新利権構造
今日は、脱原発市民運動の周辺に見られるマインドコントロール自然エネルギーの関係について、自分の経験も含めて考察してみたいと思います。
(中略)
スピリチュアル、ニューエイジなどのものの見方考え方が蔓延ることで、目の前の大事な現実を見ないように誘導させられています。
「マイナスなものに関わってはいけません。さもないとあなたの波動が下がってしまいます」と脅し、「ワクワクしなさい」と推奨する。実はこの考え方が自然エネルギー(再エネ)とセットで普及されています。
(中略)
さらにニューエイジ・スピ系は看板を変え、裾野を広げて普及させようとしていきます。それはパーマカルチャーです。農的な暮らしに関心を持つ市民をまとめあげる思想とライフスタイルです。
(中略)

パーマカルチャーの倫理
資源を共有する( 他者から奪うことなく、分かち合う。 与え合う)
環境ビジネスなどの促進
パーマカルチャーはこのような倫理を打ち出しているというのに、紛争鉱物のレアアースを使って作る再エネ工業製品であるソーラーパネル風力発電を促進するという大きな矛盾。
以下の当ブログ記事などをご覧下さい。
(リンク先で直接ご覧ください)
鉱物資源を、他国から奪って自国の工業製品を作るのが先進工業国ということがよくわかります。
環境ビジネスは、先進工業国の資源収奪ビジネスそのもの。
(写真等、略。リンク先で直接ご覧ください)
私は農的な暮らしをしたいという個々の市民について否定するものではまったくありません。私自身も農的な暮らしをしたいと強く思っています。
しかしトランジションタウンやパーマカルチャーなどの組織の枠組みの中で動いている人を講師にして勉強会などすると、矛盾が有ることを刷り込まれ自然エネルギー推進に誘導されてしまうと危惧しているのです。
(中略)
CO2地球温暖化の「嘘」を前提に、石油がなくなるぞと脅しながら、自給自足や農的な暮らしに関心を持つ人をまとめあげて、自然エネルギーに疑問を持たないように、ものの見方考え方まで誘導。
(中略)
もしも私が原発推進する側だったとしたら、
…。
現実を見ないような、自分の頭で考えないような思想を植え付けながら、原発を補完する別のもの=「自然エネ」に関心をそらせておく。…。

(ここに引用したのはほんの一部です。タイトル部分をクリックして、リンク先で直接お読みください。)
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。(ヨハネによる第一の手紙4:1~3)
「霊」という言葉が出てきます。あえて「聖霊」と書かなかったのは、ここにあるように、反キリストの霊、偽預言者の語ること、そういうものもあるからです。
霊の働きというのは、基本的には「結び合わせる」という働きです。聖霊の場合、私たちをキリストと結び合わせてくださいます。キリストの十字架と復活、その救いの御業と私たちを結び合わせてくださる。キリストの成した御業を、私のためのものとして受けとることができるように、聖霊が結び合わせてくださる。そしてキリストが誰なのか、天の父が誰なのかを知らせてくれるのであります。
ヨハネによる福音書に、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ福音書14:26)と書かれています。はるか昔に一人の人が十字架で死んだ、そして弟子達は三日後に復活したと語っている、その出来事がいったい私と何の関わりがあるのか、私の人生にとってどういう意味があるのかを聖霊が教えてくださる、という約束です。そして、あなたがたは主イエス・キリストの名によって、また、私たちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである、と第一コリント(6:11)に出てきます。聖霊なる神の働きによってイエス・キリストと、イエス・キリストが成した救いの御業と、イエス・キリストの復活の命と結び合わされ、神の子とされ、そして主イエスと同じように私たちもまた神に向かって「父よ」と呼ぶことのできる者とされているのです。私たちが今、イエス・キリストを知っている、信じている、それは聖霊なる神の働きを受けている何よりの証しなのです。

しかし、神以外のものと結び合わせる霊も存在します。聖書の中には「悪霊」という言い方で良く出てきます。聖書では悪霊の働きがしばしば病気を引き起こすというふうに出てきますけれども、先ほども言いましたように、霊の働きの基本は「結び合わせること」です。たとえば神以外のものと結び合わせる霊は、私たちを富と結び合わせ、富を最も大事なものと思わせる。「神よりも富だ」というふうに思わせる霊というものがこの世にはあるわけです。だからこそイエスは、「神と富とに兼ね仕えることはできない」と語られ、神に結びつく、神を指し示す霊をあなたがたは受けなければならないと言われているのです。ですからこの手紙も、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか試しなさい。良く検討してみなさい。本当にあなたを神へと立ち返らせる霊なのか、イエスキリストの救いに与らせる霊なのか、そのことを良く確かめなさい」というふうに言っています。
また現代においてよく働いている霊は、自分の願いが一番大事で、それが叶うことが幸せだと思わせる霊であります。これは古来からあって、皆さん良く御存知の通り、学問の神様とか、何々の神様というように、その人の願いを叶えてくれる偶像を人は作り出します。それは、私たちが自分の願いが叶うところ、そこに幸せがある、それを叶えてくださる神様が必要だというふうに古来考えてきたからであります。
そして現代は特に、積極的な思考と呼ばれる、「ポジティブシンキング」と呼ばれるものがあります。「願っていれば夢は叶う」、「そういう暗いことや、悪いことを考えるのではなく、自分の願いが叶って幸せになったそのイメージを大事にしなさい」と、自分の願い、自分がこうなったら嬉しいなぁということに結び付けていく。それこそが私の幸せなんだと思い込ませていく。そういうふうな霊の働きが、今の時代には横行しております。神の御心よりも自分の願いが大事なのだと思わせる、そういう霊の働きです。だから、それらの霊が神から出たものであるかどうか試しなさい。聖霊であるならば、私たちをキリストへ、そして父なる神へと導くものであります。

2節に「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである」とあります。これは、自分が神へと導かれているかを問いかける、確認するということです。これには日々の祈り、黙想が大切です。神の御心を知ろうとするための祈り、黙想です。自分自身や自分の願いに囚われるのでなく、自らを自分から切り離して、神へと想いを向けるのです。「主よ御心をお示しください」と、「あなたがこの私に備えて下さる幸いは何ですか」、「あなたは私を今どう導こうとしておられるのですか」と問いかけることによって、自分に働きかけている霊が神へと立ち返らせようとしているのか、それとも神の思いなんかよりも「私はどうしてもこの願いが叶って欲しいのだ、これが叶うなら神なんかいらない」と、まぁ極端に言えばそういうふうなことまで思っているのか、神の前で思いを鎮めてゆくのです。
日常の中で色々忙しく動いていると、自分の心が何を願っているのか、どういうものに囚われているのか気づかなくなってしまいます。だからこそ、主の日ごとに私たちは神の前に呼び集められる。「安息日」というふうに日本語に訳されていますが、この元々の言葉の持っている意味は「中断する」という意味です。私たちはこの世の日常の生活を中断して、神の前に立ち返り、神の前に鎮まる、そして神の声を聞く。そのようにして私に備えられている救い、私の命をつくり、私を愛し、私のために救いの御業を成してくださった神の御心、神の恵みへと思いを向ける、そういうものとして神はこの主の日の礼拝を備えていてくださるのです。

この神の霊を知るというときに、ヨハネは、それはすなわちイエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する霊なのだというふうに言うわけです。
ヨハネの時代にはグノーシスという考え方が流行していました。この考え方は、肉体と霊とを、目に見えて触れるものと、目には見えないものとに分けて考えるものでした。心であるとか、考えであるとか、「手で触れることができないものは、朽ちることなく永遠なもの、きよいもの」と考え、肉体はいつか滅び行くもの、形あるものはいつか壊れるものとして、この世の物質や手で触れるようなものを軽視していました。
そのように考えると、イエス・キリストというのは肉体をとられるはずがない、汚れた肉体をとられるはずがないのだ、ということになってしまいます。本当に人になったのではなくて、暫定的に人になられたのだ、仮の姿なのだ、イエスは神の仮の姿であって幻にすぎないのだというふうな理解になるわけです。
それに対して、そういう肉体をとって来られたことを否定するような者は神の霊ではない、神の霊を知った者は、イエス・キリストが人となってこの世に来られたことを告白するものだとヨハネは言っているのです。神が私たちのためにひとり子の命をかけて成してくださったその救いの御業を曲解してしまう者、空しくしてしまう者、そういうものに惑わされてはならないと具体的に言っているわけです。
イエス・キリストが肉をとって来られたということを「受肉」と言います。英語ではインカネーションといって、「具体化する」という意味です。あまり特別な言葉ではありません。「受肉」というと、教会でしか聞かないような言葉ですけれども、本当はそれはごく普通の用語です。救い主が肉体をとって私たちと同じ人となられたということを表す言葉です。これを軽視したり軽んじたりすると、何が危うくなるかというと、十字架の贖い、十字架の救いが危うくなります。「結局人となっていないからイエスキリストは死んでないんでしょ」、「仮の姿で幻で本当は死んでなかったんですよね」、そうふうにあの十字架、イエスキリストが命をかけた出来事の実態が消えていってしまう、あやふやなものになっていってしまう。だから、そうではないのだと、そうではない、イエスキリストは真(まこと)に人となられたのだ。私たちと同じこの体をとって、食べなければ疲れるし、眠らなければ倒れてしまう、槍でさされれば血を流し息絶えてしまう、そういう命を、私たちと同じ命を、肉体をとってこの世に来られたのだ。それを曲げてはいけないとヨハネは言うのです。

3節に「イエスを告白しない霊は」と書いていますが、イエスが真に神であり真に人である、どちらかだけではなく、どちらも、真に神であられるお方が真に人となってくださった、それを告白することが大事だとヨハネは考えています。これはパウロローマ人への手紙の10章で「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と言っていることと相通じる事柄です。
何となく曖昧に信じているというのではなく、神がはっきりと啓示してくださった(私たちが知ることが出来るようにしてくださった)ことを、ちゃんと受け止めて告白をする、その告白を通して、神との関係を告白する、そのことが大事です。

今も偽預言者とか反キリストの霊というのは存在しております。
このヨハネの時代はイエスが人となられたということが否定されますけれども、現代では、イエスが神であるということが否定されます。
神学というのが大学の学問となって知性主義がもっとも大切とされる時代になってきました。そういう中でイエスは単なる一人の人間だと理解されるのであります。特にヨーロッパなどにおいて、牧師は公務員であったりします。「不況の時代になると神学部が人気になる」と皮肉を込めて言われたりします。公務員であって、給与が生涯保証される。そういう風になって世俗化していったときに、聖書を人間の知性によって学問として研究をしていくと、「イエスが神である」というようなことは否定されて参ります。福音書の中でイエスは自分で神だとか救い主だとか言ったことはないではないかと、あれはパウロをはじめ初代教会の人達が人間であるイエスを救い主キリストに祭り上げてしまったのだという主張がなされます。ヨハネの時代と反対の姿で知性主義が現れてくる。
そういう中で、本当にキリストと結びあわされるためには神から来る霊、聖霊が大切なのであります。

聖霊なる神は今、私たちの最も身近で働いていてくださるお方であります。しかし捉えきれない、良く分からない、実はそこがとても大事なのです。
神を私たちの理性で、私たちの能力で捉えきったり理解し尽くすことができないんだということを聖霊はいつも私たちに突き付けてきます。私の理性を私の能力を遙かに超えたお方が、私を造り私を愛し、救いの御業を成しておられる。そのことを知ることが出来るようにと、神が私たちに語りかけ、自らを現してくださった。だから私は神を知っている。知っているけれども、それを伝えて下さった神のことを捉えきることは出来ない、説明し尽くすことも出来ない。
本当に私よりも大きなお方が私の命の源であることに気づかされていく、そういう神を知らせて下さるのが聖霊なる神であります。捉え尽くしたり理解し尽くすことが出来ませんけれども、聖霊が注がれ、父なる神、そして子なる神と結ばれていくことを求め祈っていくのです。神を知るのはただ聖霊によるだけ、だからであります。

ルカによる福音書の中でイエスは、「天の父はなおさら求めてくるものに聖霊をくださらないことがあろうか」と言っておられます。神は私たちにご自身を現して、私たちと確かな繋がりを持って、罪から救い出し共に生きようと願っていてくださいます。
私たちはこの神御自身の働きによって救いの恵みに固く留まることが出来るのです。だからこそ、主に祈り求めるのです。主よ聖霊をお与え下さい、あなたの御心をお示し下さい、あなたが私の前に備えて下さった救いの道をどうか見ることができますように、あなたが今私と共にあってくださり、今も私のために救いの御業を成していて下さることをどうか知ることができますように、と。