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ふくしまの海

by いらくさ
  • カリウムに戻る、そしてセシウム
  • 愛とは、決して「被曝し合うこと」なんかじゃない!
  • 放射線の影響と亜鉛とアラキドン酸、そして植物の奇形
  • 過酸化脂質と銅、亜鉛、そして放射能汚染
  • 活性酸素と放射能とニキビ、そしておできの出来た鳥
  • 『メダカが田んぼに帰った日』と、太陽光パネルのせいで生き物が生きていけな〜い!
  • 磁気を帯びた火山灰は原発を機能停止させる?!川内原発再稼働反対!
  • ブログ「風の谷」再エネは原発体制を補完する新利権構造
  • 放射線問題と細胞環境維持への提言
  • 聖書の言葉を聴きながら
  • 風の匂いの中に
  • 以下に書いていることは私の思考過程のものです。古い記事は吟味しつつお読みください。

    2018-05-07

    西丸四方=著『病める心の記録』(中公新書)


     ぼくは二人の話を聞きながら考える。ぼくはなぜひとりぼっちなのか。それは本当の場所にいるのではないからだ。ぼくはほのかに本当の場所を求めている。本当の場所にいないから人としてしっくりいかない。

    (略)

     かわいそうに、お前は病気をしてからちっとも大きくならないような気がする。まだ子供みたいな体で ー でもずいぶんむつかしいことを考えているらしいじゃないか。気持だけは大人なみかな。それだけでもいいじゃないか。いまにぐんぐん大きくなるよ。丈夫になるよ。さあもう寝よう」
     父はぼくの背中を撫でてくれた。
     ぼくは気が休まる。しかし不安、疑いがまったく溶けたのではない。父の話は恐ろしく漠然としている。輪郭だけだ。もっとくわしいことがあるのにそれをぼやけさせているのではないのか。父を疑っては悪い。どうしてぼくは人をこう信じないのだろう。母が事故で死んだなどという話をしてくれたところをみると、あながち父がそう隠しているのでもあるまい。

    (略)

     どうせぼくなんかいてもいなくてもいい人間なんだ、とぼくはぼくにいい聞かせた。どこから来て、どこへ行くのかわからぬぼく。そういえば父だってそうだ。

    (略)

     生きるとはなにか、死ぬとはなにか、父とはなにか、母とはなにかの問題が頭の中をぐるぐる廻る。何回も何回も考えたことだ。

    (略)

     カズオやミツコが来る時にはよく本を持って来てくれる。(略)
     ある日、北原白秋という詩人の「雀の生活」と、聖書を持って来てくれた。玄光寺の和尚さんがぼくに読むようにとのことで、どこでも開いて、ぱらぱらと読んでごらん、とのことであった。和尚さんと聖書って妙なとりあわせね、とミツコは笑った。古い古いよごれた本、しかし不思議な本で、それを読んでいると、ぼくは雀になった。その時聖書を開いた。マルコ伝七章、ある女が気が違った小さな娘をなおしてくれと頼む。イエスは、子供に十分食べさせ、子供の食物をテーブルの下の小犬に投げてやってはいけない、という。女はテーブルの下の小犬も子供の食べ屑を食べるのです、という。イエスは、お前のこの言葉子供はなおった、という。ぼくは雀から犬になり、子供になった。そして涙があとからあとからと溢れた。ぼくの中で氷が溶けて流れ出した感じだ。ロボットが雀になり、犬になり、人間になった感じだ。あのきたない町の小鳥に餌をやる ー すっかり忘れていたことだ。こんな大切なことを。アパート屋根にも、ごみすて場にも雀はいた。ぼくはすっかり忘れていた。胸に暖かいものが込み上げた。

               西丸四方=著『病める心の記録 ある精神分裂病者の世界』(中公新書)より





    とあるサイト精神疾患の「連合弛緩」という用語解説を読んでやたらと腹が立った。それで以下のツイートをした。


    精神科医かどうか知らないけど」と書いて、もう一度サイトを見直すと、「当サイト管理人の診察を受ける事ができます。この記事を書いている先生の診察を受けたいという方は「受診のご案内」をご覧ください」と書いてあったので、受診なんて、するか!」と思った。
    というわけで、下のツイートへと続く。




    病気となれば神経伝達物質問題は基本にあると思うけれど、これは、この世界に正しい答が見出せないというところに根本的な問題を抱えているのだと私は思っている。別に統合失調でなくても、理解の及ばない事柄因果で捉えようとすることはいくらでもある。実際、世の中では関連のないものを関連づけていうことが多い。「世の中の方がよほど論理的でない思考で溢れかえっているだろ!」という思いが私の怒りの根底にある。








    2017-09-27

    腰椎3番と「ねじれ型」体癖、そして軟式テニス

     野口さんはこの体癖を「ねじれ型」と呼びましたが、それは腰椎3番を中心としたねじりの動きが柔らかいという特性を持っているということです。腰椎2番と3番の間が柔らかく上半身をねじる動きが鋭いのが7種の人。腰椎3番と4番の間が柔らかく、骨盤を中心とする下半身をねじる動きが鋭いのが8種の人です。(片山洋次郎=著『骨盤にきく』(文春文庫)より抜粋)

    札幌で、家族楊式太極拳を習っていたことがあった。夫と娘は続けて習ったが、私は自分に合わない気がして一年だけ習ってやめた。
    動きの中に、ねじる動作があったのだが、それが私はどうも出来なくて、家に帰ってから夫に確認したことがあった。夫が浜松で習っていた太極拳は、骨盤からねじるというか、まわすものだったが、楊式太極拳では骨盤は正面に向けたまま上半身だけをねじるのだという。それが私には難しかったのだ。体をねじろうとすると骨盤ごとねじってしまう。その後、体癖の本を読んだ時に、この時のことが思い出されたのだった。


    中学の時は、軟式テニスをやっていた。硬式テニスは数回しかしたことがないので良くは知らないが、見たところ、硬式テニスは上半身をねじる7種の人向きではないかと思う。

    軟式テニスは、上半身をねじっただけでは打てないだろう。球の硬さやラケットの重さ、ガットの張りの強さが硬式テニスと違うのだから。
    テニス部に入ると初めの頃素振りを何度もやらされるけれど、構えの体勢からして右足先と左足先の方向が違う。これは、体全体のねじりを利用して球を打つということを表していると考えられる。だから常に、球の落ちる位置に素早く行って体勢を作らなければならない。足が速い者や、相手が打つ瞬間から球の落ちる位置判断する能力の高い者向きのスポーツだと言える。そして、8種向きだ。

    私は前衛だったのでついでに書けば、ボレーは腕を押し出すだけのものだ。自分の力で球を打つのではない。球に向かってラケットを固定して腕を押し出すことで、相手の打った球の強さをそのまま相手に返す行為だと思う。

    2017-09-26

    体癖9種と、愛を追い求めて生きること



    体癖について書かれた本(片山洋次郎=著『整体共鳴から始まる』)には、奇数種の人は主体的エネルギーを起動させる内発型であるのに対して、偶数種の人は外側からの働きかけや空間の条件によってエネルギーが起動される外発型だと記されている。体癖のことを検索してみると、これを発展させたかのように書かれたものがあった。つまり、偶数種の体癖の人は他者との関わりの中でしか生きられず、奇数種の人は一人で生きていけるというような内容である。中でも、9種は一人を好む傾向があるように記されてあったりする。

    20代の頃、牧師になろうかと思って牧師相談したことがあった。相談した牧師からは、「大勢に語るのではなく、日曜学校教師のように子どもや小さい群に語ることにも意義がある」というようなことを言われた。その時、心の中で感じたのは、「私は(福音を)語りたいと思っているわけではない」というようなことだった。けれど、実際問題その時の家の状況ではこれから神学校に行くというのも考えにくかったので、その場では何も言わず、それ以降はもう牧師になることも考えなかった。自分の中で答が既にある状態だからこそ相談するのだと何かで読んだか聞いた記憶があるが、そういう状態だったと思う。
    最近になって、夫にその時のことを話すと、「それは、牧師というより、修道女的なものを求めていたのだろう」というようなことを言われたのだった。確かにそうかも知れない、と思った。私の中では、説教をするとか福音を語りたいというより、「もっと神の近くへ」という感覚だったのだ。けれど、修道女になるというのも、家族(母)を置いてということが考えにくい状況だったのだ。

    そういった私、無意識の内に修道女希望しているような、一人で生きていけるという体癖9種の私に、神様結婚相手をお与えになったのだ。


    「愛を追い求めなさい」(コリント信徒への手紙一14:1)

    愛するというのは、対象を必要とする。他者との間で成り立つものである。

    人々の間で生きること、他者との関わりの中で生きることは、体癖9種の人間には時に煩わしいことと思える。
    しかし、神様は人の中で生きることをお求めになって、結婚相手をお与えになったのだ。
    その人生は、凡庸かも知れない。時に深遠なものから遠く感じられるかも知れない。そして煩わしく苛立つことが多いかも知れない。
    しかし、神様は隣り人を愛して生きることをお求めになっている。

    愛を追い求めること、それはつまり神を追い求めることに他ならない。
    何故なら、神は愛(ヨハネ第一手紙4:16)だからだ。

    2017-09-12

    片山洋次郎さんの「体癖」のこと2

    片山洋次郎さんの本で「体癖」について書かれたところを読んでいると、「血液型のような固定的分類でなく、個人の中にこれら六つの要素の濃淡があって、その偏り方で体質や性格の基礎が決まってくる」と書かれている。私は開閉型9種にほとんど当てはまるのだが、上下型1種にも共感する部分が多くある。

     上下型(頭脳型)1種は、頭に集まったエネルギーを言語的に整理することによって発散させている。
    (中略)
     頭脳型は眠りによってエネルギーを発散させる傾向も強いので、眠りが長く、また質は浅く、眠ることを好む。(片山洋次郎=著『整体共鳴から始まる』(ちくま文庫)より抜粋)

    片山さんの本は家に三冊あるが(実は夫が買ったもの)、その中で私はこの本が一番読みやすい。図とか絵とかがあまりなく、文字で書かれた部分が圧倒的に多いからだ。

    自分にぴったり当てはまると思える9種なのだが、「F1のレーサーの顔つきを見ると、眼と眼の間の間隔が狭い。激しい意識の集中の結果そうなるともいえるが、体質的にも9種の傾向が強く、骨盤も縮んでいる」(『整体。』)というようなところを見ると、顔つきは違うな〜と思う。
    外側から見ると私は穏やかそうに見えるようで、娘は子どもの頃から同級生などに「優しそうでいいねぇ」と言われることが多かったようだ。最近も牧師の娘仲間から「優しそうで穏やかそうでいいね」と言われたらしく、「うちの母は中身は苛烈な人だよ」と中身のあれこれを話して聞かせたら、どん引きされたと言っていた。私くらい優しい人間はいないだろうと自分では思っているのだが。

    別の本に、9種の人は、「睡眠は短く深く、蹴飛ばされても起きないほどです」(『骨盤にきく』)と記されているのだが、これも全く当てはまらない。若い頃は、家に帰ってくると寝ていた気がする。働いていた時、就寝は夜10時だった。土曜の午後はずっと寝ていて、月に何回か生け花を習っていたのだけど休んでばかりで、一応習っていたという年数だけは長いのだが、実質通った時間を纏めると、本当に習っていたと言えるのだろうか?というような時間にしかならない。日曜も、礼拝から帰ったらお昼を食べて午後は寝ていることが多かった。借りてきた説教テープを聴き直すこともあったが。

    自分では当てはまらないように言っているが、娘も、この上下型に当てはまるように思う。子どもの頃は寝るのを嫌がり、保育園でもお昼寝が嫌で登園拒否したことがあったが、今は、気疲れが激しいらしく寝てばかりいる。

    2017-09-11

    片山洋次郎さんの「体癖」のこと

    片山洋次郎さんの体癖について読んでいると、私は開閉型9種にぴったり当てはまる。

     とくに9種は(内側と外側を強く区別するわけだから)、周りの空間との緊張感が強く、周りにいる人もその空間の緊張をダイレクトに感じる。
    (中略)
     内側に過剰に集まったエネルギーと外部の緊張が、周りの空間全体に緊張感の強い磁場を生むといえる。9種の人が何かに集中していると、目の前のことだけでなく背中側や周り全体に意識がはりめぐらされていて、背後の人のヒソヒソ話も聞こえていたりする。
    (中略)
     車に乗って走っている場合、車高が低い=目の位置が低い車体ほど生のスピードを感じる。…。狭い道と広い道では狭いほうがスピードを感じ、見通しが広々としているほどスピード感は少ない。体癖的にいえば、骨盤型9種が一番スピードが好きで(狭い道も好き)、エネルギーも身体下部に集まっている。(片山洋次郎=著『整体共鳴から始まる』(ちくま文庫)より抜粋)

    礼拝で私は、目を瞑って説教に集中しようとするのだが、目を瞑ることで目の前の余計な情報は遮断することが出来るのに、後ろ側の雑音が耳に入ってきて困るという場合がある。それでだいたい一番後ろの席に座る。私の隣の席に座りに来る人はほとんどいない。娘くらいのものだ。

    車の運転ではスピードが出やすい。ゆっくり走ろうとすると眠ってしまいそうになる。それで、過去にスピード違反で罰金を払ったことが何度かある。何度目かの時、あまりに高額だったから、以後絶対にスピードは出さないと決意して法定速度で走ろうとすると眠くなって逆に事故を起こしそうで参った。札幌でのことだ。こちらは道が狭いので、私には合っているのかも知れない。夫は道の狭さに辟易しているが。

    外に拡がって行こうとする5種の人間を私のような9種の人間があまり厳しく指導すると、その人の良さを壊すことになるかも知れない。基本的なものをしっかり身につけさせたら、速やかに手を放さなくては。